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一人勝手に回顧シリーズ#小津安二郎編(25)#宗方姉妹/姉妹の愛

【映画のプロット】
▶︎姉妹
京都。大学の時計台。キャンパスを行き交う学生。内田教授が、病理学の講義。
"...僕の友だちで、これは、学生時分、おんなじ寮にいて、いつも賄い生活の大将だった男なんだが、これが今、胃ガンで、刺激物はいかん、酒はいかんと言ったら、タバコだけよせと言うまいなと、こう言うんだね。それに、最近は、酒も飲み出した。これは、普通、考えると、とうに死んでいなければならん男だが、なかなか元気で、まだまだか、当分、死にそうにない。こういう奴にかかると、僕も丸っ切り、信用がない。どうも困った奴が友だちで。"
内田の研究室。宗方節子(田中絹代)が待つ。
"やあ、待たせたね、節ちゃん。"
"おじさま、暫く、ご機嫌よう。"
"ああ。ご機嫌よう。いつ、来た?"
"夕べ。"
"そう。満里ちゃんと一緒かい?"
"ええ。" 
"そう。ご主人、お元気かい?三村君。''
"ええ。" 
"そうかい。"
"見た?手紙。"
"ええ。それで急に。"
"そう、いやあ、別に、そう急ぐこともなかったんだけど、でも、なかなか元気だろ?父さん。"
"ええ。"
"今も教室で、話したんだが、なかなか頑固な親父さんだよ。まあ、頑固だから、もってると、言えるんだが。"
"そんなに、悪いんでしょうか?"
"よかないね。"
"よくないって?"
"悪いんだよ。"
"おじさま、おっしゃってちょうだい。おっしゃって、はっきり。"
"節ちゃん、いいかい、がっかりしちゃいけないよ。"
"ええ。"
"後、長くて1年。せいぜい、半年くらいじゃないかと、思うんだ。しかし、もちろん、例外もあるんだが。"
"そのこと、お父様は、知っているんでしょうか?''
"いやあ、それは知るまい。なんなら、満里ちゃんにも、知らせない方が、いい。"
節子は、黙ってうなずく。
"宗方は、いい奴だよ。僕にも、いい友だちだ。節ちゃんたちにも、いいお父さんだ。あんないい奴は、滅多にいないよ。
自宅で、新聞に目を通す宗方(笠智衆)。
満里(高峰三枝子)が、お茶を運ぶ。
"お父さん、ここの井戸、随分、深いわね。"
"うん。"
"冷たい水。"
"一体、何時頃、起きるんだい?"
"早いわよ。"
"どうだかな。"
"今朝は、特別よ。お姉さん、出掛けたの、ちっとも知らなかった。"
"置いてかれちゃったんだよ。お前、お転婆だから。"
満里は、舌を出す。
"起こしてくれりゃ、起きたのよ。黙って、行くんだもの。"
田代(上原謙)が、やって来る。
"こんにちわ。"
"やあ。"
"また伺いました。"
"さあ、どうぞ。"
"満里子さんですか?"
"そうだよ。ねえ、満里子、覚えているだろ?田代君だよ。" 
"ええ。"
"随分、大きくなられましたね。以前、お目にかかったっきりで。"
"そうかね、それじゃあ、大変だ。"
"私、まだ女学校の2年生くらい。"
"ふーん。じゃあ、君が、フランスに行く前だね。"
"ええ。あの年の秋、行ったんですから。"
"そうだったかな。"
"いつ、来られたんで?"
"夕べ。"
"一人で?"
"いいえ。お姉さんと一緒。"
"そうですか。僕も、時々、東京に行くんだけど、これでは、道にかかっても、ちょいと、分からないですね。" 
"うーん。どうも、なりばっかり、大きくなって、どうして、なかなか勇敢だよ、はっきりしたもんだよ。今、舌出すよ。"
満里子は、舌を出し、立ち上がる。
"おい、どこ行くんだい?"
"今、お茶淹れます。"
"さ、どうぞ。"
"あ、こないだ借りた本、なかなか面白かった。"
"そうですか?" 
"満月にいた時分、なかなか評判でね、仲間から借りたこと、あるんだけど、その時は、あまり面白いと思わなかったんだけど、今、読んでみると、なかなか面白いね。" 
"そうですか。"
満里子が、戻って来る。
"沸いてたか?お湯。"
"ええ。"
"いいお天気。"
"田代君にお願いして、どこか連れてってもらい。"
"どうです?神戸。"
"田代さん、神戸にいらっしゃるの?"
"ええ。" 
"神戸で、何してらっしゃるの?"
"家具、こしらえてます。"
"家具?"
"椅子やテーブル。"
"ああ、ファニチャー?"
"これには、英語で言わないと、分からないらしい。英語が、だいふ得意らしい。また出すよ、舌。出さないかなあ、今度は。出すなら、もう出ている時分だ。感心に、今度は、出さない積もりらしいぞ。出さないこともあるのかな?" 
満里子は、数回、舌を出す。

姉妹が、お寺の縁側に腰を下ろし、食事をとる。
"お姉さん、お茶。"
"ねえ、ここ、薬師寺?" 
"そうよ。"
"さっきも薬師寺って、言ったじゃない。"
"それは、新薬師寺よ。"
"あ、そうか。"
"どう?満里ちゃん。"
"いいわね、何となく落ち着くわ。もう、14、5年になるかしら、宏さんと、ここ来たことがあるの。その時も、ここでお弁当食べたの。"
"分かったわ、私。"
"何?"
"お姉さんか、お寺、好きな訳。宏さんのせい。"
"そうかしら?"
"私、嫌いだな、お寺。"
"だって、あんた、さっき月光菩薩、感心して見てたじゃない。" 
"ああ、これ?だって、色が黒くて、篠田さんの奥さんに、似ているんですもの。"
"仏さんって、皆、同じじゃないの。ただ、こうやってるか、こうやってるかの違いだけじゃない。" 
"あんたにかかっちゃ、敵わない。ねえ、今から、唐招提寺、行ってみない?"
"また行くの?" 
"そうよ。ここまで来たんだから。"
"やだなあ、どうして、こう、沢山、お寺あるのかしら。" 
"さ、行くのよ。早く。"
"早く、早く。"

神戸。田代のアトリエ。
"よく来たね、満里ちゃん。知らせてくれれば、迎えに行ったのに。"
"ううん。大丈夫。タイガース好きだから、阪神で来ちゃった。" 
"そう、満里ちゃん、野球、好き?"
"好き。" 
"あ、そう。あっちの部屋、行こうか。"
"え。"
"上がるよ。"
"まあ、素敵。いいわねえ。"
"お掛けよ。"
"いいわあ、とっても素敵。"
"これ、どこのお人形?"
"フランスだよ。ブルターニュ、行った時、オークションで、買ったんだ。"
"そう。昨日、薬師寺行ったの。宏さんも、昔、お姉さんと一緒に、行ったことがあるんですってね。"
"ああ、満里ちゃんも、仏様、好き?"
"大っ嫌い。今日も、お姉ちゃん、お父さんと、嵯峨の方へ、お寺巡りに行ったのよ。だから、私、こっちに来ちゃった。"
"そう。"
"宏さん、奥さんはお留守?"
"いないよ、奥さんなんか。"
"いないの?ないの?"
"ないよ。"
"本当?"
"ああ。上がりよ。"
"ねえ、どうして、ないの?"
"何が?" 
"奥さん。"
"どうしてって、ないんだよ。"
"じゃあ、あれは?" 
''何?" 
