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一人勝手に回顧シリーズ#小津安二郎編(21)#父ありき/慈しむ親子

【映画のプロット】 
▶︎父一人、子一人
箱を背負った行商人の一行が、橋を渡る。住宅街。堀川の家。
"お父さん、靴炭、もうなあなった。"
"そうか、じゃあすぐ買って来よう。"
"あの靴も、もうダメやね。いくら磨いても、ちっとも光らんよ。"
"ありゃ、まだいい。まだまだ履ける。良平、忘れ物ないか?"
"いいか、忘れ物ないか。''
"新々産立読み方思考。"
"しもた。算盤忘れた。"
"ほら、見い。""だらしがないぞ。円の面積は?"
"半径の二乗に、3.14を掛ける。"
"うん。円積の体積は?"
"半径の二乗に3.14を掛けて、高さ掛ける。"
"それを3で割る。"
"よろしい。"
二人は、家を出る。
堀川は、教鞭を取り、幾何を教える。
"では、ここまでにして、今から、2、3修学旅行の注意をする。静かにして。"
"4年生は、今度、東京方面へ行く。東京では、まず宮城を見を拝。明治神宮、靖国神社を参拝。それから、鎌倉、江ノ島、箱根方面を見学する。"
鎌倉大仏の前で、記念撮影。
"では、写します。皆さん、こちらをご覧になって。はい、はい、では、参ります。"
"箱根八里♪"の合唱。
宿舎で、学生は、思い思いに、寛ぐ。
堀川は、同僚と将棋を指す。
"これは、敵ですな。これは、困った。"
"山田。マメどうした?"
"何となく。"
"帰り、歩けるか?"
"大丈夫や。"
"明日、カバンを置いて行け。"
"ここは、何県か、知っとるか?"
"天下の県や。" 
"あーん、こいつ知っとるわ。" 
"そんなこと、とうに知っとるわ。"
堀川が声を上げる。"あれは、うちの生徒じゃないかなあ。"
手漕ぎのボートが、湖に漕ぎ出す。
"あれだけ注意したんだから、まさか乗るまいと、思うけれど。"
"誰か、乗った者はおらんか。""誰か、ボートに乗った者はおらんか。"
"木下、知らんか?""本当に知らんか?"
"知りません。"
"先生。""堀川先生。"
"何だ。"
"吉田のボートが、引っくり返ったんだ。"
"吉田がボートに乗ったのか?"
生徒は、桟橋に集結する。おーいと呼ぶ。

吉田の葬儀に、学生が、参列する。
"先生、電報です。"
"父兄の方、今夜の夜行に乗られるそうです。"

"俺も、あんたの気持ちは、よう分かる。もう一回、思い直してくれんか。"
近所の平田と堀川が話し込む。
"どうだろ?あんたが責任を感じる気持ちは分かる。なにしろ、あんただって、あの時は、引率者としての注意は、十分払っていたんだし、その点は、生徒の父兄も了解してくれてるんだ。"
"それは、僕も危ないと思って、注意はしたんです。だが、もっと慎重に、もっと固く言い聞かせたら、それでもボートに乗る子どもは、一人もいなかったはずだ。誰だって僕の言うことは、皆んな聞いてくれたと思うんだ。あの級は、僕が3年担任している。何にもかも、皆んなの気心を知っている。吉田だって、決して教師の言うことを聞かないことはないんだ。やっぱり、僕の注意が、どこか足りなかったんだ。そういう一書きなんだよ。" 
"しかし、あんただけが、深く思い詰めることは、ないと思うんだがな。"
"いや、色々心配してくれるのは、ありがたいんだけど、今度のことは、考えたうえでのことなんだ。" 
"いや、そりゃもうよう分かっとる。" 
"兎に角、もう正式に辞表を出したことだし、校長も分かってくれとるんだから。"
"そんなことは、問題じゃない。"
"いやあ、しかし、平田さん、今度のことは、このままにしてほしい。僕も考えたんだか、人の子を預かるような仕事は、もう、ほんと、これっきりにしたいんだ。恐ろしくなってね。"
"実は、こないだから、吉田のことが頭にこびり付いていて、僕も子どもを持ってて、よく分かるんだけど、折角、あれまで大きくして、あんな思いがけない死に方をされたんでは、堪らんからね。楽しみにして出掛けた子どもが、3日後には、冷たくなって帰って来る、それも、付き添いの教師がちゃんと付いてのことだ。親としては、全く堪らんよ。泣くに泣かれんよ。それに、子ども心に、お母さんに、箱根細工の糸巻きを買ってあるんだ。僕だって、付き添いの教師のほかに、そんな教師に任せておけんよ。僕は、こんな仕事が、つくづく恐ろしくなったんだ。怖くなったんだ。第一、柄じゃないよ。"
"しかし、あんたとしても、良平君もいることだし、今後どうする積もりだ。" 
"差し当たり、故郷に帰ってみようと思うんだ。親しくしていた男がいるんでね。落ち着いて、色々考えてみようと思うんだ。"
"ただ今。"良平が帰って来る。
"こんちわ。" 
"やあ、お帰り。"
▶︎長野へ
汽車が走る。
"ねえ、お父さん。上田まだ?"
"うん。後40分ばかりだ。疲れたかね?"
"ううん。上田って大きい町?"
