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一人勝手に回顧シリーズ#小津安二郎編(30)#東京暮色/母を探して

【映画のプロット】
▶︎杉山家
東京の商店街。夜。杉山周吉(笠智衆)は、飲み屋に寄る。
"まあ、お珍しい。いらっしゃい。"
"やあ、暫くだね。"
"お寒くなりましたね。"
"ああ、冷えるね。"
"本地は、こちらの方へ?"
"ああ。時々ね。"
"今度の支店長さんも、皆さんと、時々いらしてくださいます。"
"そうかい。岡部君も好きだからね。"
"あ、ちょうど良かった。今日、国から、このわたが、届きましたんですよ。"
"そう。そりゃ、いいとこに来たな。じゃ、少し、熱くして貰おうかな。"
"はい、はい。"
"おばはん、俺にも貰おうかな。"
"何です?"
"このわたよ。それから、これよ。熱してね。"
"はい。"
"でも、折角、おなじみになると、どなたも、すぐ本店の方へ、お変わりになっちゃうね。"
"まあね。"
"でも、ご出世なんだから、しょうがないわねえ。"
"朱美ちゃんは、今日は?"
"スキーに出掛けたんですよ。お友だちと。清水トンネルくぐった、何とかってとこ。雪が、350キロも積もっているんですって。"
"そうは、積もるまい。350キロって言ったら、名古屋辺りまで、行っちゃうもん。そら、センチだろ?"
"あら、そうですか。やだねえ。お宅のお嬢様、今年は?"
"まだ、出掛けないけどね、いずれ行くだろ。"
"旦那、牡蠣いががですか?一緒に来たんですがね。的矢の貝。"
"あ、いいねえ。"
"どうして召し上がります?"
"後で、雑炊にでも、して貰おうか?"
"はい、はい。"
"おばはん、俺にも、牡蠣くれえな。俺は、酢がいいわ。後で、雑炊も貰いますけどな。"
"はい。"
"俺も貰おうか、酢牡蠣。"
"召し上がりますか?"
"ああ。"
"えろう、冷えて来ましたな。"
"そうですね。"
"なるほど、これはいいわ、いい香りや。おばはん、くに、志摩の方か?"
"ええ。阿野なんです。"
"そうか。そりゃ、懐かしいな。あのな、うちの妹の連れが、名木々の人なんや。旦那、あっちの方、ご存知か?"
"いや、よくは存じませんが、一度、賢島まで行った事があります。"
"賢島も、ええとこや。何ぞ、真珠の方のご関係で?"
"いや、私は銀行屋なんですがね、なかなかいいとこだ、海が青くて。"
"そや、そや。深うてね。私は、あの辺り、蒸気でぐるっと、回ってみたんです。真珠ちゅうもんは、どうだか言うと、あんなとこじゃないと、自然的に育たんそうですな。もう故人になってしもうたけど、御木本さんも、ええとこに目をつけたもんですな。ねっ。"
"そうですなあ。"
"ねえ、旦那。こないだの晩、12時をちょっと回ったぐらいに、沼田さん、いらっしゃいましたよ。"
"そう。一人でかい?"
"いいえ、学生さん、二人お連れになって、来た時から、随分、お酔になってね。"
"そうかい。" 
"なんでも、その方が、家まで送る途中だったそうですよ。"
"そら、迷惑だったね。"  
"とんでもない。そんな事、ありませんけど。"
"ちょいちょい、来るのかい?" 
"いいえ。ここんとこ、暫く。"
"そうか。"
"あのお帽子を、お忘れになって。"
"じゃあ、いずれ取りに来るだろう。"
"旦那、一つ行きましょか。"
"やあ。どうも、こら。"
周吉が、帰宅する。 
"ただ今。" 
孝子(原節子)が、来ている。
"お帰りなさい。"
"あ、来てたのか。"
"お寒かったでしょ。"
"うん。富澤さんは?"
"夕方、帰ってもらいました。"
"ああ。よく寝てるな。"
"お前、何時頃来たの?"
"お昼過ぎ。お父さん、ご飯は?"
"食って来た。"
"そう。"
"はい。"
着替えを渡す。
"足袋、なかったかな?"
"どこかしら。"
"ないかね。いや、富澤さん、洗ってくれたんだ。そこの一番下の抽出しにないかな?"
"ありました。"
"うん。沼田、元気かい?"
"ええ。"
"こないだ、何だっけ、雑誌に書いてた自由への抵抗っての、読んだよ。"
"そうですか。"
"なかなか面白かった。ちょいちょい、頼まれるのかい?原稿。この頃、いいようじゃないか?"
"何が?"
"お前のとこさ。"
"お茶上がる?淹れましょうか?"
"うん。まあ、こっちへ来て、お当たりよ。お前、遅くなって、いいのかい?"
"ええ。いいんです。"
"こないだ、沼田、遅かったろう?"
"いつ?"
"酔っ払って帰ったろう?"
"いつかしら。ちょいちょい、そんな事、あるから。"
"そんなに飲むのかい?"
"ええ。この頃ね。"
"うん。"
"何か、面白くない事、あるんでしょ。きっと。"
"何が?"
明子(有馬稲子)が、現れる。
"お帰りなさい。"
"何だ、明子、いたのか?"
"お姉さん、お床、敷いてあるわよ。"
"ありがとう。あっちゃん、お茶、飲まない?"
"要らない。" 
"お前、帰らないのかい?"
"ええ。"
"どうして?また何かあったのかい?どうしたんだい?また沼田と、どうかしたのかい?困ったもんだね。"
"お父さん、お床、敷きましょうか?"
"うん。"
"しょうがないのよ。"
"おい、ちょいとおいで。お座りよ。どうしたんだい?一体。"
"いいの、少しほっといて。"
"しかし。"
"いいのよ、そんな人なのよ。"
"そんな人って。"
"病気なのよ。時々、そんな風になるのよ。一人でイライラして、折角、この子が大人しくしてるのに、訳もなく、いじめたりして。"
"うん。"
"お友だちの評判がちょいと良かったり、学校でちょいと面白くない事でもあると。"
"それは、何も。お前が。"
"そうなのよ。だから、ノイローゼなのよ。"
"うん。一度、お父さん、逢ってみよう。"
"お逢いになっても、しょうがないわよ。不愉快になるだけ。そんな人よ。"
"うん。"

周吉が勤める銀行。
"お客様、お待ちになっています。"
"そう。"
竹内重子(杉村春子)が、待っている。
"こんちわ。"
"やあ。何だい?"
"ちょいと、貸付の平木さんまで、来たもんだから。"
"うん。"
"兄さん、もうお昼済んだ?"
"いやあ、まだだ。"
"あのね。"
ドアがノックされる。
"はい。"
"東亜印刷の専務さんの告別式は、明後日の1時からだそうです。"
"1時。専称寺だったね。"
"はい。"
"あのね、ここ出て、ついそこ、曲がったとこ。兄さん、行った事ある?"
"どこ?"
"美味しいのよ、綺麗なうちで。"
"何だい?"
"鰻屋よ。行ってみない?"
"お前、用済んだのか?"
"ええ。ねえ、行きましょうよ。そこよ。奢るわよ。"
"うん。じゃあ、行くか。"
"小林さん。ちょいと、出掛けるが、2時までに帰って来ますから、電話あったら、聞いておいてください。"
"ちょいと、2階のトイレ、どこ?"
"右に曲がって、突き当たりで、ございます。"
"そ。"