"愛人。"
"それもいないね。"
"昔から?"
"ああ。"
"嘘だあ。" 
"ちょうだいね。"
"満里ちゃん、タバコ吸うの?"
"うん。時々ね。でも、お姉さんには、内緒。"
"そう。" 
"知ってんのよ、私。"
"何を?"
"宏さんの愛人。"
"僕の愛人?"
"見ちゃったのよ、お姉さんの日記。分かってんのよ、私、色んなこと。"
"どんなこと?"
"1937年。お姉さんは21、宏さんは大学生。" 
"嫌に古い話だね。"
"雪の晩、覚えてる?帝劇を出た二人は、お堀端を歩いていた。雪は、しんしんと降り続き、音もなく、お堀の水に消えていった。彼もまた、黙っていた。あんたよ。彼女も黙っていた。お姉さんよ。二人とも若かった。よく見ると、手を握っていた。"
"ふふ、あはは。そんなこと、しなかったよ。"
"黙って。手は、握っていなかったかも知れないが、握りたい気持ちは、十分、あった。そして、いつまでも歩いていたい二人である。素敵だな。"
"素敵だね。"
''やがて、彼は言った。ね、寒くない?節ちゃん。彼女は、答えた。いいえ。そして、ショールをかき合わせながら、今度は、彼女が言った。ねえ、寒くない?宏さん。♪らーら、らーら。" 
"うまいなあ、脚本。そんな経験あるんじゃないか?満里ちゃん。"
"彼女には、私よ、残念ながら、そんな経験は、なかった。彼は、今度は、あんたよ。"
''まだ、その先があるのかい?"
"あるある。それは、生暖かい、春の日の夕方だった。"
"今度は、別の日だね。"
"そう。由比が浜の波は、穏やかだった。"
"鎌倉だね。" 
"そう、忍び寄る闇の中に、二人はひたと、寄り添っていた。♪らーらら、らーらら"
ドアがノックされる。
"はい。"
洋装の女が入って来る。 
"こんちわ。"
"あ、いらっしゃい。"
"あ、お客様でしたの?"
"満里さん。宗方さんの。"
"節子さんとか、おっしゃる方の妹さん?"
"ええ。"
"そう。" 
"真下頼子です。初めまして。"
''まあ、どうぞ。" 
"ちょいと、そこまで来たもんだから、お寄りしてみましたの。"
"何か、ご用?"
"いいえ。別に。これ、九ちゃんちが取れましたの。"
"これは、どうも。"
"第一部のバッハ、とてもいいんですって。4時頃、アラスカにいらして。お遅れになっちゃ、ダメよ。では、ご機嫌よう。"
''さよなら。"
"送りませんよ。"
"どうぞ。"
頼子は、職人に伝言する。
"ちょっと、お客さん、お帰りになったら、カトレアにお電話するようにって。どうぞ。"
"満里ちゃん、それからどうなるの?鎌倉。"
"ねえ、今の方、だあれ?"
"パリからの友だちだよ。"
"どなたの奥さん?"
"旦那様は、亡くなったんだけどね。"
"ふうん。今、お一人?何なさってんの?"
"北浜の家具屋さんだよ。大阪の。"
"ふうん。"
"それは、マロニエの花咲くパリの宵であった。"
"そんなんじゃ、ないよ。お友だちだよ。"
"彼は、お友だちを強調するのであった。でも、私、嫌いだなあ、ああいう人。"
"どうして?"
"あんな気取った人。"
"そうでもないんだよ。"
"でも、嫌い。あんな内緒事みたいな匂いがする人。"

宗方と節子が、食事をとる。
"お父さん、お疲れにならなかった?"
"いやあ、気持ちよかったよ。苔寺、馬鹿によかったよ。光線の具合か、苔が、とても綺麗だった。"
"椿の花が、一つ、苔の上に落ちて。"
"おう、お前も気がついたかい。あれは、良かった。昔からの日本の物にも、いい物があるよ。それを、頭から悪いことに言う考え方は、どうも、少し厚かまし過ぎるようだ。"
"お父さん、いいんです?そんなに、召し上がって。"
"この後、もういくらもないんだ。"
"もう、お止めになったら。" 
"うん。満里子、どうしたのかなあ?遅いね。"
"帰ったら、すぐ来るように、言っといたんですけど。"
"うん、やかましいやつだからね、あいつも。何かと、お前にも面倒かけてるだろう。"
"ええ、でもその割に。"
"そうかい。でも、三村が、何もしないで、遊んでいるのは、お前には、辛いことだね。ないのかい?口。"
"探してはいるらしいんですけど。"
"それで、お前のやってるバーの方は、どうだい?"
"まあ、どうにか。"
"やあ、そうかい。やれりゃあ、結構だけど。何だったら、大森のうち、使ってもいいんだよ。"
"だって、それじゃあ、お父さん、お帰りになった時。"
"やあ、いいよ。お父さん、ずっと京都にいるよ。やあ、あのうち、もう帰ることもあるまい。お父さん、もう長くもなさそうだよ。苔寺も、これで、お仕舞いだと思って、今日は、見てきたんだよ。ああ。うん、あの椿は良かった。"
バー"アカシア"。
男が水割りを作る。
"満里子さん。"
満里子が、水割りを運ぶ。
"お待ちどう様。"
"ありがとう。ばんちゃん、いつ帰って来たの?"
"2、3日前。"
"よかったかい、京都?''
"でも、神戸、よかった。"
"そう。"
節子は、編み物をする。
''これ、どう?お姉さん。"
"あの鼠色のスーツ、売っちゃって、これ、こさえようかな。"
"似合わないわよ、そんなファンシーなの。ドレープが、強過ぎるわ。"
"似合わないこと、ないさ。"
"似合うもんですか、あんたなんか。大きいお尻。"
"今日、何で叱られたの?"
"誰に?お兄さん?癪に触ったから、棚に上げて、放り出してやったのよ。私のセーターの上に、寝てるから。私だって、ハンドバッグ売り出されたんだもの。ちょいと、お兄さんの机の上に置いといた。同なしことよ、京都どうだったくらい、聞いてもいいのよ。" 
"いらっしゃい。"
"いらっしゃい。"
"ちょっと遅くなっちゃた。お冷、一杯。
ホステスが出勤する。
"美恵子さん、何だって?"
"兎に角、空けてほしいだって。"
"そう。" 
"ちょっと。"
二人は、隅で、ひそひそ話する。
バーテンが言う。
"こないだ、お留守中に、三村さん来られましたよ。"
"お兄さん?ここへ?何しに?"
"何ですか、すっと入って来られて、そこの所に、暫く立っておられて、黙って出て行かれましたよ。"
"何時頃?"
"ちょうど、閉めようと思った時で、土砂降りの晩でしたよ。青い顔して。"
"よしてよ。気持ちの悪い。"
▶︎三村
線路際の墓場。
眼帯をした三村(山村總)は、自宅で、本を読む。
"誰だ?" 
"満里子。"
満里子は、家を片付ける。
"兄さん。空きました?新聞。"
"まだ、読んでないんだ。" 
節子は、アイロンをかける。
"急いでんの?その話。"
"何?"
"お店。売られちゃうと、困るんでしょ?"
"うん、だからもう少し、待ってくださるように、お願いしてるのよ。"
"その話、お兄さんにした?"
"した。"
"何だって?お兄さん。" 
"誰だって、困るわよ。そんな急なこと。"
"取って、それ。"
"お前のいいように、しろでしょう。"
三村が、下りて来る。
"お出掛け?"  