"大きいさ。"  
"人口、何人だったかな?"
"3万5、6千かな。" 
"体育専門学校があるんだよ。"
"うん、そうだ。お、お前、爪切って来んの、忘れたな。爪は、いつも綺麗にしとかんと、いかんぞ。"
親子は、上田の町で、飯を食う。
"お父さん、あのうちで生まれたの?"
"ああ。"
"今でもお父さんのうち?" 
"いやあ、今は、もう違う。さっき、お墓にお参りしただろう。お母さんのお墓の隣に、お爺さんのお墓があったろう。そのお爺さんが、あのうちで、お父さんを学校にやってくれたんだ。"
"お爺さんは、呉服屋やっとったの?"
"いや。お爺さんは、官学の先生だった。あそこから、毎日、お城に通っていてらした。もっと裏が広くて、大きな樫の木があった。なあ、後で、お城に行ってみよう。"
"行ってみよう。"
"よく、噛んで食べるんだ。" 
二人は、城跡に腰を下ろす。 
"ねえ、お父さん。上田の町って、随分、小さいね。"
"うーん。" 
"もっと大きな町だと思っていた。"
"そりゃあ、金沢の方が大きいさ。あれは、日本海岸で、一番、大きな町だもの。なあ、お前、この町、嫌いか?"
"どうして。" 
"お父さんは、この町に、住んでみようと思うんだ。"
"ふーん、それならここに帰って来るの?"
"うん。"
"それなら、こっちの中学に、編入すれば良いの?"
"やあ、先生は、もうやらん。な、お前にも話そうと、思ってたんだが、お父さんは、先生は、二度とやるまいと思っているんだ。"
"それなら、どうするの?"
"どうするか分からんが、ここから20程、行った所に、お寺がある。昔、仲良くしていた和尚さんがおるんだ。今から、そこへ行くんだ。"
"お父さん、坊さんになるの?"
"いやあ、坊さんは、徳の高い人でないと、なかなかなれない。お前もこっちの学校に変わることになろうが、どうだい、いいか?"
良平はうなずく。
"まあ、我慢してくれ。そのうちに友だちも出来るだろうし、どこの学校も同じことだ。なあ。"
"そうか、かえっていいや。お父さん、向こうの中学でむじなやろ、だから、僕のこと、むじなの子、むじなの子って、言うの、とても嫌やった。" 
"ふーん。"
"上田では、誰も知らんもんね。"
"や、知るまい。"
良平は、石垣の上から、小石を投げる。

堀川は、お寺で、障子の張り替えを手伝う。
"役場には、もう慣れたか?"
"お陰さんで、だいぶ。こんな小さな村で、よく子どもが、生まれるもんだね。"
"昨日は、出産届けか、三つも出た。"
"ほお、そうかね。"
"意外に死なないもんだね。"
"わしゃ、坊主で三男やし。"
"良平は、どうした?"
"さっき、友だちが来て、トンボ獲りに行った。"
"ほお、もう友だちが出来たかな。" 
"殺生やって、こまるよ。"
"やあ、子どもは、殺生するくらいが、ええ。"
"ああ、今日は、ええ日和だ。" 
堀川は縫い物を始め、良平は、傍で勉強する。 
"出来たか?" 
"ううん。" 
"それじゃあ、明日、川へ行けんぞ。それは、夕べと同じ、応用問題だ。"
"またそんなことやっとる。夕べ教えたの、もう忘れたのか。按分比例の応用じゃないか。甲乙丙3人では、幾足らず、甲一人では12日、乙一人では15日かかるんだぞ。"
"あ、そうか。できたよ。"
"お前、どうもせっかちで、いかん。落ち着いてやりなさい。中学の試験を受けると言うのに、そんなことじゃいかんぞ。大体、お前は、落ち着きが足りん。中学の試験も通らないようじゃ、仕方ないぞ。ろくな者になれんぞ。お父さんは、お前が一生懸命であれば、中学ばかりでない、その上の学校でも、どこへでも行かせてやる。落ち着いて。ちゃんと考えて。"
"できた。"
"ううん、どれ。よし。落ち着いて考えれば、何のこと、ないやろ。これでいいんだ、わけないやろ。釣り道具持って来なさい。"
"お前、糸をちょっと調べとけ。"
"お父さん、これでいいの?"
"ああ、よし。明日は、早く起きて、ミミズ掘らんといかんな。"
"裏のイチジクの木にたんと、おるよ。"
"そうか。"
"松雄さんも良平も、わしに遠慮せんと、明日はたんと取ってきてくれ。引導は、とうに渡してあるんじゃ、ここらのハヤは、なかなかすばしこいぜ。"  
親子は、並んで、竿を出す。
"どうだ。気が済んで、いい気持ちだろう。"
"ああ。"
''あの子はどうした?" 
"誰?"
"何と言ったかなあ。ほら、溜まり屋の息子。"
"ふっちゃん、入ったよ。"
"そうか。そりゃ良かった。"
"ねえ、僕よく、入れたね、できなかったから、もうダメだと思った。" 
"なあに、ちょっとくらいは、大丈夫さ。"
"なあ、良平、お前中学に入るとなると、寄宿舎に入らんといかんなあ。"
"寄宿舎?"
"上田の町は、通い切れんだろう。"
"僕のこと、言ってんの?"