鰻屋。
"じゃあ、中串と肝吸い。兄さん、お酒、どう?"
"昼間は、飲まないんだ。"
"いいじゃないの。お銚子、一本。"
"はい。" 
"それから、肝焼一本。それでいいわ。ちょいと、電話貸してね。"
"どうぞ。"
"あ、こんちわ。"
重子は電話する。
"あ、もしもし、忠さん?うん。今、呉服橋にいるの。いつもの鰻屋、そう。ちょっと、常務さん出して。あ、篠田さん?あたし。うん、銀行の方、うまく行きました。だからね、あの話、あのとおりにしといてよ、ね、ね。そう、お願いします。どうぞ。"
"ありがとう。"
"あ、そうか。いいか、いいか。"
"あー、嫌だ、嫌だ。厄介なものね、商売って。"
"だいぶ、景気良さそうじゃないか。"
"でもないけど、自分の会社となるとね。ねえ、兄さん。お父さんの13回忌どうします?"
"うん。どうするかな?"
"わざわざ、行く事ないわね。私から、お寺に、何か送っときましょうか?"
"ああ。そうしといて、貰おうか。"
"じゃあ、送っとくわ。1000円もやっときゃ、いいわね。"
"ああ。沢山だろ。" 
"あ、明ちゃん、どうしてます?"
"どうって?"
"いいえね、こないだ、うちへ来てね、お金貸してくれって言うんですよ。"
"いつ?"
"4、5日前。そうそう、私がうてなさんに、出掛けようとした時だから、うん、火曜日よ。"
"何だって?"
"ううん。わけ言わないのよ。黙って貸してくれって言うのよ。5000円よ。"
"で、お前、貸したのかい?"
"そんなわけの分からないお金、貸せやしないわよ。だからね、兄さん。あの子も、どっか、しっかりしたとこに、片付けた方が、いいわよ。"
"うん。"
"お待ちどう様。あい、済いません。"
"お新香、ちょうだいね。"
"はい。"
"どう?"
"うん。"
"兎に角、わけ言わないっていうのが、おかしいじゃ、ない?どう言うんでしょう?"
"うん。"
"あの子にしちゃ、大金よ。何かにせよ、おかしいわよ。変よ。"
"で、明子、どうしたんだい?"
"じゃあ、いいわって、帰って行っちゃった。"
"うちじゃ、何とも言わなかったがね。"
"でしょう。だから、最近の若い子って、何考えているか、分かりゃしない。ね、早くお嫁にやったが、いい事よ。"
"うん。そうだね。"
"兄さんさえ、その気なら、私、早速、探します。あるわよ、あの子、綺麗なんだから。兄さん、もう一つ、どう?" 

場末のアパート。明子がやって来て、ドアをノックする。一つ目の部屋は、誰もおらず、次の部屋をノックする。
"おう、誰だい?"
"何だ?お前か。詰まんないとこ、来やがって。"
"ごめんなさい。邪魔しちゃって。"
"いやいや、いいとこ来たよ、助かったよ。"
"はい、いいや。何だよ?"
"ねえ、健ちゃん、どこ行ったか、知らない?"
"いねえか?学校かな。"
"こんないいお昼に、あいつが学校なんか、行くもんか。"
"降るや降るで、また行かねえしな。"
"お前たち、いいご身分だよな。気の毒なのは、くにのおとっちゃんだ。"
"おい、掛けとけ。"
"いい手だな。"
"俺が親父だ。"
"こりゃいいや、降りた。"
"差しか。よし、行こう。"
"ねえ、のんちゃん、どこへ行ったか、心当たりない?"
"誰?健坊か?"
"うん。"
"なあ、明べえ。お前、あんまり健坊、可愛がるなよ。"
"何よ?"
"痩せたぞ、あいつ。お前、あいつのどこに惚れたんだい?え、よう。"
"知らない。"
"知らない事は、ないだろ。おい、どこだい?どこだい?よう。"
"しつこいわね。"
"ほんとは、俺、知ってんだ。分かってんだ。"
"おい、明べえ、お前の事、よく知っているおばさんがいるぞ。"
"だあれ?"
"あ、そうか。"
"誰?誰よ?"
"マージャン屋のおばさんだよ。"
"どこの?"
"五反田だよ。"
"何て人?"
"あれ、何てんだ?"
"は、何?"
"マージャン屋のさ。"
"寿荘じゃないか。"
"寿荘なんか、行った事、ないわ。"
"でも、色んな事聞いてたぞ、お前の事。"
"知らない。誰かの間違いじゃない。"
"けど、よく知ってたぞ。"
"知らない。"
"へい、終わり。これは、いただきだなあ。"
"じゃ、帰るわ。"
"おう、お気の毒だったな。"
"ここ、掛けといて。"
"おう、学校行けよ。"
"さよなら。"
明子は、念のため、健ちゃんの部屋を、再びノックして、諦めて去る。

周吉は、沼田の家を訪ねる。
"あいにくと、何もなくって。"
"どうぞ。"
"やあ。"
"これ、いかがです?お父さんには、硬いかな?"
"お忙しいんですか?お仕事の方。"
"いや、まあまあだがね。"
"僕の方は、翻訳でもやっていれば、楽なんですが、誰もかれも、材料漁ってましてね。これなんか、4、5日前、丸善に来たばかりなんですがね、今日、学校行ってみたら、もう、やってる奴が、いるんですよ。敵いませんや。"
"実は、孝子の事なんだがね。"
"あ、そうですか?いや、どうも。道子、元気にしてますか?おうるさいでしょう?"
"いや、そうも思わんけど。"
"よくねえ、孫の方が可愛いって言いますけど、そんなもんですかね、お父さん、どうですか?まあ、そんなもんじゃないと、思うんだけどな。"
"やあ。"
"そりゃあねえ、そんな事も考えられますよ。だけど、そんな愛情は、本物じゃないと、思うんですよ。大体、愛情なんてものは、何て言うんです?隔世的に移行するなんて事は、僕には考えられませんね。そんな事があったら、むしろ悲劇ですよ。親子の愛情なんてものも、考えてみりゃ、一番、プリミティブな動物本能でしょうね。"
"孝子の話だけどね。"
"お。そうでしたね。"
"どうなの?君。"
"孝子、お父さんに、何か言いましたか?"
"別に、はっきりした事は、言わないけど。"
"一昨日の晩だったかな、ちょっとした事で、あいつ、ちょっと考えてみたいって、言ったんですがね。昨日、僕が起きたら、いないんですよ。徹夜したんで、起きたのも、遅かったけど。ふふ。どうです?お父さん。"
"いや、僕は要らん。"
"しかし、日本のウイスキーも、良くなって来ましたね。お、降って来ましたよ、お父さん。今日は、いいと思ったのになあ。"

夕食を作る孝子。周吉が帰って来る。
"ただ今。"
"お帰りなさい。お困りになったでしょ?"
"ああ。積もるかも知れないね。こんな天気になるとは、思わなかった。"
"随分、お濡れになって。"
"うん。沼田に会って来たよ。"
"そう。"
"道子は?"
"今、寝かせました。今日は、お昼寝しなかったもんだから。" 
"そう。冷えるね。ねえ、沼田ね。"
"ああ、ちょいと。"
"おい、おい。"
孝子は、台所に逃げる。 
孝子が、戻って来る。
"お父さん、気持ち悪く、なさらなかった?"
"何?"
"あの人に、お会いになって。"
"そんな事、ないさ。"
"でも。"
"けど、あの男も、変わったね。昔は、あんなじゃ、なかったよ。もっと、明るい男だった。昨日も、お父さん、電車の中で、考えていたんだが、何だか、お前に済まない気がしてね。"
"何が?そんな事ないわ。"
"いや、こんなんだったら、佐藤なんかの方が、良かったかも知れないよ。お前も、嫌いじゃなかったらしいし。"
"いいのよ、お父さん。もう、いいの。"
"だけど、お前に無理に勧めて。"
"私、ちょいと、お風呂見て来ます。"
明子が帰って来る。
"ただ今。"
"ただ今。"
"おい。"
"なあに?"
"ちょいとお出で。"
"なあに?"
"お前、叔母さんのとこへ、金借りに行ったってね。"
"ええ。"
"どうして、お父さんに言わなかったんだ?そんな金、何に要るんだ?"
"もう、いいの。もう、済んじゃったから。"
明子は、行こうとする。  
"おい。お出で。何に要る金なんだ?"
"お友だちが、困ってたからよ。"
"それにしても、お父さんに、言やいいじゃないか?"
"だって、不意なんですもの。"
"何が、不意なんだ?"
"だって、しょうがないじゃないの。お父さん、いらっしゃらないし、行く先分からないし。もう、いいの。"
入れ替わりに、孝子が戻って来る。
"お父さん、お風呂どうぞ。蓋、取ってあります。"
"ああ。"
"明ちゃん、どうか、したんですの?"
"いやあ、困った奴だよ。"

