一人勝手に回顧シリーズ#小津安二郎編(24)#晩春/嫁ぐ日

【映画のプロット】
▶︎周吉と紀子
北鎌倉駅。山に、鳥が鳴く。
寺院で催される茶の席。和装の女性が、集う。
紀子は、まさに話し掛ける。
"おばさん、お早くて?"
"ううん、ほんの少し前。今日、お父様は?"
"うちで、お仕事。昨日までの原稿が、まだ出来なくて。"
"でも、ぷうちゃんが、縞のズボン穿いたら、おかしくない?"
"何だって、いいのよ。膝から下、切っちゃって。どう?"
"そりゃ、直るでしょうけど。"
"やってみて。"まさは、風呂敷包を渡す。
"ちょこちょこっとで、いいのよ。どうせ、すぐダメにするんだから。お尻の所、二重にしといてね。"
三輪が、入って来る。
"お先に。"
"また一緒かと思って、辛抱して、お待ちしてたんですけど。"
"一電車、遅れまして。"
"お待たせいたしました。皆様、どうぞ。"

周吉は、原稿と格闘する。
"消しゴム。"
助手が手渡す。
"ないかい?"
"あ、ありました。フリードリッヒ・リスト。やっぱり、説はありませんね。メルリー・エステエ。"
''そうだろ。メルリー・エステエのリストは、音楽家の方だよ。"
"1811年から1886年。"
玄関の引戸が開く。
"電灯会社です。電灯、拝見します。"
"どうぞ。"
"踏み台、貸してください。"
"どこですか?"
"廊下にあるんだがねえ。梯子段の下。済まんね。"
"いいえ。"
助手が、席を立つ。
"あ、どうも。"
"先生、リストってのは、ほとんど独学だったんですね。"
"ああ、それでいて、歴史家の経済学者としては、大したもんだったんだ。官僚主義が、とても嫌いな男でね。"
"3キロ超過です。これ、置いときます。"  
"ご苦労さん。"
"うっ、今までのところ、何枚くらいになるかな?"
"12、3枚ですね。"
"あっ、そうか。後、6、7枚だね。"
紀子が帰って来る。
"ただ今。"
"ただ今。" 
"ああ。"
"あら、服部さん、いらっしゃい。お清書?"
"ええ。"
"済みません。助かっちゃった。"
"いやあ。"
"おばさんは?"
"今日は、お急ぎなんで、真っ直ぐ、帰られたわ。"
"お茶、淹れてくれよ。"
"はい。"
"服部さん、ゆっくりらして、いいんでしょ?"
"いやあ。今日は、お暇します。"
"いいじゃないの。明日だったら、私も、一緒に東京へ行くわよ。"
"何だい?東京。"
"病院。それから、お父様のカラーも買って来たいし。"
"ふーん。"
"ね、先生。いつかのマージャン、嶺上開花、まだ、像の手がつかないそうですよ。やっぱり僕が、トップだったんです。"
"ふーん。おい、紀子。紀子。" 
"おい、仙さんいないかな?"
"何か、ご用?"
"ちょいと、見といでよ。一緒にやろう。"
"もう、お書けになったの?''
"後少しだ。"
"ダメよ。"
紀子は、遠ざかる。
"おい、おい、おい。お茶、お茶。"

紀子は、周吉と、東京行きの列車に乗る。
"お前、原稿は持って来てくれたね?"
"ええ、大丈夫よ。''
周吉が座り、紀子は、吊り革を持ち、立っている。
"おい、替わってやろうか?"
"ううん、大丈夫。"
やがて、紀子も席に着き、本を読む。
"お父さん、帰り、いつもと同じ?"
''うん、教授会でもなけりゃね。"
"気を付けて、行っといで。"
紀子は、東京の街を歩く。
"おじさま?"
叔父の小野寺に出くわす。
''いやあ。"
"いつ、出ていらしたの?"
"昨日の朝、来たんだよ。太ったねえ、紀ちゃん。''
"そうですか?"
"どこ、行くんだい?"
"買い物。"
"一緒に行こうか?"
"おじさま、ご用は?"
"いや、もういいんだ。"
"おお、やってるんだ。連合展。行ってみようか?"
