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自己紹介と初めての海外と辞書。

まず簡単に自己紹介です。
名前は工藤聡(クドウサトシ)で生まれは北海道小樽市です。
物心ついた時からずっとスキーをやっていて、縁あって今もスキーの仕事を続けています。

スキーの本場はヨーロッパということもあり、今でもちょくちょく海外に行くことが多いのですが、題名にあります「はじめての海外」と言う事は、文字通り海外に初めて行ったときの思い出を書いてみようと思いました。

初めて海外に行ったのは1993年の10月。14歳の時でした。
ヤマハスキーチームのオーストリア合宿に参加するために当時、学校を休んで札幌の旧道庁に母親と一緒にパスポートを作りに行きました。
田舎の中学校だったのでパスポートを作ること自体が目新しくて同級生に色々と聞かれたことを思い出します。
パスポートが出来上がってからは出発までの日が待ち遠しくて無くさないように枕の下に入れたりして、寝ていました。

いよいよ出発当日となり北海道から成田空港に行き、どこのホテルか忘れましたが成田空港近くのホテルに前泊して、時差調整と強がりながら緊張して全然寝れなかったことを思い出します。

成田空港からはJALの成田〜モスクワ経由〜チューリッヒで、冷戦終結に伴ってシベリア上空を飛べるようになった航路でした。
当時はデジタルカメラもなかったので写ルンですを2つぐらい持っていき飛行機の窓からずっと写真を撮っていましたが、モスクワの多分シェレメーチエヴォ空港だと思いますが写真を撮っちゃダメ!とCAさんに注意されたのを覚えてます。

団体旅行のおばちゃんも同じ飛行機だったけど構わずバシバシ撮っていて本気で怒られていてびっくりしたな。

当時は席を移動することも勝手もわからず、五人がけシートの真ん中でヨーロッパまで緊張しっぱなしでした。

チューリヒに到着し、タラップから降りて初めて海外の地を踏んだときの感動は今でも忘れられません。

そこからはバスで移動して、リヒテンシュタインを経由してオーストリアのヒンタートックスでのトレーニング。
当時はEUではなくそれぞれの国境でのパスポートコントロールはとにかく厳しかった。
ですので国境通過待ちは今のように簡単ではなく、やましいことは何もないのになんかざわざわした気持ちになったことを思い出します。

無事にヒンタートックスの麓の村であるLanersbachに泊まり、途中でスキー場のすぐ近くのホテルに移動し、2週間ほど練習し、カウナタールでのトレーニングでしたがここでも強烈な思い出があります。

オーストリアでは10月くらいになると、牛の糞を養分にするためなのでしょうか、牧草地にばら撒くのでLanersbachやFeichten周辺はとても独特な香りに包まれるわけですが、ここでのコンディショントレーニングはその糞をばら撒いているであろう牧草地でのサッカー、そして1分30秒の逆立ち、謎の鉄のバー(膝下くらいの高さ)の1分30秒ジャンプ、腹筋は1000回、床に頭がつくまでが求められた柔軟体操など当時のヤマハチームのコーチたちは愛情たっぷりの中にも冗談抜きで文字通りGo Hard or Go Homeの雰囲気が醸し出され、手を抜くことが許されなかったです。

当時の雪上練習は天気が悪くならない限り、休みはなく、朝に山に登ってトレーニング開始、終わるのは昼を過ぎた13時くらいまで基本練習〜フリースキー〜ゲート〜基本練習といったスケジュールでとにかく厳しかったけど、今の礎になっていると言っても過言ではありません。しかしながら見るものや食べるもの、全てが初めての体験でスーパーで水を買えば炭酸水のみでSpeziをとにかく飲んでいました。

最終日にはカウナタールのダムから麓の村まで、どれだけショートカットしても良いからランニングだ、と言われ、何度も車の中からインスペクションをしたことも懐かしい思い出です。

この写真はスキーを通じ苦楽をした親友の萱原とインスブルックの黄金の小屋根の前で撮ったものです。

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この時は今のDezやトイザらスがあるところのヤマハの事務所の掃除をしてからマンダリンに連れて行ってもらって記憶があります。

ヤマハが世界戦略をし始めて、事務所には1992年アルベールヴィル五輪回転で金メダルを獲得したFinn・Christian・Jageeや当時の日本代表の選手のスキーがたくさんあったのを覚えています。

まさか30年近く経った今、異国の都市であるインスブルックを気ままに歩けるようになるとは当時は微塵も思いませんでした。

それも当時、私の恩師であった大高さん(ヤマハスキーチーム監督〜ハートスキーチーム監督)が、あれを借りてこい、これを持ってこい、と半ば強制的にドイツ語やら英語やらでコミュニケーションを取らせてくれたおかげです。

単語がわからないのですが?と聞くと一言だけ、「調べろ」。

最初の遠征には辞書を持っていかなかったので、その重要性を痛感し、帰国したのちに祖父からもらったお小遣いで辞書を買い求めました。

その辞書は今だに私の相棒として一緒に旅をしています。

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※1993年に買った和英辞書、辞書はいくつか買い求めたけど、この辞書だけは手元にずっと残ってる。

こんな感じで当時の思い出や忘れ得ぬ出来事を忘備録として書いていったり、これからの遠征などでも起こるであろうドタバタ劇を記していこうと思います。

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