▶︎母を求めて
マージャン屋"寿荘"。明子も卓を囲む。
"板三牌、これもシャン牌と。"
"はい、それ。メンタンピン96。これ、貰うわよ。"
"奴、ツイてるわねえ。"
"まだ、子どもの時間だい。"
"取られどおした、どうも、今日は、いけないな。"
"よお、おじさん、ラーメン頼んでくれよ。"
"おおい。お一つですね、ほかの方、ありませんか?あ、いらっしゃい。"
"凄いですね、ついてますね。"
"ダメなんだ。さっきから、払い通しですよ。"
"風なんだ?"
"南の2局だよ。"
"ふうん。あ、あああ。"
"のんちゃん、余計な事、言わないの。教えっこなし。"
"誰、勝ってんの?"
"奴ちゃんよ、ヒョっこ抱きよ。"
"あ、そっち、そっち。"
"のんちゃん。"
"旦那、兼松さん、見えましたけど。ねえ、旦那。"
"分かっているよ。今、何だっけ?"
"リャンピンです。"
"南風か。"
"旦那、兼松さん、急いでますけど。帰ります。"
"ポン。"
"あ、それ、出ちゃった。これですよね?"
"いや、こっちじゃないですか?"
"なるほどね。"
"教えっこなし。"
女主人喜久子(山田五十鈴)が、帰って来る。
"いらっしゃい。"
"あ、お帰り。"
"ねえ、おばさん。おばさんの気にしてたの、この子だよ。"
"いらっしゃい。"
明子は、会釈する。
"おい、お前だよ。"
"リーチ。" 
"本当?早いわね。"
"はい、それ。ちょっと、大きいわよ。ドラ一の三色平和。"
"でっけえな。おな6じゃねえか。"
"これじゃあ、とっても帰れないな。"
"平気、平気。おい、ちょっと代われよ。"
明子が代わる。
"少し、沈んでるわよ。"
"大丈夫。"
"おい、健坊と会えたのか?"
"ううん。来ないのよ。"
"明子さん、こちらにいらっしゃいません?ねえ、いらっしゃいよ。"
"おばさん、どうして、私の事、ご存知なの?"
"あなた、牛込の五軒町にいらした事、あるでしょ。"
"ええ、小さい時。覚えていないけど。"
"その時分、ご近所にいたんです。"
"そう。"
"ねえ、皆さん、お元気?"
"ええ。"
"お姉さん、いらしたわね?"
"ええ。"
"お子さんは?"
"女の子、一人。"
"そうですか。"
"お幾つ?" 
"二つ。"
"そう。じゃあ、お可愛いわね。お兄さんは、お元気?"
"死にました。" 
"まあ、どうして?"
"山で。谷川岳で。"
"いつです?"
"26年の夏。"
"そうですか。"
主人が戻って来る。
"厚田さん、ラーメン、すぐ来ます。"
"はい。"
"おじさん、済まないがね、俺にドライカレー一つ持って来てくれないか?古市軒のな。"
"はい。"
"おい、相馬君、まだ来ないかな。"
"いいえ、まだ。"
"ねえ、お茶、淹れましょう。お上がんなさいよ。ね、お上がんなさいよ。"
"今、お住まい、どちら?"
"雑司ヶ谷の奥。"
"そう。で、あんた、どっかお勤め?"
"ううん。英文速記、習ってんの。"
"そう。あんた、こんなとこ、ちょいちょいいらっしゃるの?"
"ううん。時々。"
"そう。その方が、いいわね。"
"おい、済んだぞ。"
"誰が勝ったの?"
"そんな事、聞くなよ。悪いですよね。"
"また月謝、収めちゃった。これじゃあ、とっても帰れないよ。"
"遅いわね、誠司さん。"
"うん。"

明子が帰宅する。
"ただ今。"
"お帰り。もう、締めといて。"
"ただ今。"
"お帰り。あんた、ご飯は?"
"食べて来た。"
"お姉さん、まだ寝ないの?"
"あんた、待ってたのよ。もう、寝る。"
孝子と明子は、二階に上がる。
"お父さん、心配してらっしゃるわよ。"
"何が?"
"あんた、よく、帰りが遅くなるって言うじゃないの。どうして、そんなに遅くなるの?"
"難しいのよ、速記。だから、時々、お友だちのとこ寄って、練習するのよ。お父さんにも、そう言って、あんのに。"
"だけど、なるべく早く、帰ってらっしゃいよ。心配するから。"
"ねえ、お姉さん。今日、妙なおばさんに、会ったわよ。うちの事、よく知ってる。"
"だあれ?"
"昔ね、東五軒町にいた時、近所にいた人だって。"
"どんな人?"
"寿荘ってマージャン屋の人なの。"
"あんた、そんなとこ、行くの?"
"ううん。誘われちゃったのよ。その人ね、お姉さんの事、よく知ってんのよ。"
"誰かしら?"
"お兄さんの事も、よく知ってんのよ。"
"どんな人だった?"
"どんな人って。"
"幾つくらい?"
"若く見えたけど、幾つくらいかなあ?綺麗な人よ。"
"そう。その人一人で、マージャン屋してるの?"
"ううん、おじさんもいた。"
"その人、背の高い人じゃなかった?"
"高くもないけど。ちょっと滑稽な、ひょこひょこした人。"
"私ね、お姉さんね、何とはなしに、お母さんじゃないかって気がしたのよ。"
"どうして?"
"ううん、ただ何となく。"
"お母さんじゃないわよ、どっかの人よ。そんな訳ないもの。"
"そうね。私が、三つだったんだもの。"
"そうよ。"
明子は、髪をブラシで削り続ける。

線路側の中華料理屋"珍々軒"に、明子は、入る。
"はい、らっしゃい。お一人?"
"おじさん、健ちゃん、来なかった?"
"ああ。木村さん?そう言えば、ここんとこ、見えないねえ。"
"そう、来ない。"
"来ないねえ。おい、木村さんとこ、出前持ってたの、いつだっけ?青磯のよう。"
"一昨日の晩よ。"
"そう、じゃあ、また来るわ。"
"だあれ?"
"ほら、よく来るじゃないか、木村さんとよく来るじゃねえか、アプレのよう、あの子だよ。"
"あんた、練炭、起こってるよ。"
"はいよ。おい、下の口、締めとくれ。絞めといて、くださいよ。"