"私、ミシンの針、買いたいんだけど。"
"どこだい?行こ、行こ。"
二人は、小料理屋で、食事をとる。
"疲れたろう?紀ちゃん。"
"いえ、行って、よかったわ。"
"私、上野、久しぶりよ。"
"うーん。でも、なんだねえ、酷い奴がいるもんだねえ。銅像の頭に止まった鳩を、空気銃で打ってる奴がいたじゃないか。あれじゃ、まるで、ウィリアム・ハトだ。''
"お待ちどう様。"
"昨晩、重野先生、お見えになりました。"
"そう?重野先生、まだいらしたの。"
"今日の急行で、お帰りになるとかで。"
"これ、曾宮の娘だよ。"
"そうでございますか。ご立派になられて。"
"あの西方の町の時分に、おかっぱでいらっしゃたお嬢さん?"
''そうだよ。" 
"先生には、いつもご贔屓になっとりやす。そうですか。"
"いらっしゃい。"
"お付けにしますか?"
"ああ。"
"おい、紀ちゃん、一つどうだい?"
小野寺が、酒を勧める。
"うん、私、いただかないの。"
"何か頼もうか?それとも、先に飯にするかい?"
"まだ、いいわよ。お釈してあげましょう。"
"うん、そうかい。"
"何か、もらおうか。"
"へい、ただ今。"
"ねえ、おじさま。"
"うん。"
"おじさまね。"
"何だい?"
"奥様、おもらいになったんですね。"
"うん。もらったよ。"
"それでは、美佐子さんが可哀想だわ。"
"何で?"
"だって、やっぱり変じゃないかしら。"
"そうでもなさそうだよ。上手く行ってるらしいよ。"
"そうかしら?でも、何か、嫌ね。"
"何が?今度の奥さんがかい?"
"ううん、叔父様がよ。"
"どうして?"
"何だか、不潔よ。"
"不潔!"
"汚らしいわ。"
"汚らしい!酷いことになったなあ、汚らしいか。"
小野寺は、お絞りで、顔を拭く。
"どうだい?" 
"ダメダメ。"
"そうかい。ダメかい。こりゃ困ったなあ。"
"そうかい。不潔かい。"
"そうよ。"
"そりゃ弱ったなあ。"
周吉は、家で、執筆を続ける。紀子が、帰って来る。 
"ただ今。''
"ただ今。お客さんよ。"
"誰?"
小野寺が入って来る。
"やあ。"
"よお。" 
"寄らないで帰ろうと思っていたんだが、銀座で紀ちゃんに、会ってね。"
"何だい?"
"うん。また文部省だよ。"
''ふーん。"
"お父さん、お土産。"
毛糸の手袋を渡す。
"これ、どこにあったんや?"
紀子と小野寺は、顔を見合わせて、笑う。
"家中探しても、ないはずよ。はい。"
"あー。滝川か。行ったのかい?"
"ああ、今日は、紀ちゃん、すっかり付き合わせちゃったよ。"
"おじさん、もっと召し上がりたく、なくって。"
"ああ、いいねえ。"
"あるのかい?"
"ええ。"
"熱くしてね。"
"お前、どうだった?血沈。"
"十分、下がった。"
"そうかい。そりゃ、良かった。"
"もう、すっかり元気だな。"
"うん。"
"やっぱり、戦争中、無理に働かされたのが、祟ったのかねえ。"
"そのうえ、たまの休みは、買出しで、芋の5、6貫でも、背負って来おったからね。"
"酷かったなあ。傷む訳ですよ。"
"なんにも、ございませんのよ。"
"済まないねえ、紀ちゃん。"
"京都の方、皆んな、達者かい?奥さん。"
"悪いもの、もらっちゃったよ。"
"何が?"
"紀ちゃんに、大変に不潔扱いされちゃったよ。"
"誰が?"
"俺がだよ。汚らしいって言われちゃった。ねえ、紀ちゃん。"
皆、笑う。
"美佐ちゃん、元気かい?"
"あいつもね、どこで聞いて来たのか、結婚は、人生の墓場なりって言いやがってね、24までお嫁に行かないって言うんだよ。"
"ふーん。"
"そう言われりゃ、そんな気もするしね、しょうがないと、思っているんだよ。紀ちゃん、どうなんだい?"
"うん。あいつも、そろそろ、どうにかしなければ、いけないんだがね。"
"うーん、7だね。"
"少しぬるいな。"
"じゃあ。" 
"いや、いい。後の熱くして。"
"ここ、海、近いのかい?"
"歩いて、14、5分かな。"
"割と、遠いんだね。こっちかい?海。"
"いや、こっちだ。"
''ふうん。八幡様は、こっちだね?"
"いやあ、こっちだい。"
"東京は、どっちだい?"