"うん、その代わり、頻繁に電話、お父さんが会いに行ってやるよ。なあに、そのうちすぐ慣れるさ。な、それに、すぐ夏休みだ。夏休みには、また帰って来られるさ。"
良平は、動きを止め、考え込む。
▶︎寄宿舎生活
良平たちが、英語の勉強。
"henって言うのは、雌鶏けえ?"
"うん。"
"cockは雄鶏けえ?"
"ああ。"
"じゃあ、dogは、何だよ?"
"犬だ。" 
"犬のメスかオスか?"
"そんなこと、知らねえや。"
"英語って、めんどくせえな。"
"おーい、腹減んねえか?"
"だなー。"
"なあ、飯の上に、黄色いのかかってんの、何てんだ?"
"ライスカレーか。" 
"ありゃ、うめえな。"
"うめぇけど、辛いな。"
"お父さん。"
"こりゃどうも。"
堀川がやって来た。
"やあ。"
"お父さん、どうしたの?"
"うん、ちょっと町まで出たんで、寄ってみたんだが、舎監の先生にお断りして、ちょっとそこまで出てこんか。"
"ああ。"
"おい、うめぇことやったな、また小遣いもらえるじゃないか。"
"そんなに貰えるもんか、こないだの日曜日に50銭貰ったばかりじゃないか。"
"ああ、行ってくらあ。"
"おい、親父来たのか?うまいこと、やったなあ。"
"おい、あいつの親父にあだ名付けちゃおうぜ。"
"何だ?" 
"むじなだ。"
"むじなか、そうやなあ。""そうやなあ。"
"おい、掲示が届いたぞ。"
"また草取りか。"
生徒は、外に出る。
堀川と喜平は、座敷で昼食をとる。
"これうまいぞ。これ食わんか。"
"ねえ、お父さん。今日、草取りだったんだよ。宿舎の前の、とても大変なんだよ。"
"じゃあ、ほかの人に悪かったな。"
"いいんだよ。お土産買って帰りゃ、いいんだよ。帰りに大福買ってね。"
"うん。"
"いいんだよ。" 
"何だ。もういいのか。" 
"もう、腹一杯や。
"食うか?"
"もう、今日は、いいや。"
良平は、仰向けに寝そべる。
"おい、石になるぞ。"
"なってもいいや。"
"ねえ、お父さん。あと13日だね。"
"夏休みか?"
"ねえ、お父さん。あの川で、鮎釣れんかな。"
"釣れるさ。"
"ねえ、お父さん。夏休みになったら、毎日、釣り行こうね。"
"うん、そうもいかんだろう。"
"なあ、良平。今日は、お前に、話があって来たんだが。"
"なあに。"
"色々考えたんだが、お父さん、東京に出てみようと思うんだ。"
良平が起き上がる。
"東京へ行くの?すげえな。いつ行くの?"
"いや、お前は、こっちに残るんだ。学校が、あるから。お父さんも考えたんだが、東京へ出て、もう一働きしてみようと思う。今のままじゃ、このままお前を学校へやることも難しい。お前も、中学だけでなく、まだまだ上の学校に、行かねばならん。お父さんは、ここで、もう一踏ん張り、頑張ってみようと思う。な、お前ももう、子どもじゃないんだから、お父さんの言うことが、よく分かるだろ。"
"お父さんは、東京へ出て、働く。お前は、こっちの学校に残って、一生懸命、勉強するんだ。な、これから、お父さんとお前と、競争だぞ。お父さんに負けるな。いいか。お父さんだって、まだまだ若いんだから、まだまだやるぞ。泣かんでもよろしい。別に、悲しいことじゃないぞ。なあに、これが一生の別れというんじゃない。お父さんは、先に東京へ行って、お前が学校を出て来るのを待ってる。なあに、すぐに一緒に暮らせるように、なるさ。分かったか?分かったな。おい、泣かんでもいい。"
堀川は風呂敷を解く。
"当分、会えんかも知らんから持って来たが、これが、シャツ、猿股、ちり紙、靴下が3足。靴下は、ちょいちょい洗って、代わりばんこに履くんだぞ。その方が、よくもつ。これが、風邪薬だ。腹が痛い時は、こっちの方、飲むんだぞ。いいか?これから、段々暑くなるが、やたらにさの湯なんか飲まんように。寝冷えせんように、気をつけな、いかんぞ。寝る時は、何か腹に巻いて寝なさい。小遣い。あんまり無駄遣いしちゃ、いかんぞ。"
"向こうへ出たら、早速、お父さんも手紙を出すが、お前も、1週間に一度は、手紙を書け。なあに、これまでと同じ、今度は手紙で会うんだ。いいか、分かったな。切手は、ここに入っている。"
"もう泣くな。お前、そろそろもう帰らないかんだろ。舎監の先生には、何時までと言ってきたんだ?" 
"7時。"
"7時までなら、まだ間がある。"
"しっかりやれよ。
堀川は、銚子を追加する。
"お前、ライスカレー食うか?"