夜の街。水商売風の婦人が、バーの扉を開ける。
"お早う。"
"おう、早いな。"
"今日から、早番よ。"
"お早う。"
"お早う。"
明子がやって来る。
"こんちわ。''
"よう。何だい?"
"ねえ、どこ行ったか、知らない?"
"何だ?まだ逢えないのか?今朝、いたぜ。"
"そう。さっき、行ってみたの。"
"やけに、追っかけてるじゃねえか。どうしたんだい?"
"ううん。ちょいと、用があるの。"
"ほどほどに、しときなよ。お天道様、黄色く見えるぞ。"
"なあに?"
"やあ、こっちのこったい。"
"お水、一杯、ちょうだいよ。"
"お水か?"
"さよなら。"
"何だ?帰るのか?あっけねえな。"
店に入って来た木村に出くわす。
"おい、明べえ、良かったな。"
"ちょいと、話があるの。"
"なあに?"
"一緒に来てよ。"
"僕、用があるんだけどな。"
"すぐよ。"
"おい、健坊、行ってやれよ。"
"ねえ。"
二人は、店を出る。
"ちょっと、東儀さん。夕べ、どこ行ったのよ、マダムと。"
"どっこも、行きやしねえよ。"
"私、見たのよ。数寄屋橋の所で、車乗るとこ。"
"そうか。俺も見たよ、おめえが、河野さんと、車に乗るとこ。"
"嘘おっしゃい。あの人に、そんな度胸、ないわよ。" 
明子と木村は、港に、並んで座る。
"困っちゃったなあ。そんな事、あるのかな?"
"何がよ?"
"でもさあ、君、ほんと?"
"ほんと。私が、嘘ついてると、思ってんの?そんな事、嘘つけると思う?"
"そうは、思わないけどさあ、困っちゃったなあ。"
"困っているのは、私よ。私の方が、よっぽど困ってるわ。あんた、もっと真剣に考えてよ。呑気な顔してないで。"
"呑気じゃないよ、僕。その話、聞いてから、随分、考えたんだぜ。"
"だって、あれから、あんた、嫌に逃げてるじゃないの?"
"僕、逃げてやしないよ。"
"逃げてるわよ。逃げてんじゃないの。ねえ、どうすんの?"
"でも、ほんとに、僕の子かなあ?"
"あんたの子じゃなきゃ、誰の子よ?ねえ、誰の子だと、思ってんの?そんな事まで、疑ってんの?"
"疑っては、いないけどさ。"
"じゃあ、どうする積もりなの?どうすりゃ、いいのよ?私、一体、どうしたらいいのよ?"
明子は、泣く。
"ねえ、ねえ、泣くのおよしよ。ね。もっと二人で、考えようよ。困ったなあ。もう、時間なんだけどな。じゃあね、僕、6時半までに、大塚先生のとこ、行かなきゃならないんだよ。君、エトアール行って、待っててよ、ね。9時半ごろまでに、必ず行くからさ、いい?じゃあ、僕、帰るよ。ほんとに、待っててね。"
エトアール。思い思いに、時を過ごす人々。
男と女が、並んで、座っている。
"どうしたんだい?よ。何とか言えよ、よう。"
"いらっしゃいませ。"
"おい。"
タバコを吸っていた女と、連れだって、出て行く。
"ありがとうございました。"
明子は、一人で、木村を待っている。
"じゃあ、お前、何っつてんだ?"
"何とも言わない。"
"嘘つけ。"
カップルは、店を出る。
"ありがとうございました。"
"ありがとうございました。"
マスクをした男が、明子に声を掛ける。
"だいぶ、遅いですね。何してんの?こんな所で。何考えてんの?何か、心配事でも、あんの?誰かを待ってるんですか?"
"いいじゃない。誰待ってたって。"
"それは、いいですがね、あんた、随分、長い間、ここにいるね?うち、どこ?"
"どこだって、いいじゃない。"
明子が、席を立つと、男が、前を塞ぐ。二人は、また席に着く。
"うち、どこ?"
"どこだって、いいわよ。"
"よかあ、ないね。どこ?"
"あんた、誰よ?"
男は、黙って、手帳の表を見せる。
"時々、この辺で、見掛けるね。うち、どこです?" 
席で、居眠りする男たち。
警察署。
"おい、早く言え。お前、ちょいちょい、やってんだろ?"
"いいえ。"
痩せぎすの初老の男が、取調べを受ける。
"いい年して、女の腰巻き盗んで、どうするんだ?お前、かみさん、あんのか?"
"いいえ。"
明子が、呼ばれる。
"おい、君。寒いだろ、こっちへ来て、お当たり。"
電話が鳴る。
"もしもし。そうです。いや、まだ何にも、連絡ありません。は、は。承知しました。"
孝子が、迎えにやって来る。
"あの、杉山明子の姉ですけど。"
"あ、ご苦労さん。和田さん、来ましたよ。"
"あ、どうぞ、そちらから。"
"はあ。"
"やあ、どうも、お呼び立てして。お姉さんですね?"
"はあ。"
"まあ、おかけください。"
"ちょいと、父に都合がございまして。"
"そうですか。驚かれたでしょ?"
"はあ。"
"別に犯罪に関係ある訳じゃないですが、近頃の若者は、得てして、つまらん事から、過ちを起こしやすいもんですからね、お宅でも、十分、注意していただかないと。"
"はあ。"
"どんな事情にしろ、若い娘が、一人、深夜の喫茶店にいるなんて、感心しませんからね。"
"申し訳ございません。"
"君、君、こっちへ来たまえ。"
明子は、動かない。 
"なかなか強情ですな。"
"どうしたの?明ちゃん。"
二人は、警察署を出て、家に向かうが、途中、明子の足が止まる。
"どうしたの?どうしたのよ?"
"帰りたくない。"
"大丈夫よ。お父さん、ご存知ないんだから。ねえ、いらっしゃいよ?"
二人は、家に帰る。 
"おい、おい。"
"お父さん、起きてらしたの?"
"ああ。こっちへおいで。明子、お前も。"
"ねえ、お父さん。もう、遅いんですから。"
"いいから、お入り。おいで、明子。お前、どこ、行ったんだ?お前が、出掛けると、間もなく、電話があった。沼田かと思ったら、警察だった。なぜ、言わなかったんだ。なぜ、隠してたんだ?明子、どうして、警察なんか、呼ばれたんだ?お座り。"
"ねえ、お父さん。遅いんですから、明日にして。"
"明子、どうしたんだ?どうして、そんなとこ、呼ばれたんだ?何をしたんだ?おい。なぜ、黙ってるんだ。一体、何で、呼ばれたんだ?うちには、警察に呼ばれる者は、いないはずだ。"
"ねえ、お父さん。そんな。明ちゃんね。"
"お前は、黙っておいで。明子、どうしたってんだ?"
"ねえ、そんなに大した事じゃないんです。明ちゃん、喫茶店で、お友だちを待ってただけなんです。"
"そんなに遅く、何を、友だちを待つ必要があるんだ?明子、何の用で、待ってたんだ?言えないのか?そんな奴は、お父さんの子じゃないぞ。"
"お父さん、そんな。ねえ、お父さん、ほんとに、もう遅いんですから。もうお休みになって。明日にして。さあ、明ちゃん。あんたも、早く、お二階に行って、さあ。"
"おい。"
"お父さん、いいのよ。"
"困った奴だ。どうして、あんな風になったか。困ったもんだ。"
"明ちゃんも、淋しいのよ。きっと。ねえ、お父さん、もっと優しくしてあげて。明ちゃん、小さい時から、お母さん知らないで、育ったんだから、淋しいのよ。"
"だけど、お父さん、あの子に淋しい思い、させなかった積もりだがねえ。"
"でも、お母さんがいないって事は。"
"お父さん、随分、あの子は可愛がって、育てて来た積もりだがねえ。やあ、時々、お前が、僻むんじゃないかと思ったぐらいだ。それが、こんな結果になるなら、お父さん、間違っていたのかも知れないよ。いやあ、子どもを育てるってのは、難しいもんだ。"
"ねえ、お父さん、もう、お休みになって。"
"お前のとこ、沼田から、何か便りでも、あったかい?"
"いいえ。"
"そう。お休み。"
"お休みなさい。"
孝子も二階に上がる。
"まだ起きていたの?ねえ、もうお休みなさいよ。"
"ねえ、お姉さん。私、余計な子ねえ。"
"どうして、そんな事言うの?"
"お母さんが、あんなんだったんだもん。私、生まれて来ない方が、良かった。"
周吉は、布団に入り、タバコを吸う。