"東京は、こっちだよ。"
"すると、東はこっちだね。"
"東は、こっちだよ。"
"ふうん。昔からかい?"
"おお、そうだよ。"
"こりゃ、頼朝公が、幕府を開く訳ですよ。要害堅固のうちだよ。"
鎌倉の海。海沿いの道を、紀子は、服部とサイクリングする。
"大丈夫ですか?疲れませんか?"
"ううん。平気よ。"
二人は、自転車を止めて、海岸を歩く。
"じゃあ、私はどっちだと、思う?"
"そうだな、あなたはやきもちを焼くような人じゃないな。"
"ところが、私、やきもち焼きよ。"
"そうかなあ。"
"だって、私が、お沢庵切ると、いつも繋がっているんですもの。"
"それは、しかし、包丁とまな板の相対的な関係で、沢庵と、やきもちの間には、何ら、有機的な関係は、ないんやで。"
"それじゃあ、お好き?繋がったお沢庵。"
"たまには、いいですよ。繋がった沢庵も。"
"そう。"
▶︎紀子の縁談
周吉とまさ。
"そりゃ、昔から比べると、若い人は、随分、変わったものよ。"
"夕べのお嫁さんだって、お里は相当だけど、出て来るご馳走、あらまし食べちゃうし、お酒だって飲むのよ。"
"うん。"
"真っ赤な口して、お刺身、ぺろっと食べちゃうんですもの。驚いちゃうわ。"
"そら、食うさ。久しくなかったんだもの。"
"だって、私なんか、胸一杯で、お色直しの時は、おむすび一つ食べれなかったわ。"
"今なら食べるよ。お前でも。"
"まさか。でも、なってみたらどうなるか分からないけれど。"
"そりゃ食うよ。"
"そうかしら。"
"そりゃ食う。"
"そうね。でも、お刺身まで食べないわ。"
"いや、食うよ。"
"そうかしら。"
"そりゃ食う。"
"でも、めそめそされるのも困るけど、あれだけ、しゃあしゃあとされると、育てがいがないわね。" 
"そりゃ、ご時世で、しょうがないさ。"
"紀ちゃん、どうなの?"
"あれなんかも、めそめそなんかは、しないさ。"
"いいえさ、お嫁の話よ。もう、すっかり体の方はいいんでしょ?"
"ああ、そちらの方は、いいんだがね。"
"本当なら、とうに行ってなくちゃ。"
"うん。" 
"あの人なんか、どうなの?"
"服部かい。"
"どうなの?あの人。"
"うん、いい男だがね、紀子がどう思っているか。なんともないようだよ。大変、あっさりと付き合っているんだがね。"
"そりゃ分からないわよ。お腹の中で、何、思っているか。"
''そうかね。"
"そうよ、そういうもんよ。今時の若い人なんだから。"
"そうかねえ。"
"一度、聞いてご覧なさいよ。"
"誰に?"
"紀ちゃんよ。"
"なんて?"
"服部さん、どう思うって。"
"なるほどねえ。じゃあ、聞いてみようか。"
"そうよ。分からないものよ。"
"うん。"
"案外、そんなものよ。"
"うん。"
周吉が帰宅する。
"ただ今。"
"お帰りなさい。お早かったのね。"
"うん。"
"混んで?電車。"
"いや、座れた。おばさんのとこで、奈良漬もらって来た。カバンの中に入っとる。"
"28日、ペンクラブですって。"
"ふうん。おー、コンクリクラブじゃないか。"
"今度の土曜日よ。"
"うち、服部さんいらしたのよ。"
"いつ?"
"お昼ちょっと過ぎ。"
"すぐ、ご飯、召し上がる?"
"ああ。"
"散歩に行ったのよ。自転車で。"
"服部とかい?"
"いい気持ちだったあ。七里が浜。"
"服部、何だっけ?"
"ううん。別に。"
"おい、紀子。タオル。"
"はい。"
"自転車、二人で乗ってたのかい?"
"まさか!借りたのよ、せいさんとこで。"
"シャボン、もうないぞ。"
"そう。"
"帯。"
"はい。"
"今日は、良かったろう、七里が浜。" 
"ええ。茅ヶ崎の方まで、行っちゃったの。"
"そうかい。"
"何か、黒いもの。"
"うん。"
"お前、服部さん、どう思う?"
"どうって?"
"服部だよ。"
"いい方じゃないの。"
"うん。ああいうのは、亭主として、どうなんだろう?"