"ううん。"
"じゃあ、お酒だけ。"
"おい、良平。こっちおいで。おい。"
良平は、離れて座る。
"泣いちゃおかしいぞ、男の子が。男の子は、泣かんもんだ。"

▶︎東京の暮らし
織物工場。堀川の再就職先。
"ほお、高等学校を出られましたか。それは、ようございましたねえ。"
"ええ。今度こそ、一緒に暮らせると思ったんですがね。どうも、縁がなく。"
"そうですか。でも、お楽しみですな。"
"まだまだこれから、しっかりやってくれればと、思うんですが。"
オフィスのタイプ室。書類をめくる男。
都会のサロン、碁を打つ人々。堀川も碁を打つ。見覚えのある男を見つける。
"ちょっと、失礼。"
"先生、平田先生。"
男が、振り返る。
"やあ、ちょっと、失礼。"
"やあ、これは、これは。"
"あー、やっぱりあなたでしたか。お久しぶりですな。"
"いや、妙な所で、お会いするもんですな。"
"どうもさっきから、よく似た方だと思ってましたが、まさかあなたが東京に、おいでになるとは。"
"やあ、また妙な所で、お目にかかるもんですな。"
"あなたもずっとこちらで?"
"ええ。ここへは、ちょいちょいお見えになるんですか?"
"ええ。" 
"そうですか。あたしも、去年の秋から東京詰めになりまして、ちょいちょい来るんですが、今までお目にかからなかったもんですな。"
"本当ですな。やあ、これで。"
"ご無沙汰しておりました。"
二人は、平田の家で、飲む。
"最後にお目にかかったのは、私が上田を担任した時ですから、あれから、12、3年になりましょうか。"
"ほお、そうなりますかね。なにしろ、ろくに方角も分からない所に出て参りまして、ただもう、その日、その日を忙しく、追われました。いつも気にしながら、そちら様にも、すっかりご無沙汰しまして。"
"やあ、ご無沙汰は、お互い様ですよ。"
娘が料理を運ぶ。
"あの、清干しなんですけど。"
"これは、これは、お構いなく。"
"これ、もう一つないかい。"
"ええ、もう。"
"そう。"
"さあ、どうぞ。"
"これじゃあ、表でお目にかかっても、分かりませんなあ。やあ、大変、綺麗で、ご立派で。おいくつにおなり?"
"21なんです。"
"ほお。"
"どうぞ。"
"どうもご立派で。"
"清ちゃん。"
"おい、坊主。こっち来て、挨拶しな。"
"嫌だよ。"
"清ちゃん。"
"嫌だったら、嫌だよ。"
"あれですから。困ったもんですよ。"
"やあ。子どもは、元気がいいのが、何よりですよ。"
"ダメじゃないの、清ちゃん。お辞儀しなくっちゃ。馬鹿ね。"
"なあに?"
"ダメよ。お客さんに、お辞儀しなくて。"
"で、市役所では、どういうことを?"
"ええ。東京の資料編纂なんですが、偉い仕事ですよ。"
"さあ、どうぞ。"
"いや、もう。"
"まあ、私のような老朽教師には、打ってつけですよ。"
清坊が、挨拶する。
"やあ、こんにちわ。"
"どうした?"
"しょおのない奴ですよ。お宅の良平君は?"
"いや、あいつもようやく、今年、仙台の帝大を出ましてね、もう25になりましたよ。"
"ほお、もうそんなになられましたか。で、お勤めの方は?"
"学校の紹介で、秋田の工業学校に決まりまして。"
"ほお、そりゃ結構で。"
"いや、妙なもので、もう教師は一生やるまい、せがれにもやらすまいと思っていたのですが、どうも巡り合わせと言いますか、何と言いますか、蛙の子は、やっぱり蛙で。"
"いや、いいじゃないですか、うらやましいですよ。しかし、離れ離れでお暮らしでは、淋しいですな。"
"ああ、昔から慣れっこですよ。あいつとも、随分長いこと別々に暮らしていましてね、今年こそどうやら、一緒になれると思ったんですが。やっぱり、縁がないと言いますか。"
"しかし、あんただって、お達者だし、一緒に暮らす時は、これからまだまだありますよ。"
"やあ、まあ、そうで。"
"いや、ほんとですよ。欲を言えば、キリがないが、良平君ももう立派になられたんだから、何と言っても、お楽しみですよ。わしのとこなんか、まだまだこれからですから。"
"やあ、子どもは、いくつになっても、同じですよ。"

良平(佐野周二)が、教壇に立つ。
橋の欄干に腰をかけ、本を読む学生。
"汽車見れば、田舎に帰りたくなるなあ。"

調べ物をする良平。扉が叩かれる。
"はい。''
"先生。"
"なんだ?"
良平に、手紙を渡す。
"お前、この前も、書いたろ?"
"あちゃったす。うだども、家にけえって、みてんす。"
"弟が生まれれば、帰っても、おっかさんのおっぱい飲めねえぞ。"
"そなことまあぶ。"
"お父さんは、おいくつだ?お父さんのと、一緒じゃダメだぞ。兄さんは、戦争に行っておられるんだったな。"
"困ってねえす。両親がよくやってくれるから、そんなこと、ねえす。"
"そうか、そりゃありげてぇな。お前もしっかり勉強しろよ。お父さんやお母さんに、あんまり、心配かけるなよ。よし。"
"小林、けえるす。"
今度は、二人でやって来る。
"何だ?"
"先生、今度の日曜日、先生も一緒に行かないすか?"