重子が、車で、周吉宅にやって来る。
"ちょいと、これ。"
"こんちわ。兄さん、まだいる?"
"まあ、叔母様。いらっしゃい。"
"来てたの?こんちわ。お父さんは?"
"います。"
"そりゃ、良かった。"
"こんちわ。急いで来たのよ、お出掛けかと思って。"
"ああ。今日は、昼からで、いいんだ。何だい?" 
"どうぞ、叔母様。"
"光子ちゃん、大人ね、いい子ね。これ何?"
"兄さん、こないだの話ね。"
"何だっけ?"
"孝子さん、孝子さん。ちょっと来てよ。"
"兄さん、ちょっと来てよ。"
"何だい?"
"今日、明ちゃんは?"
"学校に出掛けたよ。"
"そう。ちょうど良かった。沼田さん、お元気?"
"ええ。"
"そう。そりゃいいわね。兄さん、こないだのね。ねえ、これ、使ってみてよ。クリーム。うちの新製品、今度、売り出すの。"
"どうも。"
"ねえ、これ、どうかしら?"
"何だい?" 
釣書を渡す。
"明ちゃんのよ。どっちでも、いいの。それね、顔の長い方。2、3年前に、脳溢血で死んだ人、あったじゃない?民事党の代議士で、有名な。その人の次男よ。"
"随分、長い顔だね。"
"ぷっ。ほんと。"
"私は、その人の方がいいと思うの。うちの取引先の堀留農機の問屋さんで、その人も次男なのよ。立教出て、お店の手伝いしてて、時たま、うちにも来るんだけど。いい男よ。この辺、錦之介に似てて。"
"どうだい?"
"あ、兄さん、それからね、全く不思議。私、ひょっこり会っちゃったのよ。"
"誰に?"
"おとといね、私、大丸に行って、エスカレーターで、二階行ったのよ。ひょいと見たら、とても似てんのよ、後ろ姿が。おかしいなと思ったら、やっぱりそうだった。"
"誰だい?"
"喜久子さんよ。"
"お母さん?"
"ええ、一昨年の暮れ、引き上げて来たんですって。"
"じゃあ、やっぱり。"
"知ってたの?あんた。"
"いいえ。"
"で、喜久子さん、男の人と一緒で、急いでたみたいだけど、構やしない、一緒に食堂に行って、色々、聞いてみたのよ。苦労したらしいわよ。孝子さん、あんたも聞いといてよ、山崎さんね、アムールに抑留されている間に、亡くなったんですって。その事、喜久子さん、どこだっけ?腰越じゃない、ブラゴエ、そう、ブラゴエケンスクよ、そこで、風の便りに聞いて、それから、ナホトカに連れて来られたんですって。今ね、五反田で、マージャン屋してるらしいの。一人?って聞いたら、何だか言い渋ってたけど。どうも一緒にいたのが、新しいご亭主らしいの。ナホトカで知り合った人だとか、言ってたけど。" 
"おばさん。"
"なあに?"
"その人、どんな人でしたの?"
"もじゃもじゃ頭の身の軽そうな人。おかしなもんねえ、エスカレーターが一つ違えば、もう遭えなかったんだものねえ、不思議なもんよ。で、兄さん、これ、どうする?どうかしらねえ。"
孝子は、台所で、物思いにふける。

孝子は、"寿荘"を訪ねる。
"いらっしゃい。"
"お母さんですか?孝子です。"
"まあ、孝子ちゃん。さあさ、どうぞ上がってよ。さあ、どうぞ。さあ、こっちいらっしゃいよ。"
"いいんです。"
"ねえ、どうしたの?いらっしゃいよ。ねえ。"
孝子は、座敷に上がる。
"ほんとに、よく訪ねて来てくれたわねえ。あんたが、お母さんになったんだってねえ。女の子だって?"
"ええ。"
"可愛いでしょう?ご主人、どんな方?何してらっしゃるの?さあ、どうぞ。"
"おばさん、私、お願いがあって、来たんです。"
"なあに?何でも言ってちょうだい。"
"明ちゃんに、お母さんだという事、言っていただきたくないんです。 明ちゃん、お母さんの事、何も覚えてないんです。写真も焼けちゃったし、顔も覚えてないんです。今更、お母さんだと、言っていただきたく、ないんです。"
"どうして?なぜ、いけないの?"
"お父さんが、可哀想です。そう、お思いになりません?じゃあ、どうぞ、お願いします。帰ります。"
入れ替わりに、主人が帰って来る。
"いらっしゃい。"
"誰だい?今、帰ってった人?"
"お帰り。"
"綺麗な人じゃないか。誰だい?"
"こないだ、松下さんと来た娘さんの姉さんよ。探しに来たのよ。"
"おー。美人だな。ねえ、相馬君の話、割に急いでんだよ。親身に心配してくれてるしね。俺あ、行きたいと思うんだ。室蘭だって、なあに、ジャムスに比べりゃ、知れたもんだよ。満州の冬は、寒かったからな。ねえ、どうだい?嫌かい?仕事も、割にいいんだぜ。販売部の方だけどね。"
"あんた、良かったら、行きゃいい。"
"お前、行きたくないのか?俺一人じゃ嫌だよ。この寒いのに、室蘭くんだりで、一人じゃ寝られないよ。ねえ。行っとくれよ、一緒によ。"
マージャンパイを混ぜる音。

笠原医院。
"安静にして、無理しないようにね。また出血すると、いけませんからね。"
"はあ。おいくらでしょうか?"
"今日は、200円。"
"ありがとうございました。"
"お大事に。"
"はい。お次は?"
明子が、診察室に入る。
"どうぞ。こないだの方ね。何と、おっしゃったっけ?"
"杉山です。"
"杉山さんね。どうなさった?どういう事になったの?"
"あの、やっぱり。"
"あ、そう。その方がいいわよ。あんた、体弱そうだから。はい。"
体温計を差し出す。
"あんた、お店どこ?新宿?渋谷?うちにもね、ああた方みたいな方、ちょいちょい、見えるんですよ。たまには、立派なお宅のお嬢さんも、こっそり見えたりするけど、ちゃんとした理由がないと、一切、お断り。"
"あの。" 
"なあに?"
"入院しなきゃ、いけないでしょうか?"
"ううん、麻酔が取れるまで、2、3時間、安静にしときゃ、いいんです。後は、うちで静かにしてもらえばね。はい、ちょっと体温計。熱もないわね。今日しますか?"
"ええ。お願いします。"
"そ。決まりは3000円なんだけと、お持ち?"
"ええ。"
"そう。よくね、済んだ後で、お金が足りなくて、来なくなる人、沢山あるの。大丈夫ね、あんた。"
"ええ。"
"いいの、いいの。後で。ありゃ、いいの。じゃ、こちらへ。どうぞ。"

周吉の家。道子が、遊ぶ。
"道子ちゃん、お利口さんね。"
"どなた?"
明子が、帰って来る。
"ああ、あんた。お帰り。"
"ただ今。"
"どうかしたの?顔色悪いじゃないの?"
"少し、頭が痛いの。"
"風邪、引いたんじゃない?"
"うん。"
"どうしたの?変ね。お床、敷いて上げましょうか?"
明子は、その場に崩れる。
"ちょっと、待ってて。"
明子は、光子を見て、顔を覆う。
明子は、自力で、二階に上がる。
"大丈夫?"
"ええ。"
"さあ、お控えなさいよ。"
"いいのよ、お姉さん。大した事、ないの。心配しないで。"
"でも。"
"少し、じっとしてりゃ、治るわよ。"
明子は、横になる。
"何か、お薬飲む?"
"ううん、要らない。"
"熱はないわね。寒気する?"
"ううん。"
"今朝ね、あんた出掛けると、重子叔母さん、来たのよ。いつものように、せかせかして、何の用と、思ったら、あんたの縁談なの。男の写真、2枚持って、それがおかしいのよ、一人は、とても長い顔でね、もう一人は、叔母さん、だいぶ気に入ってるらしいんだけど。"
"私、嫁なんか、行きたくない。行けやしない。"
"どうして?"
"行きたくないの。"
"そうね、私みたいになっても、困るけど。でもね、明ちゃん、幸せなご夫婦だって、沢山あるわ。私のとこなんか、例外よ。あんた、若いんだし、これからだもの。まだまだ、どんな幸せが来るか、分からないわ。私見て、そんな気になっちゃ、いけないわ。あんた、これからよ。これから、世の中出て行くんだもの。どんな幸せが。"
"お姉さん。"
"なあに?"
"少し、静かに寝かせといて。"
"そう、眠い?じゃあ、少し寝た方が、いいわ。寒くないわね。用があったら、呼んで。"
"じゃあ、電気、つけないどくわね。"
明子は、一人、泣く。