"いいでしょ、きっと。"
"いいかい。"
"優しいし。"
"そうか、そうだねえ。"
"あたし、好きよ。ああいう方。" 
"おばさんがね、どうだろうと、言うんだけど。"
"お前をさ、服部に。" 
紀子は、吹き出す。
"何だい?""どうしたんだい?"
"だって、服部さん、奥さん、お貰いになるのよ。もう、とうに決まってるのよ。とても可愛いくて、綺麗な方。私より3年した。"
"そうか。"
"いずれ、お父さんにも、お話あるわよ。その方、よく知ってるのよ、私。"
"そうか。"
"お祝い、何、上げようかと、思っているんだけど。"
"ふーん、そうかい。結婚するのかい、服部。"
"ええ。何がいい?"
"うん。決まってたのかい、お嫁さん。''
"ええ。"
都心の喫茶店に、紀子と服部。
"ねえ、何がいいの?"
"そうですね。"
"どんな物?"
"先生からいただくなら、何か、記念になるものが、いいな。"
"でも、せいぜい、2、3000円のものよ。高くて。"
"何がいいかな。"
"何かある?そんな物。"
"ありますよ。考えますよ。"
"お二人でね。"
"どうしましょう。"
"まあ。"
"ねえ、巌本真理のバイオリン、聴きに行きませんか?"
''いつ?"
"今日。切符があるんですがね。"
"いいわね、これ、私のために、取ってくださったの?"
"そうですよ。"
"ほんと?"
"ほんとですよ。"
"そうかしら?でも、よすわ。恨まれるから。"
"いいですよ。行きましょう。"
"嫌よ。"
"恨みませんよ。"
"でも、よしとくわ。" 
"繋がってますね、お沢庵。"
"そう。包丁が、よく切れないの。"
演奏会場。服部は、一人で演奏を聴く。紀子は、夜の街を歩く。
周吉をアヤ(月丘夢路)が、訪ねる。
"こんばんわ。"
"誰?" 
"おじさま。"
"アヤちゃんか。"
"え。"
"やあ。"
"こんばんわ。"
"お上がり。"
"紀ちゃんは?"
"もうすぐ帰って来るよ。まあ、お上がり。"
"さ、さ。こっちおいでよ。"
"葉山の姉の所へ、行ったもんですから。"
"あ、そう。アヤちゃん、最近、盛んだそうだね。"
"何がですの?"
"なかなか忙しいんだってね。"
"そうでもありませんわ。"
"引っ張りだこなんだって?タイピスト。"
"タイピストって言うんじゃないのよ。"
"ああ、そうか。そりゃ失礼。じゃあ、英語の作品もやるんだねえ?"
"やるわよ。"
"偉いんだねえ。"
"偉くもないけど。" 
"いや、偉いよ。" 
"じゃあ、お小遣いには、困らないね。"
"ええ。まあまあね。"
"そうかい。その後、あれかい、お父さん、お母さん、何ともしてないかい?"
"何を。''
"お嫁の話。"
"ええ。ここんとこ、暫く。いい塩梅。"
"一度でも、懲り懲りかい?"
"結婚?"
"うん。"
"そうでもないけど。"
"何とか言ったねえ?"
"だあれ?" 
"ほら、前の。"
"謙。"
"ああ、謙吉君か。逢わないかい、その後。"
"ええ、一度も。"
"逢ったら、アヤちゃん、どうする?"
"睨みつけてやるわ。"
"うーん。そんなに嫌かい?"
"家出しちゃうわ。とっても嫌い。"
"そうかねえ。"
紀子が帰って来る。
"ただ今。"
"お帰りなさい。"
アヤは、立って、紀子を迎えようとするが、"どうしたい?""痺れ、切れちゃった。"
"来てたの、アヤ。"
"うん。"
"ただ今。" 
"お帰り。"
"おじさんと、懇談しちゃった。"
"泊まって行くんでしょ?"
"うん。"
"二階行かない?''
"お前、ご飯は?"
"いいの。お父さんも、お済みになったでしょ?"
"うん、俺は、食った。"
"行こ。" 
"あ。"アヤは、ハンドバックを拾う。
"紀子、こないだのクラス会、なぜ来なかったの?"
"大勢、来てた?"
"14、5人。"
"昌先生も、いらしたの?"
アヤは、うなずく。
"相変わらず、口角、泡飛ばしていた?"