"ああ。"
"お帰りは?"
"分からない。"
"はい。"
"要らない。"
"行ってらっしゃい。""行ってらっしゃい。"
満里子は、乱暴に、玄関を閉める。
"今朝、兄さん、私の牛乳、猫に飲ませたのよ。ココア飲もうと、思っていたのに。"
"いいじゃない。あんただって、よく飲むの忘れているのに。"
"ねえ、お姉さん、お兄さん、いつからだと思う?"
"何?"
"あんなになったの。"
"あんなのって?"
"変に、突っかかるじゃない。この頃。"
"お仕事がなけりゃ、いらいらするわよ。"
"そうじゃない。それだけじゃないわ。"
"それじゃ、何?"
"ほら、いつか、お兄さん、とても酔っ払って、遅くに帰った晩があったでしょ?去年。5月頃。あれからよ。そう、思わない?お兄さん、お姉さんの昔の日記、見たのよ。きっとそうよ。あの前の日だったかしら、夕方、満里子、二階を閉めにいったの。そしたら、兄さん、廊下の籐椅子で本、読んでて、急に、その本隠したの。黄色い表紙の本。"
"満里ちゃん、知ってたの?私の日記。"
"うん。きっとあれが、そうだったんじゃないかと、思うの。"
"私の日記、見たの?どうして、見たの?人の日記。悪いと思わないの?"
"だって、お姉さん、私時分、どうだったかと思って。"
"見られたって、いいのよ。昔の日記なんか。見られて困るようなこと、今の私、してないわ。"
"でも、お兄さん、見たら、どう思うかしら?宏さんのこと。"
"どんなこと?"
"雪の晩、二人で、お堀端歩いたり。お姉さん、好きだったんじゃないの?宏さん。どうして、宏さんと結婚なさらなかったの?ねえ、なぜ?"
"分からなかったの。私が、本当に宏さんを好きだと気付いた時に、三村との話が決まっていたの。"
"決まってたって、断ればよかったじゃないの。"
"だけど、宏さん、その時は、もうフランスに行ってしまってたのよ。"
ガード下。食堂の女と商売人風の男。
"どう?"
"女なんて、こんなもんだよ。"
"そんなことないよ。"
"そんなもんだよ。何てったって、怒ったようなふりしたって、その実、腹の中では、キープしてくれんの、待ってんだよ。"
"待ってなんかいないよ。"
"待ってるよ、そんなもんだよ。ねえ、先生。"
"ふふふ。清ちゃん、これ。" 
三村がいる。
"よお、おとつい、酷い目にあっちゃった。帰りは、オケラだ。"
"どうです?先生。今度の口当たりは?"
"ああ。"
"割り方、いけるでしょ?"
"酔うのは、前の方が早いね。"
"そうですかねえ?" 
"へい。"
"先生、猫、好きだね。"
"私、嫌い。勝手な時に、にゃあにゃあ、人の顔見てさ。犬の方が、よっぽどいいよ。人情があって。"
"猫は、不人情な所がいいんだ。"
"変わってるね、先生は。"
"だから、お前が好きなんだよ。"
"よしてよ。あたい、不人情じゃないよ。"
"そうか、人情あるのか?"
"あるって。"
"じゃあ、おいで。キスしてやろう。"
"何言ってんの?冗談でしょう。"
"あんな綺麗な奥さんがあるってのにねえ。言いつけるよ。"
"先生、若い方、妹さんですか?"
"ああ。" 
"奥さんの?"
"うん。"
"綺麗なご姉妹ですねえ。"
"先生なんかに、もったいないって。"
"そうか、もったいないか?"
"そうだよ。"
"もったいないか。"
バー。
節子は、日記を読み返す。
"田島さん、帰っていいわよ。"
"ああ。"
"もう、美恵子さん、いらっしゃりそうに、ないわ。"
"そうですか、奥さんは?"
"私、もう少し、いてみるけど。"
"そうですか。じゃあ、鍵をここに。お先に。"
"ご苦労さん。"
"お休み。"
田代が、店に入って来る。
"いらっしゃい。"
"暫くでした。"
"今日当たり、いらっしゃるんじゃないかと思ってました。満里子へのお葉書、拝見しました。"
"そうですか。今朝着いたんです。ご機嫌よう。"
"お変わりもなくて。"
"ええ。"
"こないだ、京都に来た時に、お目にかかれなくて。"
"私も。"
"おじさんもお元気で。昨日、お目にかかって来ました。"
"まあ。いつも、宏さん、よくおいでになるので、父も喜んでおりました。どうぞ。"
"ええ。"
"暫くですね。"
"ほんとに、暫く。"
"変わりませんね、節子さん。"
"そうでしょうか?"
"6、7年になりますね。"
"ええ、いつか、横浜で、お目にかかったきり。"
"ああ。あれは、僕が、フランスから帰って来た時。少しも変わらないな、節ちゃん。"
"そうかしら、宏さんこそ、ちっともお変わりにならない。昔のまんま。"
"ああ、これ?よく、言われたな。まだ、してますね、指輪。"
"ええ。あの時分、お婆さん臭いって、よく宏さんに言われましたけど。いつの間にか、私も、亡くなった母の年頃になりました。ごめんなさい、何も差し上げなくて。"
"いえ。今日は、満里ちゃん、どうしたんです?"
"今日、お休みなんですの、ここ。"
"ああ、どうしてなの?"
"おビール、召し上がる?"
"ええ。"
"お強くおなりになって?お酒。"
"いやあ。"
"あの時分、宏さん、ちょっと召し上がると、すぐに真っ赤だった。"
二人は、店を出て、夜の街を歩く。
"久しぶりに、お目にかかれて、今日は、愉快でした。兎に角、今の話、僕に任せてください。"
"でも、そんなことで、ご心配をおかけしちゃ。"
"いや、いいんだ。お金のことだったら、何とかなりますよ。じゃあ、三村さんによろしく。じゃ、お休みなさい。" 
二人は別れる。
満里子が、田代の帰りを待つ。
"あ、お帰りなさい。"
"いらっしゃい。"
"こないだは、どうも。"
"いや。いつ来たの?"
"30分ほど前。"
"夕べ、お店いらしたんですね。"
"ああ、満里ちゃん、留守だった。"
"バレエに行ってたの。"
"面白かった?"
"うん。宏さん、いつまでいるの?東京。"
"軽井沢行ったんで、後、2、3日。"
"そう。満里子、今、暇なの。遊べる?"
"ああ、遊ぼうか。"
"うん、でも、満里子、お金ないのよ。宏さん、奢ってくれる?"
"ああ。いいよ。"
"すげえな。すごい、すごい。"
"お帰りなさいまし。"
"ああ。"
"今朝ほど、お出ましになりますと、お電話がございました。"
"どこから?"
"箱根から。"
"箱根?" 
"はあ、真下さんと、おっしゃる方から。後ほど、またお電話するからと、おっしゃってました。"
"そう。"
"真下さんってだあれ?頼子さんでしょ。"
''ああ。"
"頼子さん、どうして、箱根にいらしたのかしら?"
"分かってんだ、満里子。"
"何?"
"ランデブー、頼子さんと、箱根で。"
"そんなことしないよ。"
"本当?"
"ほんとさ。"
"ほんとかな?"
"ほんとだよ。"
"分かってんだ、満里子。前から、打合せしてあったらしいぞ。どうも彼は、少し臭いのである。"
"そんなことないよ。"
"だが、彼女は、それを信じないのであった。"
"どう?"