周吉のオフィス。
"はい。"
"頭取、来ておられるかな?"
"はい。ただ今、田島堂社の専務様がお見えになっております。"
"そう。じゃあ、話が長くなるな。じゃあね、いつものとこ、行ってるから、済んだら、知らせてよ。"
"はい。"
事務員は、部署に戻る。
"好きねえ、杉山監査役。パチンコ。"
"でも、一番上しか、狙わないんですって。こないだも、そう言ってらしたわ。随分、正確的じゃない。"
"そうね、あの人だけよ、監査役さんで、一々、日報見るの。"
周吉は、パチンコを打つ。
"君、君、玉が出んのだがね。70番。"
"はい、ただ今。"
関口(山村聡)が、やって来る。 
"おい、妙なとこに、いるんだね。"
"おう、君か。"
"今、銀行寄ったんだがね。ここだって言うから。"
"何だい?おい、また出ないよ。"
"はい。"
"実はね、長谷部が帰って来たの、知ってるだろう?"
"あ、新聞で見た。"
"奴、今度、向こうで、だいぶ苦労したらしいんだ。だから、先生の慰労を兼ねて、久しぶりにクラス会やろうって話なんだ。どうだい?出るかい?"
"ああ、出てもいいな。"
"出るならね、俺、4、5日、大阪行かなきゃならないんだ。皆んなへの通知なんか、引き受けてくれないかな?"
"何だ?"
"頼むよ。忙しいんだ。"
"そうか。しょうがないな。おう、やらないか?玉あるよ。"
"難しいもんだな。"
"ゴルフのようには、いかないよ。指先の呼吸一つだからな。"
"なるほどね。"
"クラス会、やるとすれば、場所どこだい?"
"どこだって、いいだろう。余り高くない所がいいな。大勢だからな。" 
"そうだな。"
"2、3日前に、君のとこの明ちゃん、来てね、金貸してくれって、言うんだそうだ。明ちゃんから聞いたかい?"
"うん?やあ。"
"家内だけだったんでね。訳も聞かないで貸しちゃったらしいんだが、何に要る金だったのかな?"
"ああ、忘れてた。返すよ。"
"それは、いいんだがね。"  
"やあ、急に要る金でねえ、友だちに困ってるのが、いたらしいんだ。5000円だったかね?"
"ああ。いいよ、いいよ。クラス会まで、預けとくよ。"
"ちょうど、俺が出た後、だったんでね。ま、奥さんに、悪しからずな。"

寿荘。主人が店番。
"うちの旦那、来てませんか?今日は、一度も見えないね。"
"どこ、行っちゃったのかなあ?"
"あの旦那もお好きだな。"
"一昨日の晩、2時までですよ。珍しく、ついてましてね。"
"そりゃ、珍しいや。そんな事も、あんのかな?"
"結構なお道楽だよ。"
"慈善家だよ。いつも、ネギ背負って、来てくれるんだから。"
"ほんと。"
"俺の服だって、買って貰ったようなもんさ。全く、いい旦那だよな。あ、ツモった。28オール。"
"28オール?" 
明子がやって来る。 
"こんちわ。"
"おう。"
"健ちゃん、一緒じゃなかったの?"
"一緒に出たけど、あいつ、新宿行ったよ。"
"いつ頃?"
"そう、追っかけ回すなよ。こないだ、逢ったばかりじゃないか。"
"おう、明べえ。これは、いいぞ。おい、どうかしたのか?"
"ノンちゃん、早く。"
"あいよ。"
明子は、主人の方へ行く。
"いらっしゃい。"
"あんたのお姉さんって、綺麗な人だね。"
"姉さんって、私の?"
"ああ。"  
"どうして、おじさん、姉さん知ってるの?"
"こないだ、見えたんでね。"
"ここへ?"
"ああ。あんたを探しにね。"
"いつ?"
"そうだな。いつだっけなあ。4、5日前です。"
"そう。"
明子は、突如、席を立つ。
"おう、帰るのか?"
"さよなら。" 
"何だい、あいつ。そわそわしてやんなあ。"
"どうして、健ちゃん、あんなに逃げるんだろう?"
"それには、深い仔細が、ありましてねえ。重大な事ですわ。"
"どうしたの?"
"責任は全て、富田さんにあります。実に、悪い人ですな。"
"冗談言うなよ。おら、知らねえよ。二人が、勝手にできちゃったんじゃないか。"
"でないらしいですな。"
"何だおい、変な事、言うなよ。"
"とぼけていますが、上手いもんですな。さる短期大学に、憎いほど、純情無垢の男女の学生がありましてね、若さと言い、姿と言い、揃いも揃って、何とも言えない美しい友だちだったんですがね、その青年のアパートに、一人の悪漢がおりましてね、その青年をおだてて、ともあれ、二人を、実にこの、何と申しましょうか?手もなく、くっつけて、しまったんですね。"
"ほんと?富さん。"
"そうです。そうです。そのとおりです。大したもんです。驚きましたね。"
"おい。いい加減にしろよ。"
"ところがですねえ、その娘ともあろうものが、大学を出て、英文速記に通う頃から、朱に交われば赤くなると申しましょうか、段々、堕落しましてねえ、悪漢の仲間になりまして、今や、ラッキーセブンで、よくある事でしょう、女が男を追っかけてるんですが、これは、もう楽しみになって来ましたねえ、英語で言うところのラージポンポンとでも、言うのでしょうか?今回、ポンポンが、大きくなって来たのじゃ、ないですかね。"
"ほんと?ノンちゃん。"
寿荘の主人が、挟み込まれる。
"ほんとですか?"
"よくは、知りませんが、ともあれ、これは、面白い現象じゃ、ないでしょうか?"
寿荘の主人。
"そうですか。あの娘さんが、それは、驚きましたねえ。"
"そうです。そうです。驚きましたなあ。稀に見る驚きですねえ。"
"おい、今の何だ?"
"カバンよ。西よ。"
"北風か。"
"ロン。"
"ロン?驚きですねえ。"
明子は帰宅する。
"どなた?"
"ああ、あんただったの?"
"聞きたいことが、あんの。お姉さん、二階に来てよ。"
"なあに?改まって。"
孝子は二階に上がる。
"なあに?"
"お姉さん、何だって、五反田のマージャン屋にいらしたの?何の用があったの?何の用で、いらしたの?ねえ、何の用で行ったのよ?"
"だって。"
"なぜ、私に黙って行ったのよ?"
"でも、あんたに言えば。"
"じゃあ、何で、あのうちが分かったの?誰にお聞きになったのよ?"
"だって、重子叔母さんが。"
"何で、あの叔母さんは、ご存知なの?ねえ。どうして、知ってんのよ?ねえ、はっきり言ってちょうだい。ねえ、はっきり言って。"
"叔母さん、お遭いになったのよ。"
"誰に?"
"お母さんに。"
"そう、やっぱり、あの人、お母さんだったのね。なぜ、お姉さん、早く言ってくれなかったの?なぜ、違うと言ったの?"
"まさか、お母さんが、東京に帰っているなんて、思わなかったのよ。帰って来ても、東京には来ないと思ったのよ。"
"なぜ、来られないの?ねえ、どうしてなの?ねえ、お姉さん。誤魔化さないで、ほんとの事を言ってちょうだい。お母さん、どうして、お父さんと別れたの?ねえ、どうしてなの?" 
"その時分、お父さん、京城の支店に、行ってらしたの。うちは、東五軒町にいた時分。お父さんの留守中、山崎っていう下役が、よくうちに来て、色々、世話してくれてたのよ。背の高い、面白い人で、あたしもあんたも、とてもその人、好きだった。あたしも、子どもで、よく分からなかったけど、そんな事もいけなかったのかも知れないわ。"
"じゃあ、お母さん、その人と?"
孝子は、うなずく。
"でも、明ちゃん、そんな事、お父さんの前で、言っちゃダメよ。私、今でも、ようく覚えている。お父さんが、京城から帰って間もなく、私たち、動物園に連れて行って貰った事があるの。いいお天気の日でね、あんた、とても喜んじゃって、よちよち、よちよち、あっち行ったり、こっち行ったりして。夕方帰る時になったら、電車の中で、寝ちゃって、お父さんにおんぶして来てたのよ。そしたら、うちの表戸が、閉まっていて、それっきり、お母さん、いなくなったの。でも、明ちゃん、ほんとに、お父さんの前で、こんな事、言っちゃダメよ。お父さん、その事、忘れよう、忘れようと努めて来られたんだから。"
"ねえ、お姉さん。"
"なあに?"
"私、お父さんの子じゃないんじゃない?"
"何言うの、あんた。どうして、そんな事、言うの?"
"きっとそう。私、お母さんだけに、似てるんだもん。何一つ、お父さんに似ている所、ないんだもん。お母さんの汚い血だけが、流れてんだもの。"
"そんな事ない。何言うの?どうして、そんな事考えるの?"
"きっとそう。私、お父さんの子じゃない。"
"明ちゃん。"
"ただ今。"
"私、お父さんに、聞いて来る。"
"明ちゃん。"
"お姉さんには、分からないのよ。"
孝子は、周吉の元に行こうとする明子を押しとどめる。
"お父さん。"
"何だい?"
"ねえ、お父さん。私、一体。"
"明ちゃん。"
"何だい?"
明子は、二階に戻る。
"どうしたんだい?"
明子は、コートをつかみ、出て行く。