"つばきだらけ。それが、皆んな、お口入るのよ。だから、周りの人、堪んないの。私は、遠くにいたから、飲んだけど。"
"あの人、来た?ほら、学校出て、すぐお嫁に行った。" 
"ああ、池上さん。来たわ。ずるいのよ、あの人。つばき姫が、お子さん、いくつおありって聞いたら、3人でございますって、澄ましてるの。本当は、4人いるのよ、一人サバ読んでんの。" 
"もう4人?"
''うん、そうなの。それから、スケソウダラね。" 
''ああ、篠田さん。"
"あの人、放送局辞めて、お嫁に行くんだって。"
"どこへ?"
"三河島第一班。"
"ほんと?"
''何となく、そんな気がするじゃない。"
周吉が、パンと紅茶を運んで来る。
"おじ様、済みません。"
"いや、これでいいのかな?"
"あ、お砂糖がない。"
"あ、そうか。"
"いいのよ、お父さん、私、取りに行きますから。"
"そうかい。じゃ、お父さん、先に寝るよ。アヤちゃん、お休み。"
"お休みなさい。"
"お休み。" 
"食べる?パン。"
"もっと後で。ちょいと、スプーンもないじゃない。"
"そうなのよ。あの人、来てた?渡辺さん。"
"あ、千代ちゃん?来なかった。あの人、今、これ(妊娠)なんだって。第二ぽんぽん、火加減。"
"ふうん、あの人、いつお嫁に行ったの?"
"ほら、行かないのよ。"
アヤは、紀子に耳打ちする。
"まあ、やだ。"
"やだってたって、仕方がないわよ。すべては、摂理よ。神様の。"
"もう、あんたと広川さんだけよ、お嫁に行かないの。"
"そう。"
"そうなのよ、あんた。"
"そう?" 
"いつ行くの、あんた。"
"行かないわ。"
"行っちゃいなさいよ、早く。"
"嫌よ。"
"行っちゃえ、行っちゃえ。"
"何言ってんのよ、あんたにそんなこと、言う資格はないわ。" 
"あるわよ。おありよ。" 
"ない、ない。出戻り。"
"ある、ある。まだ、ワンダンだ。"
"これからよ、ヒット打つの。"
"あんた、まだヒット打つ積もり?"
"そうさ。第一回、選球の失敗だもの。今度は、いい球、打つわよ。行っちゃいなさい、あんたも早く。" 
"何、笑ってんのよ?真面目な話よ。"
''ねえ、ちょっとあんた、パン食べない?''
"パン、後後。"
"お腹が、空いちゃった。"
"空いてもいいの。"
"じゃあ、私だけ食べる。"
"私も食べるんだ、実は。"
"じゃあ、仕立てて来るわ。"
"それと、ジャムね。"
"ある。"
"持って来て、少し。"
"どっさり。実は。" 
"そう。"
柱時計が12時の鐘を叩く。

少年たちが、草野球。
紀子が、草野球に加わらない甥勝義に、声を掛ける。
"ぶーちゃん、どうして、野球しないの?喧嘩でもしたの?"
"ぶーちゃん。何で、怒ってるのよ。"
"乾かないんだよ、エナメル。"
"何のエナメル?"
"バットだよ。"
"ああ、あのバットにしたの?" 
"そうだよ。"
"あらあら、今日は、海面だらけにして、怒られるわよ、母さんに。" 
"もう、怒られちまったや。"
"泣いたんだろ?"
"泣きやしねえやい。あっち行け、紀子、ゴムのり。"
"何だい、ぶー。泣いたくせに。"
"何い、付けちゃうぞ、あっち行け、ゴムのり。"
"何だい、ぶー。" 
まさが、やって来る。
"紀ちゃん。"
"お客様、お帰りになって?"
"今、帰るとこ。ちょっと来て。"
紀子は、勝義のおもちゃに悪戯する。
"こらっ。" 
"外出ちゃダメよ、今日は。"
"あの、これ、曽宮の娘、紀子です。"
"こちら、丹羽さん。"
"三輪でございます。いつも北鎌倉で。"
"まあ、大変長いこと、お邪魔しまして。"
"いいえ、どういたしまして。" 
"いずれまた。失礼申し上げまして。"
''紀ちゃん、ちょっと。"
"ちょっと、そこ、座ってよ。"
"なあに、おばさん。"
"あんたも、そろそろお嫁に行かなければならない年だし。" 
"ああ、そのこと。いいのよ。おばさん。"
"よかないわよ。お座んなさいよ。実は、いい人があるんだけど。一度、あんた、逢ってみない?佐竹さんて、東大の理科出た人で、おうちは、伊豫の松山の旧家なの。今、丸の内の日東化成にお勤めでね、その方のお父さんも、戦争まで、そこの重役をやらしていたの。年は、34で、あんたとちょうどいいし、お勤め先でも、とっても評判のいい方なのよ。どう?ほら、何とか言ったっけ、アメリカの、こないだ来た野球映画のさ。" 
"ゲーリー・クーパー?"