"彼は、買収にかかるのである。彼女は、危うく買収されかけたのである。でも、タバコなんかでは、ダメである。"
"じゃあ、何だい?"
"何だいと、聞かれても、困るのである。"
"困った娘さんだよ。"
"困ったのは、彼である。隠してもダメなのである。"
"隠しては、いないよ。"
"本当?"
"ほんとだよ。"
"ほんとかな?"
電話が鳴る。
"電話よ。私、出る。
"おい、満里ちゃん。"
"もしもし、もしもし。はあ、はあ。(頼子さんよ。)田代さん、先程、一度、お戻りになって、またお出掛けになりました。もしもし。何だか、婆やと軽井沢に、お出掛けになりました。"
"満里ちゃん。おい、満里ちゃん。"
"はい、左様でございます。いえ、別に、何も伺っておりません。はあ、はあ。ごめんください。"
"しょうがないな。何か、用があったかも知れないんだよ。"
"ある訳ない。ありゃ、ここへ来る。"
"彼は、大変、困ったのである。タバコを吸っても、うまくはない。"
"満里ちゃんには、抵抗できないよ。"
"彼は、遂に降伏した。少し、可哀想である。"
''もう、降参だよ。"
"降参したら、許してやる。その代わり、満里子の言うこと、聞くのよ。"
"うん。"
"一つ、箱根に行っては、いけない。二つ、電話もかけてはいけない。三つ。"
"まだあるのかい?"
"うん。三つ、これから満里子と遊びに行く。少し、お腹が空いた。何か、おいしいものを、食べる。いい?"
"いいよ。"
箱根の別荘。ヒグラシが鳴く。頼子は本を読む。
"もうひとかた、お夕食は、どうしましょう?"
"ああ、いいの。あの、晩は、私、急行で帰りますから。下り、何時だったかしら?"
"はっ、見て参ります。"
"どうぞ。"
節子の家。猫が戯れる。節子は本を読む。来客が告げられる。
"だあれ?満里ちゃん?"
"私。"
"開けといて。"
鼻歌を歌いながら、満里子が帰って来る。
"ただ今。お兄さん、まだ?"
"うん。"
"遅いわねえ。"
"あんたこそ、遅いじゃないの。何時だと思っているの?いい気になって。"
"だって、たまの休みだからいいじゃない。"
"今日だけじゃないわよ。こないだ口から、ちょいちょいじゃないの。"
"だって、こないだ口は、宏さんと一緒だったんだもの。うちに帰ってきたって、ちっとも面白くありゃしない。"
"満里ちゃん、あなた、お酒飲んでいるのね?どこ、行って来たの?"
"映画見て来たの。"
"それで、こんなに遅くなる?"
"帰りに、前島さんに逢ったのよ。前島さん、お友だちと一緒で、面白いから、くっついてったのよ。"
"あんた、そんなこと、面白い?"
"面白い。"
"何が面白いのよ?"
"だって、家にいちゃあ、くさくさしちゃうんだもの、陰気臭くて。私、お兄さんの顔、見たくないのよ。"
"満里ちゃん、色んなことで、あんたがくさくさするの分かるけれど、でも、それが、かえっていけないんじゃ、ないかしら?"
"なあに?"
"それが、かえってお兄さんをいらいらさせるのよ。"
"じゃあ、私、どうすればいいの?"
"もっと、穏やかにしてほしいの。"
"してる積もりよ。でも、お兄さんがさせないのよ。私が悪いんじゃないわ。"
"でも、おんなじうちにいりゃ。"
"だから、尚更の事よ。お兄さんが、もっと皆んなに、優しくすれば、いいのよ。"
"だって、お兄さん、お仕事、ないんですもの。"
"だったら、もっと一生懸命、探せばいいのよ。黙って、突っ立ってて、椅子が空くのを待っているのよ、お兄さんは。そんなことで、私たちまで、暗くさせられることは、ないわ。"
"満里ちゃん。"
"そうじゃないの。私、お姉さんにだって、言いたいこと、沢山あるのよ。あんなお兄さんに、我慢していること、ないわ。お姉さんの気持ち、お兄さん、何も分かっていやしないのよ。お姉さん、詰まんないと、思わない?"
"満里ちゃんには、まだ分からないのよ。"
"何が?"
"そんなものじゃないのよ、夫婦って。いつもいい時ばかりあるもんじゃないわ。お互いに、我慢し合ってこそ、やって行けるのよ。そういうもんなのよ。"
"それじゃあ、夫婦なんか、詰まらない。"
"詰まんなくない。それで、よくなるのよ。"
"それは、お姉さんの考え方よ。満里子、嫌だわ。"
"嫌だって、しょうがないのよ。"
"嫌い。そんな古い考え方。"
"何が古いのよ?"
"古いわよ、古い、古い。お姉さん、古い。"
満里子は、席を立つ。
満里子の部屋に、節子が入る。
"満里ちゃん。私、そんなに古い?ね、あんたの新しい事って、どういう事?どういう事なの?"
"お姉さん、自分では、古くないと、思っていらっしゃるの?"
"だから、あんたに聞いているのよ。"
"お姉さん、京都行ったって、お庭を見たり、お寺を回ったり。"
"それが、古い事なの?それが、いけない事?私は、古くならない事が、新しい事だと思うのよ。私は、本当に新しい事は、いつまで経っても、古くならないと思うのよ。そうじゃないの。あんたの新しいって事は、去年、流行った長いスカートが、今年は短くなるって事じゃないの?皆んなが、詰めを赤く染めれば、自分も赤く染めなければ、気が済まないって事じゃないの?明日、古くなる物だって、今日さえ、新しく見えりゃ、あんた、それが好き?前島さん、見てご覧なさい、戦争中、先に立って、特攻隊に飛び込んだ人が、今じゃそんな事、ケロっと忘れて、ダンスや競輪に夢中になってるじゃないの。あれが、あんたの言ってる新しい事なの?"
"だって、世の中が、そうなんだもの。"
"それが、いい事だと思ってるの?''
"だって、しょうがないわよ。いい事か、悪いことか、そうしなきゃ、遅れちゃうんだもの。満里子、皆んなに、遅れたくないの。"
"いいじゃないの、遅れたって。"
"嫌なの。そこが、私とお姉さんとで、違うのよ。育った世の中が、違うんだもの。私は、こういう風に、育てられて来たの。悪いとは、思ってないの。私、行って、お父さんに相談して来る。"
"行ってらっしゃい、お父さん、何とおっしゃるか。"
満里子は、父を訪ねる。
"どっち?ねえ、お父さん。"
"うん。そりゃ、姉さんは姉さん、お前はお前だ。どっちが、いいとか、悪いとかいう事じゃ、ないよ。お前は、お前のいいように、やりなさい。"
"やっていい?満里子の思うように。"
"いいとも。ただ、間に長い戦争があったからね。まあ、段々によくなるんだろうが、人がやるから、自分もやるというんじゃ、詰まらないね。よく考えて、自分がいいと思ったら、やるんだよ。自分を大事にするんだねえ。"
"姉さん、どうだい?三村と。お前から、見て。うまく行ってるらしいかい?"
"分かる?お父さん。"
"どうなんだい?"
"お姉さん、どうして宏さんと、結婚はさらなかったの?" 
"うん、うまく行かないかい?困ったねえ。早く、三村に口でもあれば、いいんだよ。"
"満里子、見てご覧。ウグイスが、また来たよ。"
"あ、うんこした。"
"うん。"
満里子の鳴き真似に、ウグイスが応える。
"どう、お父さん。"
鳴き真似を繰り返すが、もうウグイスは、応えない。
田代のアトリエ。
"満里子、神戸気にいっちゃったな。お金持ちになったら、神戸に住んでやろうかな。"
"どうして?"