"今度の日曜は、ダメだよ。"
"そうなんですか。うんと、遊べるよ。"
"用がある。"
"ちょっとくらい。"
"そうは、行かんよ。親父に会いに行く。"
"そうすか。""先生もまだ、お父さんに会いたいすか?"
"そりゃ、会いたいさ。そりゃ、いくつになっても、同じさ。" 
"そだすか。"
二人は、去る。
良平は、本に挟んだ父の写真を見つめる。
良平と父は、湯に浸かる。
"ああ、いい気持ちだ。"
"いい気持ちですね。" 
"うん。"
"どうも、途中で会う約束が、信濃橋の方に、引っかかったな。"
"いいえ。"
"お父さんとお風呂に入るのは、随分、久しぶりですね。"
"うん。太ったな。"
"そうですか。"
"とても体の調子がいいんです。朝、早いし、運動もしますし。"
"お父さん、どうです?"
"まだ会社に行ってから、一日も休んでいない。"
"そうですか。"
"だいぶ、お前の方が、腕が太いな。"
''どうだ、洗ってやろうか?"
"いや、いいですよ。"
"ああ、塩原は久しぶりだ。昔、宇都宮の中学にいた時分、校長の田舎があった。まだ、母さんのいる時分だった。お前は、まだ生まれてなかったかな。"
"そうですか。"
"ああ、いい気持ちだ。"
風呂上がり、二人は、食事をとる。
"そうですか、柴田先生、まだお達者ですか。"
"うん。"
"もう、いいお年でしょうね。"
"いや。なかなかお元気だよ。ついつい、お目にかかって、碁の相手をするよ。"
"そうですか。僕も、一回、お目にかかってみたいな。"
"うん、お前、先生とこのおのぶさん、覚えとるか?"
"さあ。" 
"金沢にいた時分、これくらいだったが。"
"ああ、覚えてます。ちょこんとした頭して。"
"うん、もう大変、立派になられてな。"
"そうですか。随分、泣き虫の子でしたが。"
"そうだったかな。"
"やあ、今日は、飲んだぞ。いい気持ちだ。お前、なかなか強いな。"
"いや、ダメですよ。"
"お父さん、しかし、毎晩、こうは飲まんぞ。今日は、気持ちがいいので、特別だ。"
"お前、タバコはやらんのか?"
"少しやります。"
堀川がタバコを勧める。
"一本いただきます。"
"ほお、いつ覚えた。"
"いや、別に。吸わない。"
"ほお、そうかね。少しはいいが、あまりやらん方がいいぞ。こいつは、頭をわるくする。"
"そうですか。"
"ねえ、お父さん。実は、こないだから考えてたことなんですが、学校、よそうと思うんです。"
"なぜ?" 
"東京、行きたいんです。"
''どうして?勤めが、気に入らんのか?"
"いえ。そうじゃないんですが、あまり、このまま過ごしちゃうと、いつ東京に出て行けるか,分からないもんですから。"
"僕は、中学の時分から、お父さん、お母さんを十分、楽しみにして、今度こそ一緒に暮らせるかと思ったら、秋田県の方に決まってしまって。僕は、お父さんと離れて暮らすのは、堪らなくなったんです。そりゃ僕だって、学校まで出していただいて、その上、こんなわがまま言って、申し訳ないと思うんですが、この際、東京に出て、お父さんのそばで、仕事を見つけたいと思っているんで、ねえ、お父さん、どうでしょう?"
"うん。"
"今なら、東京にだって、仕事はあると思うのですが。"
"そんなことは、考えることじゃない。そりゃあ、お父さんもお前と一緒に暮らしたいさ。だが、それは、仕事とは、別のことだ。どこで、どんな仕事だっていい、一旦与えられたら、天職と思わないかん。不平は、言えんのだ。人間には、皆、分がある。その分は、誰だって守らなならん。どこまでも尽くさないかん。私情は、許されん。やれるだけ、やりなさい。どこまでも、やり遂げなさい。それでこそ、分は守れる。そりゃあ仕事だ。辛いこともある。善極まって、福をなす者は、その福を初めて久しだ。辛いような仕事でないと、やり甲斐はない。それをやり遂げて、その福久しだ。わがままは、言えん。我は、捨てんいかん。そんないい加減な気持ちで、仕事はできん。まして、お前のは、やり甲斐のある立派な仕事だ。大勢の生徒を預かり、父兄の方は、皆んな苦労をして、大事なお子さん達を、お前に任せておられるんだ。先々、良くなるも、悪くなるも、お前の考え一つだ。お前のやることは、どんな些細なことでも、生徒さんに響く。軽々しく考えちゃいかん。責任のある大きな仕事よ。お父さんは、できんかったが、お前は、それをやってないかん。お父さんの分までやってほしいんだ。お父さんは、お前に頑張ってほしいんだ。離れ離れに暮らしていたって、こうして、会える時は会える。それで、いいじゃないか。お互いにやれるだけのことをやって、それでいいじゃないか。どうだろう、これで、いいじゃないか。いいかな。分かったかな。ま、しっかりやりなさい。"  
良平は、かすかにうなずく。

良平と堀川は、並んで竿を出す。
二人は、宿で荷物をまとめる。
"惜しかったな。時間があれば、もっと釣れましたね。"
"うん。" 
"こんなことなら、昨日の夕方、釣れば良かったですね。"
"うん、早いもんだね。会ったと思ったら、もうお別れだ。"
"ええ。随分長い間,楽しみにしてたんですが。"
"まあ、いいさ。一晩、お前とゆっくり話ができたんだから。とても楽しかった。お前、汽車、大丈夫か?"