▶︎別れ
寿荘。
"売春防止法。"
明子がやって来る。
"おばさんは?"
"いらっしゃい。おい、喜久子。"
"まあ、いらっしゃい。お一人?"
"ねえ、おばさん。おばさんにお聞きしたい事があるの。"
"何でしょう?"
"私と一緒にいらして。"
"お出掛け?"
"ええ、ちょいと。"
二人は、店の外に出る。
"なあに?何でしょう?"
"私、おばさんと二人切りで、お話したいの。"
"そう、じゃ、どこがいいかしら?じゃあ、こっちいらして。"
二人は、小料理屋に入る。
"いらっしゃい。"
"おじさん、ちょいと部屋貸してよ。"
"どうぞ。散らかってますんで。"
"いいのよ、おじさん、そのままで。"
"いや、席がないんでね。じゃあ、どうぞ。用があったら、呼んでください。"
"どうぞ。汚いとこだけど。"
"何ですの?お話って。"
"おばさん、私、一体、誰の子なんです?"
"誰って?"
"おばさん、私のお母さんね。"
"そんな事、誰が言った?一体、誰がそんな事言ったの?"
"お姉さんよ。"
"まあ、孝ちゃんが?"
"ねえ、お母さん、私は、一体、誰の子なの?ねえ、誰の子なのよ?"
"ごめんなさい、明ちゃん。お母さん、あなたや孝ちゃんの事、忘れていた訳じゃないのよ。どこにいたって、あなたたちの事は、いつも気になっていたのよ。和雄ちゃんの事も、こないだ聞くまで、ずっと生きているものばかりと、思って。"
"そんなの。" 
"ほんとよ。いつも、ほんとに気にしていたのよ。今更、お母さんが悪いと言ったって、あんたたち、ゆるしちゃくれないだろうけど。"
"そんな事、どうだっていいのよ。私のお母さんに、聞きたいのは、そんな事じゃない。ねえ、お母さん、私、一体、誰の子よ?"
"誰って、あんた、私の子じゃないの。"
"嘘。私は、本当に、お父さんの子なの?"
"お父さんの子じゃなくて、誰の子だと思っているの?そんな事まで、私を疑うの?そんなに、お母さんが信じられないの?あなたが、お父さんの子だって事、誰の前でも、それだけは、お母さん、立派に言えるのよ。ねえ、明ちゃん、その事だけは、お母さんを疑わないで。その事だけは、信じて。ねえ。ねえ。"
明子は、泣き出す。 
"分かってくれる?ねえ、分かってくれるわね。ありがとう。ねえ、明ちゃん。うちへ来るお客さんが、そう言ってたそうだけど、あんた、どこか、体が悪いんじゃない?ねえ、赤ちゃんが、出来たらしいとかで。そうなの?ほんと。"
"私、子どもなんか産みません。"
喜久子は、呆然とする。

バー。
"どこ行ったんだよ、おい、どこ行ったんだよ。"
"知りませんよ。"
"隠すなよ、おい。教えろってよ。"
"ほんとに、知らないですよ。"
"嘘つけ。おめえ、怪しいぞ。おい、ふけんなよ。"
バーテンは、明子の前に移動する。
"おい、いつまでくよくよしてんだよ。もう、諦めなよ、あんな奴。もっと、がっちりしたんでも、めっけろよ。沢山いるじゃねえか。あんな奴のどこがいいんだい?ええ。"
"もう、いいの。帰るわ。"
"おい、今の子、どこの子だい?綺麗な子じゃねえか。"
"あれですか?ズベ公ですよ。"
"ズベ公、いいじゃねえか。賛成だね。女ってものはな、ズベ公の方が、いいんだよ。"
"そうですか?"
"とぼけんない。おい、これ、くれよ。"
"はい。"
珍々軒に、明子がやって来る。
"いらっしゃい。"
"お酒ちょうだい。"
"はい。冷えて来ましたねえ、これで、降りゃ、雪だね。" 
"あ、木村さん、アパート変わるんだってね。いいとこ、あったかい?夕べもうちへ来て、蒲田のほうを見ると言っていたが。どうです?ありましたか?ありましたか?"
"へい、お待ちどう。"
"なにしろ、近頃な、アパート流行りで、どこも満員だってから、大変だねえ。新しく建つ奴は、高いしね。骨が折れら。"
明子は、コップ酒を飲み干す。
"おじさん、お代わり。"
"いいのかい?あんた。もう、大分、入ってんでしょ。"
"いいのよ。"  
"よきゃ、いいけどね。"
明子は、顔を覆って、泣く。木村が現れる。
"何だ。君、こんなとこ、いたの?"
木村は、明子の向かいに座る。
"僕、随分、君探したんだぜ。ちっとも逢えないんだもん。誰にも、相談できない事だしさ。君が心配していると思うと、僕、夜も寝られなくってさ。ほんとよ。痩せたでしょ。"
明子は、木村の頬を張る。
"何するんだ?乱暴は、およしよ。"
明子は、反対の頬を張り、店を飛び出す。
"驚いたねえ。どうしたんです?少し、こぼしちゃったい。"
"全く、近頃の娘さんは、気が強いね。木村さん、よっぽど、しっかりしないと、やられちゃうね。"
木村は、呆然と、テーブルに両手を突いている。電車が警笛を鳴らす。
"何かあったのかな?ちょいと、行って見て来ますからね。"
"おーい、どうしたんです?"
病院。珍々軒のおやじが、患者に付き添う。
"まんだ、高いかね?"
"さっきとおんなじよ。おじさんも、とんだ関わり合いになったわね。"
"しょうがねえわな、うちに来るお客さんだもの。"
明子がうめく。
"薄情なもんだよ、付いても来ないんだから。"
ドアがノックされる。
"はい。""どうぞ。"
周吉と孝子が、入って来る。
"どうした?明子。"
"どうも、色々。"
"やあ、危ねえこって。驚いちゃいましたよ。電車がぴいっ、ぴいっていって、慌てて飛び出したんですが、見たら、この人ですから。うちから、出て行ったばかりで。なにしろ、あそこの踏切ときたら、元は、事故がよくあってね、新聞に、魔の踏切と出た事もあるんですがね。近頃はそんな事もないんで、いい塩梅と思ってたら、この始末。しょうがねえもんだ。ちょうどその時、踏切番のおやじが、しょんべん出しててね、電車は来るわ、しょんべんは出るわで、おやじ、慌てて、踏切を下ろしたっていうんで、もう、おっつかないや、後の祭りだ。その時は、もう、この人、跳ねられてたんで。可哀想に、おやじ、すっかりおろおろしちゃって、
今は、警察に持って行かれてますがね、さっきまで、ここにお巡りさんもいましてね、結局、あんた方見えたら、署の方に行ってもらうから、ここで、待ってくれって言ってましたよ。なにしろねえ、偉えこって、なんともねえ。"
"どうも、色々、ご親切に。"
"なあに、じゃあ、あっしは、これで。"
"そうですか、お忙しいところ、夜分、遅くまで。"
"いやあ。なに。"
"お父さん、お名前は?"
"ああ。"
"あっしは、すぐそばの担そば屋で、下村義平っていって、皆んなが、『ギヘイ、ギヘイ』って呼びますが、ほんとは『ヨシヒラ』ってんです。"
"そうですか。ご親切に。いずれまた、改めて。"
"いえ。そんなご心配は、どうぞ。それでは、ごめんください。ごめんください。"
"ありがとうございました。"
義平は、窓口に声をかけてかける。
"遅くまで、ご苦労さん。じゃあ、あっしは帰るんで。お休み。"
"今ね、二階でね、うちの事聞かれたんで、珍々軒と言うのを忘れたよ。よく言っといておくれよ。珍々軒。頼むよ。"
明子の目が開く。
"おい、明子。""明ちゃん。"
"どうした?うん?""どうしたの?明ちゃん。"
"死にたくない。私、死にたくない。"
"死にやせん。大丈夫。死にやせん。""明ちゃん、しっかりして。"
"お姉さん、ああ。私、死にたくない。"
"大丈夫よ。死にやしない。大丈夫よ。"
"うう。お父さん。"
"何だ。うん?何だ?"
"私、出直したい。初めから。もう一度、初めから、やり直したい。"
"明子、明子。"
"死にたくない。"
"何を言う。死なあせん。大丈夫だ、大丈夫。"