"すき焼きは、美味いし、お酒はいいし。"
"満里ちゃん、お酒の味、分かるの?"
"分かるって。" 
"そう。"
"お酒は、灘に限るって。"
"じゃあ、さっき、もっと飲めば、よかったね。"
"うん。満里子、うんと、お酒飲んで、酔っ払ってみたいんだ。"
"どうして?"
"だって、面白いじゃんか。うちが、グルグル回ったり、電信柱がひっくり返ったり。ある、宏さん?そんな経験。'' 
"いや、ないね。"
"そう。面白いと、思うんだ。小さい時、木馬に乗っても、面白かったんだもの。ねえ、男女が恋愛するでしょう。"
"ああ。"
"でも、どっちからも、好きだと言えなかったら、どうなる?"
"そりゃまあ、ダメだね。"
"宏さん、だらしなかったのねえ、昔。"
"何で?僕のことかい。そりゃ、今でもだらしないさ。"
"ねえ、お姉さんから好きだと言ったら、宏さん、どうした?結婚した?"
"さあ、忘れたよ。昔の事だから。"
"そんな事ない。忘れる訳ない。宏さん、お姉さんから言い出すのを、待っていたんだ。そこが、彼のいけない所である。よく似ているのである、お姉さんと。ねえ、宏さん、何で先に言い出さなかったの?"
"自信がなかったんだよ。"
"何の自信?"
"節子さんを幸福にする。"
"嘘だあ。そんなことない。絶対ない。あんなに、お姉さん、好きだったくせに。宏さんて、いつも相手が言い出すのを待ってる人よ。"
"そんなことないよ。''
"そうよ。そういう人よ。もし、これで、頼子さんが、結婚申し込んだら、宏さん、どうする?結婚する?しない?彼には、プロポーズする元気も、断る元気もないのである。それで、お腹の中では、今でもやっぱり、お姉さんが大好きなのである。ねえ、宏さん、結婚しない?満里子と。ねえ、結婚してよ、満里子と。ねえ、結婚して、ちょうだい。ねえ、満里子、宏さん、大好き。ねえ、してくれる?満里子と。ねえ、結婚して、ちょうだい。ねえ、結婚して。ねえ、何とか言って。ねえ。"  
"どうしたんだ?満里ちゃん。"
"ねえ。結婚して。"
"どうして、そんな事、言うんだい?"
"満里子、頼子さん、嫌いなの。大っ嫌いなの、あの人。宏さんが、お姉さんと一緒だったら、満里子、素敵だと思うの。宏さん、お姉さん好きなのは、いいの。でも、頼子さん、好きになっちゃ、嫌。あんな人、好きになっちゃ、嫌。あんな人、大っ嫌い、満里子。ねえ、結婚して、満里子と。ねえ。"
"そんなこと、言っちゃいけないよ。満里ちゃん。それは、満里ちゃんの本心じゃないよ。"
"ううん、本心よ。満里子、本気よ。" 
"でも、満里ちゃん、そんな事言うと、後できっと、嫌になるよ。"
"ならない。ならない。"
"そんな事、言っちゃいけない。満里ちゃんがそんな事を言っただけで、それを僕が聞いただけで、満里ちゃん、きっと僕から、離れていく。ね、考えてご覧、よく考えてご覧、それは、きっと満里ちゃんの本心じゃないよ。"
満里子は、掴まれていた腕を解く。
"宏さん、冗談だと思っているのね。嘘だと思っているのね。いいわよ。そんならいいわよ。満里子、泣いちゃうから。"
"満里ちゃん、おい、満里ちゃん、満里ちゃん。"
満里子は、部屋を飛び出す。
満里子は、頼子の家の応接で待つ。
"すぐ、いらっしゃいます。"
"あ、いらっしゃい。"
"こんちわ。"
"暫く。ご機嫌よう。"
"いつ、いらしたの?"
"2、3日前。"
"よくいらして、くださいましたわね。さあ、どうぞ。"
"いつも綺麗で、お可愛いこと。お姉さん、ご一緒?"
"いいえ、私だけ。" 
"そう。でも、本当によく。"
"今、宏さんに逢って来たんです。"
"そう。"
"私、結婚申し込んだんです。"
"どなたに?"
"宏さんに。"
"あなたが?"
"ええ。お姉さん、昔から、宏さん、好きなんです。だから、私が、お姉さんの代わりになろうと思って。"
"まあ、愉快な方。お姉さん、何とおっしゃるかしら?"
"喜んでくれるわ。"
"そうかしら?お喜びになるかしら?"
"おばさん、そう思いません?"
"私も、そう思いたいのよ。だけど、少し単純過ぎない?"
"おばさまからも、そう言ってください。"
"なあに?"
"結婚の事を。宏さんに。"
"そりゃ、お話してあげてもいいわ。"
"お願い、約束して。"
"ええ、いいわよ。"
"ほんとよ。"
"でも、あなた、宏さんのどんな所がお好き?例えば、どんな所が、お気に召して?ねえ。"
"優しいし、可愛がってくれる。" 
"それから。"
"綺麗好きで、清潔で、お金があって。"
"まあ、素敵、いいことだらけ。"
"たった一つ、とても嫌なことがあるんです。"
"まあ、どんな事?"
"とっても、嫌な奴がいるんです。お友だちに。"
"まあ、どんな方?"
"おばさまが、一番よく知っている人。"
"私が?"
"ええ。とってもやな奴。大っ嫌い。"
"大っ嫌い。"
満里子は、部屋を出る。飾り物の鎧を小突き、スリッパを放り上げる。
節子の家。節子と三村。三村が薬缶を差し出す。
"水。"
"はい。"
三村は、薬を飲む。
"満里子は?"
"さっき、出かけました。" 
"タマ、タマ。"
猫を呼ぶ。
"あたし、お店に出かけますけど。ご用ありません?"
"付けてくれたか?ボタン。"
"あっ。"
"どうした?店の方。"
"え?" 
"揉めてたの、どうなった?"
"あ、片付きました。どうにか。"
"出来たのか?カネ。"
"ええ。"
"借りたのか?誰かに。"
"ええ。いい塩梅に。"
"誰に?"
"田代さんに。"
"来たのか、田代。"
"ええ、こないだ。"
"いつ?"
"20日ほど前。はい。"
"どうして返すんだ?そのカネ。"
"月々。"
"月々?"
"ええ、少しずつでも。"
"返せるのか?"
"ええ。何とか。"
"どうして、そのことを俺に言わなかったんだ、今まで。言えなかったのか?" 
"いえ。"
''なぜ、言わないんだ。借りた相手が田代だからか?"
"いいえ、そんな事ありません。"
"じゃあ、なぜ、言わないんだ。言えない理由が、どっかにあるんだろう。俺に知られては、困るのか?困ることでもあるのか?"
"いいえ。そんな事。"
"じゃあ、なぜ黙ってたんだ。なぜ、今まで、黙っていたんだ。"
"済みません。"
"田代、ちょいちょい出て来るのか?"
"ええ。"
"そのたんびに、お前は、逢っているのか?"
"いいえ、こないだ初めて。"
"嘘をつけ、初めて逢って、カネが借りられるか。"
"でも。"
"でも、何だ?"
"いい加減な事を言うな。それとも、お前にカネを貸さなければならない弱みが、田代にあるのか?" 