"大丈夫です。"
"すぐさ、楽しみにしとるぞ。体、大事にせんと、いかんぞ。病気など、せんように。"
''ええ。"
"今時、役に立たんようじゃ、仕方ないからな。"
"大丈夫ですよ。"
"ねえ、お父さん。お小遣いあげましょうか。"
"ほお、お小遣い、私にくれるのか。"
"ええ、少ないですよ。貰ってください。貰っていただこうと思って、別にしてたんですが。あんまり少ないんで。"
"そうか。じゃあいただこうか。"
"どうぞ。"
"いや、ありがとう。これは、持って帰って、お仏壇にお上げして、お母さんにもお見せしよう。"
"ええ。''
"いや、ありがとう。"
"ねえ、お父さん。昨日は、すみませんでした。"
"やあ。"
"どうも、わがまま言いまして。"
"いや。わしも言い過ぎたが、分かって貰って良かった。しっかりやってくれ。今時、安閑としとっては、ならんぞ。お父さんもやるぞ。まだまだやるぞ。互いに、しっかりやろうじゃないか。"
"ええ。やりましょう。"
"忘れ物ないように。"
"ああ、よくウグイスが鳴く。

東京のオフィス。堀川は、書類を繰る。
"あの、ご面会です。"
"うん。"
名刺を受け取る。
"黒川。''
"お通ししてくれ。"
"先生、暫くでございます。私、馬原の中学で,教えていただいた黒川康太郎(佐分利信)でございます。"
"ほお。そうでしたか。"
"私、市田稔です。"
"ほう、これは、これは。"
"さあ、どうぞ。"
"先生もご壮健で。"
"いや、ありがとう。皆さんもお元気で。さあ、どうぞ。"
"じゃあ、失礼します。"
"いや、暫く振りで。"
"いや、先日、先生のこと、伺いまして。"
"おお、そうですか。"
"平田先生から、すっかり伺いまして。"
"ほお、そうですか。"
"先生、よく碁をなさるそうですね。"
"ああ、先生とは、中学の時分からのお相手で、妙な巡り合わせで、東京でもまたお相手していますよ。"
"先生、お強いそうで。"
"いや。とんでもない。"
"実は、私たち中学の仲間が、東京に12、3人おるんですが、皆んなで、両先生をお招きして、事跡の歓を尽くそうということで。だいぶ、昔話も出るだろうと思うのですが。是非、先生にもご都合を付けて、来ていただきたいんですが。"
"おおう、それはどうも。"
"先生、いつがご都合よろしいでしょうか?''
"平田先生は、いつでもよろしいそうで。"
"いや、私の方も、いつでも喜んで。"
"じゃあなるべく早い方がいいから、この土曜か来週の水曜、どうだろうか。"
"そうだな。先生、どちらがご都合よろしいでしょうか?"
"じゃあ、甚だ勝手ではございますが、来週に、していただけますでしょうか。"
"そうですか。" 
"実は、この土曜日辺り、倅が出て参りますもんで。"
"そうですか。今、秋田県にいらっしゃる。"
"良平さんとおっしゃる。随分、立派になられたでしょうな。"
"いや。" 
"おいくつになられました?"
"25になりましたよ。"

堀川の家。
"お帰りなさいませ。"
"ただ今。"
"あの、若旦那様、お見えになっておられます。"
"お、そうか。"
"やあ。"
"お帰りなさい。"
"いつ来た?"
"1時間ほど前。"
"そうか、早かったな。明日か、明後日じゃないかと思っていた。"?
"え、でも、こっちに早く来たかったもんで。
"和尚さん、とても達者で、お父さんに、へその子、いただいて来ました。"
"そりゃどうも。"
"で、どうだった、検査は?"
良平は、うなずく。
"よくやってくれた。お母さんにご報告しなさい。"
"ええ。"
良平は、仏壇を拝む。
"いやあ、これで、わしも安心した。お前は、小さい時、弱い子だったら、よく大きくなってくれた。やあ、なかなか立派だ。今度、いつまで居られるんだ。馬鹿ほど、休暇、貰ってきたんです。"
"そうか。じゃあ、今度、ゆっくり遊べるな。髪を刈ったせいか、この前の時より、若く見えるな。"
"そうですか。"
良平のつむじの方を見て。
"まだあるな。"
"何がですか?"
"覚えとるか?"
"縁側で落っこちて。お父さんは?"