孝子は、また寿荘を訪ねる。
"お母さん。"
"まあ。"
"明ちゃん、死にました。"
"いつ?何で?何で、死んだの?明ちゃん。"
"お母さんのせいです。"
孝子は、立ち去る。
"孝ちゃん、孝ちゃん。"
"タカちゃん、タカちゃんか。はい、ポン。"
喜久子は、酒屋に入る。
"いらっしゃい。"
"一本つけてよ。"
"へい。"
"ホルムの旦那、奥さんとこ、行きましたかね?消火栓の話でさ。あそこの横丁のちょっと凹んだとこね、あそこの角で、切るって言うんだけど、危険過ぎるよね。オカメさんの分、それじゃあ、金貸せないと言ってるんですよ。へい、お待ちどう。ちっとぬるかったかな。"
亭主がやって来る。
"おい、どうしたんだい?店、おっぽらかして。おい、どうしたんだよ?"
"ねえ、相馬さんの話、どうなった?"
"どうって、あのままだよ。"
"私、もう、東京、やになっちゃった。"
"どうして?そりゃ、お前が行ってくれるなら、こんな結構な話は、ないけどな。"
"行ってくれるかい?"
"ええ。"
"そうか。そいつはありがたいな。"
喜久子は、夫に、杯を渡す。
"おう。それじゃあ、早速、相馬君に言って来るわ。俺も、マージャン屋で、ラーメンやカレーライスの使いぱしり、してるようじゃ、しょうがないからな。おう、一杯、行こう。なあに、寒いたって、知れたもんだよ。どこへ行っても、二人連れなら、あったかいやね。うん。そうか、行ってくれるかい。そいつは、ありがてぇな。"

喜久子は、花束を携え、杉山家を見舞う。
"ごめんください。ごめんください。"
"はい。"
"さっきは、どうも、電話で。私、今晩9時半の汽車で、北海道に立つの。これ、明ちゃんにお供えしたいと思って。"
孝子は、黙って、下から睨む。
"いけないかしら?じゃあ、これ。"
花束を渡す。
"もう、これで会えないか、分からないけれど、いつまでも元気でね。じゃ、帰るわ。じゃ、さよなら。"
孝子は、玄関口で泣く。

上野駅12番線。青森行きの夜行。
"早く来て、良かったよ。いい席取れて。ここなら、便所にも近いしな。"
喜久子は、窓を開け、身を乗り出す。応援団が、走行する。そのほか、別れを惜しむ人々。
"来やしないよ。もう、諦めなよ。来る訳ないよ。おい、どうだ?一杯。ほおら、こぼれるよ。諦めなよ。寒いじゃないか。来る訳ないって。ほら。"
夫は、窓を閉める。
"おい、どうだ?もう、一杯。"
"沢山。"
"これで、明日の昼まで乗ってんだから、ケツが痛くなるぜ。毛布一枚持ってくりゃ、良かったな。"
"そうね。"

孝子は、台所で、もの想いにふける。気を取り直し、茶の間を片付ける。
"お前、行ってやらないのかい?まだ、間に合うだろう?時間。お父さんに、気兼ねはしなくて、いい。"
"ねえ、お父さん。"
"うん。"
"私、帰ろうと思うんです。"
"どこへ?"
"この子に、明ちゃんみたいな思いを、させたくないんです。やっぱり、子どもには、両親の愛情が、必要なんだと思います。どんなにお父さんに、可愛がっていただいても。明ちゃん、やっぱり淋しかったと思うんです。お母さんが、欲しかったんです。"
"うん。そうかも知れないね。お父さんも、随分、気を付けてたけど、どこか、母親とは、違うんだね?母親には、言えるけど、お父さんには、言いにくかった事も、あるかも知れない。で、向こうに帰って、お前、沼田と上手く、やっていけるかい?"
"やってきたいと、思います。やってけなくても、やってかならないんだと思います。道子も、段々、大きくなりますし。"
"そうか、帰るか。"
"ええ。今度こそ、一生懸命、お父さんにご心配を掛けないよう、やってみます。"
"そうかい。"
"私にも、わがままな所が、あったんです。"
"そらあ、誰にだってあるさ。まあ、やってご覧。やって出来ない事は、あるまい。"
"ええ。やってみます。でも、お父さん、私があっち行ったら、どうなさんの?"
"そんな事、いいさ。"
"明ちゃんも、いなくなったし。"
"やあ、どうにかなるよ。また、富澤さんにでも、来てもらうさ。そうか。"
周吉は、明子の遺影に、お経を唱える。

杉山家は、お手伝いを迎え入れた。
"旦那様。今晩のお帰りは?"
"ああ、なるべく早く帰って来ます。"
"じゃあ、晩の支度は?"
"そうねえ、飯だけ炊いといてください。食わないかも知れないけれど。時間になったら、帰ってください。鍵は持っているから。"
"あの、靴はどちらので?"
"黒いのにしてください。"
忘れ物のガラガラを見つけ、微笑む。
周吉は、坂を下って歩く。
【感想】
原節子が、未婚のお嬢様役を卒業して("東京物語"もそうだが、あの場合は、戦災未亡人)、人妻役を演じている。また、タイトルが示すとおり、薄幸の明子や喜久子が絡むエピソードは、背後暗く、沈鬱なトーンが支配する。思えば、孝子の夫、沼田が、その権化にも見えた。
明子に、意外な死が訪れるが、他の小津作品と同様、明子の真実の母探しが、決着し、フィナーレに至っても、後日譚に、想像が膨らむ。山田五十鈴の存在感は、大きい。

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