"そんな事ありません。そんな事じゃないんです。私が困っているのを見て、田代さん、ほんとに心配してくれたんです。"
"そんな事は、分からない。"
"いいえ、宏さん、そんな人じゃ、ありません。そんな人じゃないんです。私が、あまりに困っていたから。"
"嫌に弁解するじゃないか。"
"あなた、あなた、私と宏さんに、何かあると、思ってらっしゃるのですか?何か間違いがあったと、思ってらっしゃるのですか?私と宏さんの事、そんな風に考えていらっしゃるんですか?誤解です。誤解してらっしゃるんです。私、そんな女じゃありません。あなたに、申し開きできない事、何一つしておりません。節子を信じていただきたいんです。"
三村は、猫を抱き、縁側に立つ。そして、去って行く。
列車の音がする。
節子は、二階の三村の部屋に上がる。
"済みません。私、お店やめようと思います。"
"そんな事、言ってやせん。"
"やめたって、もっと切り詰めれば、やって行けると、思うんです。それでもダメだったら、洋裁でも何でもして、働きます。"
"お前が、働くことを、恩に着せるな。"
"いいえ、このうちだって、もし困れば、お父さん、売ったっていいって、おっしゃってました。お店の事、はっきり、田代さんに断ります。"
"したらいいだろう、お前のいいように。"
三村は、窓から猫を呼ぶ。
田代が家具をデザインする。
"お客様、お見えになりました。"
"誰?"  
満里子が、顔を出す。
"こんちわ。"
"やあ、いらっしゃい。どう?満里ちゃん。"
"私、お使いに来たの。"
"そう。まあ、こっちへおいでよ。"
"びっくりした?こないだ。満里子、宏さんの事、もう何とも思ってないのよ。" 
"そう。"
"ちょいと、芝居しちゃった、でも、振られちゃった。"
"そんな事、ないさ。"
"けど、分かってよかった。" 
"何が?"
"宏さん、よっぽど好きね、お姉さん。"
"どうして?"
"満里子の芝居、全然、受け付けないんだから。"
''そりゃ、芝居だからさ。"
"でも、ちょいと、本気な所も、あったんだ。へへ、恥ずかしいな。まあ、いいや。ねえ、宏さん、お姉さんが、逢いたいんですって。" 
"僕に?" 
"お姉さん、困ってんの。お店の事で。''
"どして?"
"やめるって言うのよ、お店。" 
"なぜ?" 
"お兄さん、いけないのよ、横から口出すから。だから、逢ってあげてよ、お姉さんに。"
''そりゃあ、逢うのは、いいけど。"  
"逢ってね。"
"ああ。" 
"早い方が、いいの。今日、どう?お昼から。"
"いいよ。"
"どこが、いいかな?"
"どこだって、いいよ。"
"日比谷公園。どう?音楽堂の前、3時。いい?"
"ああ。"
"素敵だな。彼と彼女は、日比谷公園で逢うのである。ほんとよ。彼は、彼女に言うのである。節子さん、そりゃあ、お店をやめる事は、ありませんよ。今までどおり、おやんなさい。僕がついてますよ、大丈夫ですよ。言うのよ、宏さん、いい?ほんとよ、ほんとに言うのよ。"
田代は、うなずく。
"二人は、ひたと寄り添って、♪らーらら、らーら、ららららりりら。"
日比谷公園の音楽堂。堀端を、節子と田代が歩く。
バー・アカシア。満里子とバーテン。
"おい、前島さん。飲もうよ。"
"飲んでるよ、ぼかあ。"
"もっとさ、飲め、飲め、特攻隊。もう、お仕舞いじゃないか。"
"うん。だけど、惜しいな、閉めちゃうの、ここ。"
"しょうがないよ。"
"でも、折角な、満里子さん。" 
"よしなよ。思い切り悪いぞ、特攻隊。飲め、飲め、プロペラ。"
"満里子さんも、お飲みよ。"
"ちょっと、待った。少し、回って来たよ。いいから、空けなよ。"
"いいよ。特攻隊には、分からないよ、ハムレットの気持ち。飲むか飲むまいか、問題なんだ、これが。おい、プロペラ、前島君。"
"何だい?"
"お前は、古いぞ。目の色変えて、麻雀ばかりして。教えてやろうか、いい事。"
"何?" 
"新しいって事はね、いいかい、いつまで経っても、古くならないって事なんだ。難しいよ、これ。分かるかい?"
"分かるさ。"
"嘘つけ。分かるもんか。俺様にも、よく分からないんだ。"
"何だい?知っちゃか、いねえのか。仕舞いか、明日で。"
"まだ、言ってやがら、未練がましい特攻隊やの。"
"そうやの。"
"あ、びっくりした。'' 
音もなく、三村が現れる。
"なあに?お兄さん。"
"何でもない。ちょいと寄ったんだ。"
"お姉さん、いないわよ。"
"知ってる。俺も、何か、もらおうか。"
"前島さん、帰っていいわよ。そのままで、いいわ。明日、また来てね。"
"ええ。"
"じゃあ、お先に。お休みなさい。"
"お休み。"
"お兄さん、ここは、明日で、お仕舞いよ。"
"そうだったな。" 
"どうして、やめなきゃいけないの?お姉さん、ここ。お兄さん、やめろって言ったんじゃないの。何でやめなきゃ、いけないの?"
''知らないね。"
"そう。"
満里子は、三村に背を向けて、カウンターに座る。
"お兄さん、お姉さんの苦労、何にも知らないのね。"
"何が?"
"いつも、お姉さんばかり、苦労しているじゃないの?お兄さん、何でも知らん顔してて、そんな夫婦って、あるかしら?勝手過ぎるわよ、お兄さん。" 
"勝手かね?"  
"勝手よ。勝手じゃないの。お姉さん、可哀想だわ。" 
''だけど、満里ちゃん。''
"何よ。"
"まあ、いいや。"
"よか、ないわよ。お兄さんだって、お姉さんばかり働かせないで、自分でも、もっとどんどん、お仕事、探せばいいのよ。"
"探したって、ないものはないんだ。"
"ある。絶対にある。もっと、どんどん探せば。やる気になりゃ、何だってある。"
"いやあ、そりゃ、ないもんだ。''
"何がないの?何だってあるわよ。何だっていいのよ。そうすりゃ、お姉さんだって、張り合いがあるのよ。喜んで、苦労するのよ。夫婦って、そういうもんだ。" 
"ほお、そうか?"
"そうさ。お姉さんたちの夫婦、やめちゃあいいんだ。"
"そうか?俺たちが、夫婦であっちや、いかんて言うのか?" 
"いかんって、言うんだ。" 
"そうか?別れろって、言うのか?"
"そうだ、言うんだ。何もしないで、ぶらぶらお酒飲んでる間は。" 
"しかし、酒を飲んで、ぶらぶらしているのも、なかなか捨てがたいもんなんだ。これは、案外、夫婦であることより、面白いかも知れないんだ。色んな面白いことがあるんだよ、満里ちゃん。世の中には。"
三村は、立ち上がって、酒を飲む。満里子も、対抗するように、酒をあおる。
"お仕舞いか。明日で。"
三村は、ドイツ語でつぶやき、グラスを壁に叩きつけ、そして、笑う。満里子は、いくつもグラスを、叩きつけ、三村は、笑い続ける。

三村が、相変わらず、本を読む。
"誰だ?"
"私。"
"いいお天気。あ、お隣の島田さん、夕べ、赤ちゃんが、生まれたんですって。女の子。何か、お祝いをあげなきゃ、いけないわね。ねえ、何がいいかしら?" 