"まあ、いいから。"
"では、いただきましょう。"
堀川も仏壇に向かう。女中に言う。
"良平に、わしの浴衣を出してくれ。風呂から上がったら、一緒にお夕飯食べるぞ。"

教え子が催した宴会。次々と酒を継がれる。
"ねえ、先生、覚えていらっしゃいますか、僕、3年の時、岩本と喧嘩して、先生に捕まって。"
"そうだったかね。"
"なあ、おい。"
"あの時は、酷い目に遭いました。職員室に立たせといて、忘れて、先生、先に帰ってしまいましてな。"
"堀川先生にも、よく怒られましたよ。先生、よく見つけられて。"
"そうそう、あんた。授業中、よく腕振りをしてましたな。"
"先生、こいつ、居眠りしながら、博士になりました。"
"おお、それは、それは。"
"じびんこだから、贔屓にやってください。"
"なかなか治りませんよ。"
"馬鹿なことを言うない。"
黒川が挨拶に立つ。
"僭越ですが、一言、挨拶申し上げます。ええ、本席は、両先生とも、お忙しいところ、わざわざご出席いただき、我々一同、感謝に耐えないところであります。厚くお礼申し上げます。中学を出てから、ここに10有幾星霜、図らずも今夕、一同会しまして、一夕の歓を尽くすことになりましたのは、欣快、これに過ぎんのであります。両先生とも、これを機会に、今後ともよろしくご指導賜りますよう、お願いする次第であります。何もありませんが、沢山召し上がって、あの日の中学生に帰って、愉快にやっていただきたいと思います。"
市田が立つ。
"ちょっと、ご報告があります。この後、2名見えるはずですが、佐々木は、急に会社の出張で、神戸から電報が来ております。読みます。両先生のご健康を祝し、ご盛会を祈る。それから、中西君からは、電話がありまして、先程、男のお子さんが、お生まれになった、母子共に、目下、取り込み中、との由であります。"
"それは、おめでたい。"
"乾杯。"
堀川が挨拶に立つ。
"ええ、この度は、私たち、かくまでも、盛大にお招きいただき、感謝に耐えない次第であります。えー。皆さんの昔に変わらん元気なお姿を見て、こんな嬉しいことは、ございません。えー、私も、昔、皆さんからむじなと呼んでいただきました。だいぶ、むじなも年を取りまして、ただいまでは、かえって、皆さんのご指導を仰ぎたく、思っている次第であります。どうか、皆さんも、ますますご壮健に、ますますご奮闘を、職域好好の実を上げられんことをお願いする次第である。えー、甚だ簡略ながら、御礼かたがたご挨拶申し上げる。"
平田が挨拶に立つ。
"えー、私の申し上げたいことは、今の堀川先生の言葉に、もうすっかり尽きております。どうか、むじなに劣らず、この鶏もよろしくご指導のほど、お願いいたします。"
黒川と堀川。
"ねえ、先生。ほんとに久しぶりだ。東京に、おいでになるとは、思いませんでしたよ。"
市田と平田。
"すっかり、立派になられて。奥さんは?"
"ありますよ。な、おい。"
"そうですか。"
"えー、皆さん。奥さんお持ちの方は、手を上げて。"
大方が手を上げる。
"おう、それは。"
平田が堀川に言う。
"独り者は、私とあなただけですな。"
"そうですな。"
"えー、お子さんがお有りの方、手上げて。"
また、大抵が手を上げる。
"ほお、こりゃおめでたい。"
"二人の方、手上げて。"
半数くらいが、手を上げる。
"3人の方。"
"さすがに、まだ3人の方はありませんな。"
"そうですな。"
"先生。4人。"
"こりゃあ、おめでたい。なあ、堀川さん。"
"しかし、早いですなあ。もう皆んな、お子さんがおありで、活躍しているんですから。"
"ええ、早いものですね。"
"先生、どうぞ。"
"私は、もう十分いただいて。"
"そうおっしゃらずに。"
"いやー、しかし、世の中のことは、よく分からんもんですな。あんたが、あの修学旅行の事件で辞められて、あれから10何年経った今日は、皆んなと愉快に、こうやって、やっとる訳ですからなあ。"
"先生、未だに、吉田の命日には、欠かさず、供物を送っておられます?"
"いやあ。"
"こないだくにに帰って、それを聞きまして。"
"いやあ、お恥ずかしい話で、気持ちだけのものです。"
"いやあ、その気持ちだけのことが、なかなかできませんよ。"
"どうぞ。"
"いやー、こうやって、お話してると、皆さん、どこか、昔の面影がありますなあ。"
"そうですなあ。全く、妙なもんですなあ。"
"ねえ、平田先生、私があの中学校を辞めて、くにに帰る時、会をやってくださったことがありましたなあ。"
"そうそう、そうでしたな。"
"いやあ、あの時のこと、よく思い出すんですよ。犀川の河原に、月見草が綺麗でしてね。"
"そうでしたなあ。あなたのお別れに、しおを買われて。ほろりとしましたよ。"
"いやあ。"
"先生、詩吟をおやりになるんですか?"
"大変、お上手で。"
"是非、聞きたいもんですな。" 
"先生、聞かせてください。"
"お願いします。""お願いします。"
"じゃあ、やりましょうか。"
"どうぞ。"
堀川の家。良平は、寝床で本を読む。
堀川が帰宅する。
"お帰りなさいませ。"
''遅くまで、済まんな。"
"お帰んなさい。"
"いかがでした?"
"いやあ、今日は、なかなか愉快だった。" 
"そりゃ、良かったですね。"
"昔の連中が、すっかり立派になっていて、よくやってくれたよ。"
"そうですか。"
"いやあ、ありがたいもんだよ。大したことも、してやれなかった昔の教師を忘れないで、何から何まで気づいて、よくやってくれて、嬉しかったよ。"
"そうですか。"
"いやー、今日は、愉快だった。" 
"皆んな、お前のこと、大変、喜んでくれて、嬉しかったよ。"
"そうですか。"
"お前も、皆んなに劣らんよう、しっかりやってくれ。やあ、人間なんて、できるだけのことをしておくもんだ。"
"なあ、お前、先生の所のおふみさん、どう思う?"