"おい。'' 
"はい。" 
"どう、思ってるんだい?お前。"
"何が?"
"俺たちの事。別れた方が、いいか?" 
"何の事?" 
"つまらんだろ?お前だって。"  
"何の事、ですの?" 
"別れた方が、いいんじゃないか?どうだ?"
"どうして、そんな事、おっしゃるの?不意に。"
"不意?そんなはずじゃ、ないだろう。俺は、お前の気持ちを、言ってやってんだ。"
"あたしの気持ち?"
"そうだよ。お前の気持ちだ。俺は、お前が、喜ぶと思って、言ってるんだ。喜ぶだろうと、言ってるんだ。"
"なぜですの?どうしてですの?"
"それは、お前自身に聞け。そこまで俺に、言わせるな。" 
”一体、それは、どういうことなんです?"
"お前が、一番よく、知っていることじゃないか?”
"どういう事なんです?何の事なんです?あなたは、私に、一体、どういう事をおっしゃりたいんです?ね、はっきり、おっしゃってください。おっしゃって、はっきり。" 
"簡単な事だよ。別れた方が、いいんじゃないかと聞いているんだ。" 
"あなた、そんな事、考えていらしたんですか?そんな事を、思ってらしたんですか?今まで、そんな気持ちで、私を見てられたんですか?それじゃあ、あんまり私が、可哀想じゃありませんか?私の身にもなってください。私、そんな事、考えた事、ありません。一度だって、考えた事、ありません。それじゃあ、今まで、私のして来た事が、何にもならないじゃありませんか?あなた、一体、いつからそんな事を、考えてらしたんです?いつから、そう思ってらしたんです?ね。" 
"とうからだ。"
"とうから?そんな事、私、夢にも知らなかった。ただ、ただ、あなたを信じて、生きてきたんです。あなたが、私に冷たくなさるお気持ちも、あたしには、よく分かっていたんです。でも、いつかきっと、分かっていただける時が来ると、思っていました。それなのに、今更、いきなり、そんな事を。"
"泣く事は、ないじゃないか。お前がそんな女だと、俺には、思えないよ。"
"じゃあ、どんな女だと、あなたは、思ってらしたの?おっしゃってください。ね、はっきりおっしゃってください。"
三村は、節子の頬を、4度張る。
"貴様、よく俺に、そんな事を言う。よく、そんな事が言えるな。貴様の嫌なとこ、そこなんだ。貴様、そこなんだ。"
また三つ、節子の頬を張る。三村は、その場を離れ、代わりに、満里子が入って来る。
"お姉さん、お姉さん。どうしたの?ぶたれたのね。どうして、ぶたれたの?どうして、ぶたれたの?ぶたれる事、ない!お姉さん。お姉さん、ぶつなんて。ちくしょう。"
満里子は、三村に仕返ししようと、道具を物色する。
"満里ちゃん、いいの、いいのよ。私、別れる。もう、三村と別れる。"
"お姉さん、別れる?"
"ええ。"
"本当?"
"ええ。"
"いい。別れて、いい。当然よ。当たり前だ。あんな奴と。別れていい、お姉さん。お姉さん、もったいない。もったいないわ、お姉さん。"
満里子は、節子の膝に、泣き崩れる。
田代と節子。
"しかし、長い間、あなたも、随分、苦労されて。"
"ええ、でも、何にもならない苦労でしたわ。"
"いえ、そんな事は、ない。そんな事は、ありませんよ。人には分からなくても、あなた自身は、そのために、大変、立派になったとおもうんです。節子さんが、一層、節子さんらしく、大変、立派になったと思うんです。"
"そうでしょうかしら?"
"三村君には、僕から話をしましょう。だから、今日は、帰れたら、お帰りなさい。"
"ええ。帰ります。"
"大丈夫ですか?"
"えっ、大丈夫。"
"待ってますから、明日。"
"いらっしゃいなさい、僕の所へ。僕に、お任せなさい。"
"ええ。"
"おじさんだって、許してくれると思うんだ。ねえ、節ちゃん、話そう、おじさんに。"
"えっ、父もきっと許してくれますわ。おっしゃって、あなたから。おっしゃって。" 
二人は、キスを交わそうとするが、そこに、三村が現れ、身を離す。
''やあ、暫くだ。"
"ああ、いらっしゃい、どうぞ。"
"じゃあ、お邪魔しますよ。"
"やあ、随分、暫く、お目にかからんなあ。"
"いつからですかなあ?大連でしたね。夏、星が浦で。"
"そうか、あれっきりか。あの浜は、良かった。ナターシャって言ってましたかな、八景露人の娘が、いましたなあ。"
"ああ、手風琴の前。"
"そう。目の大きい、綺麗な子だった。"
"三村さん、実は、僕、あの後に。"
"いやあ、僕もあるんだ、君に。" 
"何でしょうか?おっしゃってください。あなたから。"
"長い事、探していた仕事が、やっと、めっかりましてな。" 
"そうですか。" 
"タモを作る仕事に、そこの技師なんですよ。お前も喜んでくれ。紀州の熊野灘だ。こりゃ、やりがいのある大きい仕事ですよ。"
"そうですか、そりゃ、よござんした。" 
"まあ、これで、どうやら一安心だ。人間、仕事のない奴は、いけません。どうも、ひがみっぽくなる。もう、大丈夫だ。やあ、今晩、愉快ですよ。実に、いい気持ちだ。ここでも祝盃を上げようと思って。どうです?"
"そりゃ、上げましょう。結構でした。貰いましょう、酒。''
"ああ。僕が、貰って来よう。その方が、早い。僕が、貰って来る。"
"よかった。三村さんに、仕事があって。その方がいい。節子さんも、こっち、いらっしゃい。今晩、話しましょう。早い方がいい。"
節子はうなずく。
女中が、ビールを運ぶ。
”お待ちどう様でございました。"
"お客様は?" 
"お帰りになりました。"
"帰った!?"
"なんですか、ただ今。"
雨が、激しく降り出す。
▶︎三村の死
三銀。女将は、居眠りする。 
三村が、呼ぶ。
"おい、おい。チコちゃん、これ。"
"もういいよ、先生。もう随分、飲んだよ。"
"いいから、持って来い。愉快なんだ、今日。"
"いいよ、もう。飲まなくたって。"
"実に、今日は、愉快なんだ。"
"何が愉快さ。先生、もう遅いんだよ。心配してるよ、綺麗な奥さん。しょうがないねえ、先生、先生。" 
"何だい?" 
"あんないい奥さん、いらっしゃるのにさ。もう帰んなよ、ねえ、先生。" 
"女房なんてものは、諸悪の代表だ。"
"先生。"
"まあ、付き合え。それは、一つの重宝な道具に過ぎん。例えば、呼び鈴だ、洗濯板だ。何だって、おんなじだ。分かったか?"
客が、目を覚ます。
"先生、賛成だね。"
"あんたも、いいから、お帰りよ。"
"いいじゃないか。まあ、いいがな。" 
"よかないよ。”
"いいんだよ。まあ、そう邪険にしなさんな。"
"ねえ、先生。いい事、おっしゃるね、あんた。あっしもね、去年の初め、かみさん亡くしましてね、もう一人でいようかと、思ったんだけど、何かと不自由だからね、つい、手近な所で、そいつの妹を貰ったんだよ。ところがだよ、いいすか?分かりませんよ、女なんて。全くだよ。一昨日の晩ね、池袋行ったんだよ、俺がだよ、野暮用でね。あそこに、天ぷら屋が、在るでしょ。ちょっと曲がった所にさ。確か、角は、郵便局だったよ。" 
"おい、先生、帰るのか?先生。"
三村は、よろよろ立ち上がる。そして、雨の中、出て行く。" 
"おい、先生。"  
"あんたも、さっさとお帰りよ。電車なくなるよ。"  
"帰るよ。分かってますよ。"
"あの人も、やっぱり何かい?嫁さんに逃げられたのか?"
"誰よ?”
"今の大将だよ。"
三村の帰りを待つ節子と満里子。三村が、帰って来る。
"お帰りなさい。" 
三村は、よろよろ自室に上がり、倒れる。 
"なんだろう?"
"満里ちゃん、見てらっしゃい。"
満里子は、二階に上がる。
"お兄さん、お兄さん。お兄さん。きゃあーあー。"

宗方は、戸外で、散髪してもらう。京都を訪れた姉妹。
"ねえ、満里ちゃん。人間って、あんなに簡単に死ぬものかしら?" 
"そうねえ、お父さん、言ってらした。もう死んでる筈の俺がまだ生きてて、これから働いて貰わなきゃならない三村が、死ぬなんて。夕べ寝てから、お父さん、涙、溜めてらした。気が付いた?お姉さん。"
節子は、うなずく。
"だけど、満里ちゃん、私、信じられないのよ。" 
"なあに?"
"あんなに急に、お仕事がめっかるなんて。あんなになかったお仕事、あんなに急に。"
"じゃあ、お姉さん、どう思ってらっしゃるの?お医者様、皆んな、心臓麻痺だと、おっしゃてたじゃない。" 
"でも。" 
"そうよ。心臓麻痺よ。あんなに毎晩、お酒飲んで。きっとそうよ。当たり前だ。いいのよ、お姉さん、余計な事、考えなくて、いいのよ。もう、お姉さん、自分の思うとおりに、やっていいのよ。思ったとおり、やればいいのよ。おっしゃってたじゃない、お父さんだって。思ったとおり、宏さんの所に、行けばいいのよ。きっと、待ってる、宏さん。"  
田代と頼子。
"そう?心臓麻痺?" 
"ええ。''
"前から悪かったの?"
"いや、急なんです。"
"そう、お気の毒ね。節子さん。お淋しいわ。これから。私にも、覚えがあることよ。でも、私は、もう慣れっこになったけど。きっと、あなたを頼りにしてらっしゃる。節子さん。分かるのよ、私には。私も、とても淋しかったんだから。ご機嫌よう。'' 
"どうしたんです?"
"私、こないだ口から、何となく、もうあなたにお目にかかるまいと、思っていましたの。"
"どうしてなんです?"
"気まぐれなのね、私。でも、その気まぐれが、案外、私の本心だったかも知れないの。"
"頼子さん。"
"さよなら、ご機嫌よう。"
田代と節子、奈良の寺を散策する。 
"ねえ、節子さん、覚えていますか?昔、ここへ来た時のこと。あれは、法隆寺行った帰りだった。"
"ええ。そこで、あなたに写真撮っていただいて。" 
"ああ。あの時、あなた、着物だった。紫の。"
"ええ。もう、14、5年になるかなあ。あれから。"
二人は、お堂の階段に座る。
"どうぞ。"
"すいません。"
"あの時、お弁当食べましたね。ここで。"
"ええ。"
"早いもんだなあ。"
"ほんとに。"
"でも、ここは、少しも変わらないなあ。"
"ねえ、宏さん。''
"何です?''
"私、色々、考えましたの。昨日も、一昨日も。"
"何をです?" 
"私には、どうしても、三村が、普通に死んだとは、思ませんの。何だか、ただの死に方じゃなかったような気がして。"
"なぜです?" 
"なぜですか、私、三村の死に方に、暗いものを感じるんです。あれっきり別れようと思っていたの、あんな事で。三村、私に暗い陰を残して、逝ったんです。その暗い陰が、段々、広がって、私から離れないんです。どっかで、三村が見ているんです。その暗い目が、私には感じられるんです。こんな気持ち、こんな暗い陰を背負って、私、とてもあなたの所へは、参れません。" 
"しかし、節子さん。"
"いいえ、私。"
"そんな事は、ない。いらっしゃい、僕の所へ。僕は、随分、長い間、あなたの事を考えていた。そして、諦めてもいたんだ。それが、
やっと、一緒になれる時が来て。''
"いいえ。ねえ、宏さん、こんな気持ちで、こんな私が、行けば、きっとあなたまで、暗くしてしまいます。" 
"いや、そんな事は、ない。節子さん。"
"いいえ、おっしゃらないで、私の気持ちが、済まないんです。どうぞ、私の気の済むよう、させてください。お願いです。嫌なんです。私、こんな気持ちで。済みません、我儘言って。でも、私、自分で、不幸だと、思いません。あなたに、お目にかかれて、長い間、ただそれだけで、私、とても幸せでした。このまま、もうこれっきり、お目にかかれなくて。"
"節子さん、僕は、待ってます。あなたの気の済むまで、いつまでも。" 
"私のようの者を。"  
"僕は、待ってます。"
"だけど、いつになったら、いつまで待っていただいたらいいのか。"
"待ってます。僕は。いつまでだって、きっといつか。" 
節子は、立ち上がり、数歩、歩み、振り返る。
"お別れします。長い間、色々、よくしていただいて。"
"節子さん。"   
節子は、小走りに歩き出す。
満里子が、節子と、喫茶店で待ち合わせ。
"待った?満里ちゃん。"
"ううん。宏さんは?どうしたの、宏さんは、一緒じゃないの?" 
"逢ったの?宏さんに。" 
"うん。"
"喜んだ?宏さん。何だって?どしたの?"
"ねえ、満里ちゃん。私、宏さんとお別れしてきたの。" 
"まあ、どうして?どうしてなの?"
"私の気持ちが、済まなかったの。また満里ちゃんに、叱られるかも知れないけど。私、自分の気の済むようにしたかったの。"
"だって、お姉さん。"
"ううん。いいのよ、これで。このままで、私、いいの。これが、一番、私の気持ちの済む事なの。" 
"だけど、お姉さん。"
"ううん。いいの、私、自分に嘘をつかない事が、一番、大事な事だと思ったの。だから、いいのよ、これで。悪い?"
"悪くはないけど。お姉さんって、昔から、そういう人ね。"
"違うのね、満里ちゃんと私と。ね、歩かない?ぶらぶら。"
"うん。"
"御所抜けて、帰りましょう。'' 
"うん。" 
御所を歩く二人。
"ねえ、満里ちゃん。京都の山って、どうして、紫に見えるのかしら?"
"ああ、ほんと。お汁粉の色みたい。"
"綺麗な色。"
【感想】
見慣れた松竹でなく、東宝のクレジットが入っている。
宗方姉妹の二人の性格は、好対照。控え目、落ち着き払った節子は、一方で、陰を感じさせる。妹の満里子は、奔放、突飛な行動で、見る者をハラハラさせる。この姉妹を、死期の迫った父と、かつて節子の憧れの人だった田代が絡む。そして、節子には、職にあぶれた夫亮助がおり、隠然と節子を支配する。遂に、離婚かという時に、亮助は、へべれけになった挙句、家で、心臓麻痺に倒れ、節子に強烈な印象を残す。結果、節子は、田代と添い遂げることを断念するが、京都の紫の山を眺める冷静さがあるのであった。

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