"どうって?"
"いや、お前のおよかにどうかと、思っているんだ。"
"いやー、まだまだ。"
"おふみさんなら、私も知ってるし、平田さんの方からも、話があったんだ。何もはずかしがらんでも、いいぞ。どうだい。それとも、ほかに心当たりがあるかい?"
"やあ、別に。"
"それじゃあ、貰ってください。"
"お前も、立派に甲種に合格したんだし、男一人では、何かと不自由するぞ。どうだね。お父さんなら、貰うぞ。"
"ええ、お父さんに任せます。"
"そうか。任すか。おふみさんなら、とてもいい。真っ黒になって、よく働く。お父さんは、ああいう人を、お前のお嫁さんに欲しかったんだ。" 
"これで、もう安心だ。ああ、良かった。水、一杯、くれんか。"
"ああ、いい気持ちだ。"
▶︎堀川の死
翌朝。
"今日は、どこへ行く?"
"神田へ行こうと思ってるんですけど。"
"また神田か。"
"カードの本で、欲しいのがあるんですけど。こないだ一つ見つけたんですが、表紙が取れて、汚かったものですから。今日は、探してみて、なかったら、それ買って来ようと、思ってるんですけど。"  
"一度、上野の博物館も見ておきなさい。なかなかいい物がある。"
"そうですか。"
"あれ程の物が見れるのは、ほかにない。今ちょうど、花の物が出ている。"
"そうですか。"
"見ときなさい。よく見て、分かるが、なかなかどうして。昔からの日本の物は、味わいがある。"
"ええ、行ってみましょう。"
"今日は、帰りに、平田先生の所に寄って来るから、早く帰ってなさい。"
良平は、二階に上がり、仰向けに寝転ぶ。
"若旦那様、旦那様のご様子が、変です。"
"お父さん、どうしたんです?どうしたんです。"
"ちょっと苦しくなった。"
堀川は、力なく座り込んでいる。
"お父さん、大丈夫ですか。大丈夫ですか。"
"大丈夫だ。"
良平は、堀川の額の汗を拭く。 
"お父さん、大丈夫ですか?今日は、お休みになった方が。"
"大丈夫だ。わしは、一度も会社を休んだことがない。"
堀川は、立てない。
"お父さん。おい、医者呼んでくれ。" 
"はい。"
“お父さん、お父さん。"
良平が上着を脱がすが、堀川は、えづく。 
"お父さん、お父さん。"
堀川は入院する。良平、平田、おふみが看病する。黒川が見舞う。
"平田先生、いらっしゃるんですよ。"
"やあ、これは、どうも。" 
"先生、堀川先生、しっかりしてください。"
"ふみさん、良平を頼みます。"
おふみは、うなずく。
"お父さん。"
"いい気持ちだ。"
"お父さん、お父さん。"
"うん。しっかりやりなさい。悲しいことは、ないです。お父さんは、できるだけのことは、やった。私は、幸せだ。"
"お父さん、お父さん。"
"お父さん。"
黒川は、立ち上がる。
"3時10分。力及びませんでした。"医師が告げる。
おふみは、泣く。良平は、病室を出る。
良平は、込み上がる悲しみを堪える。
平田が、声を掛ける。
"ねえ、良平君。泣くことはない。お父さんは、立派な、生きてるうちにできるだけのことをやった方だ。堀川先生は、実に立派な方だった。あんたは、あんなにいいお父さんをお持ちで、幸せだ。ね、泣かれることはない。"
良平は、しゃくり上げる。

汽車の中。おふみと良平が乗っている。
"ねえ、おしげちゃん、もう寝たかしら。"
"淋しがっているぞ。お父さんも、明日から不自由になるぞ。"
"ねえ、お父さんたちにも、秋田に来てもらおうじゃないか。"
"ええ。"
"皆んなが一緒の方が、賑やかだからな。"
"ええ、そうですわね。"
"僕は、小さい時から、親父と暮らすのを楽しみにしていたんだ。それが、とうとう一緒になれる。親父が死んでしまって。でも、良かったよ。たった1週間でも、一緒に暮らせて。1週間が、一番幸せな時だった。いい親父だったよ。"
おふみは、また泣く。汽車は走る。良平も感傷に浸る。網棚にお骨。汽車は、秋田に向かう。
【感想】
お互いを気遣う父と一人息子の感傷的な物語である。笠智衆が初めて主役を張ったのでないか。
息子は、中学で寄宿舎に入り、父は、単身、上京して、職を得る。その後、息子は、仙台の帝大を卒業し、秋田で教師となった。かように、離れ離れに暮らして来た二人だが、息子が、上京を発案すると、父は、私情を排して、今の仕事を全うせよと、厳しく命じる。息子が、父に、旅先で小遣いを渡し、父は、大事に持ち帰る。父は、急の病に倒れるが、誰にでも優しく接し、幸せな人生だったと、振り返る。
生徒の兄が、出征していたり、良平は、兵役検査に甲種合格するなど、戦争が迫っている。戦時中の小津の創作の中断は、心惜しい。

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