"そうクーパー、あの男に似てるの。口元なんか、そっくりよ。この辺(目元)から上は、違うけど。ねえ、どう?一度逢ってみない。ほんとに立派な、いい人よ。ねえ、どう?"
"私、まだお嫁に、行きたくないのよ。"
"まだって、あんた、どうしてさ?"
"どうしてって。私がお嫁に行くと、困るのよ。"
"何が?"
"お父さんよ。私は、もう慣れてるから、平気だけど、あれで、変に気難しいところがあるのよ。私がいなくなると、父さん、きっと困るわ。"
"困るったって、あんた、しょうがないわよ。"
"だけど、お父さんのこと、私が一番よく知っているのよ。"
"でも、お父さんはお父さんのこととして、あんたはどうなのさ。"
"私、それじゃあ、嫌なの。"
"そんなこと言っていたら、あんた、一生、お嫁に行けないよ。"
"それでもいいの。"
"ねえ、紀ちゃん。さっきの三輪さんね、お父さんにどう?" 
"どうって?" 
"あんたがいなくなりゃ、お父さんも困るだろうし、どうせ誰かに来てもらうなら、あの人なんか、どうかしら?じゃもう一度、ここへ来て、座ってよ。あの人も、いいお宅の奥様だったんだけど、旦那さんを亡くして、子どもさんもないし、気の毒な人なのよ。ねえ、どうかしら?しっかりした人だし、好みもいいし。"
"その話、お父さん、知っていらっしゃるの?"
"こないだ、ちょっと話はしてみたけど。"
"お父さん、何とおっしゃって?"
"ふんふんと、パイプ磨いてたけど。別に、嫌でもなさそうだった。"
"だったら、私にお聞きになることないわ。"
"でも、あんたの気持ちも聞いておきたいしさ。どう?"
"いいんでしょ。お父さんさえ、よかったら。"
紀子が家に帰って来る。
"お帰り。どうだった、おばさんのとこ。"
"別に。"
"お風呂、沸かしてもらったよ。今、ちょうどいい。"   
紀子は、つれない態度をとる。
周吉が、二階に上がる。
"おい。"
"何?"
"何だった?おばさんのとこ。どうしたんだい?どうかしたのか?" 
紀子は、部屋を出て、また外出する。
"どこ行くんだい?おい。"
"買い物。"

服部が、しげの家を訪ねる。
"ごめんなさい。や。"
"あれまあ、今日は、どなたさんもお留守でしたよ。皆さん、朝からお出掛けで。"
"そうですか。"
"応援しに行くとかでね、皆さん、お出掛けになりましたよ。"
"そうですか。じゃあ、お帰りになったら、これを。"
"さいですか。かしこまりましたです。"
"お礼に伺ったと、お伝えください。"
"さいですか。お気の毒さんでしたよ。"
"じゃあ。"
"ごめんなせいまし。"
預かった封筒には、服部の婚礼写真が入っている。
"外で、あげても、待っとくかな。"
"ああ。あんさ、見てみなよ、これ。"
"服部さんだな、これ。"
"この人は、紀子さんの旦那さんになると、思てたんよ。うめえこと、写すもんだねえ。嫁さんも、別嬪さんだしよ。"
周吉と紀子は、能を鑑賞する。二人は、三輪を見つけ、会釈する。紀子の注意は、三輪の方に逸れる。能を観終えた二人は、歩いて帰るが、紀子の心は晴れない。
"今日の能は、なかなか良かったよ。瀧川で、ご飯でも食べて、帰ろうか。どうする?"
"私、ちょっと寄り道がある。"
"どこだい?"
"いいの。"
"帰り遅いのか?"
"分からない。"
紀子は、アヤの家に行く。
"ごめんね、待たせて。紀子。ちょっと手が離せなかったのよ。ショートケーキ拵えていたのよ。ちょっとバニラ入れ過ぎちゃった。おいしいわよ。あっちの部屋、行かない?さあ、行こう。冷たい手、してんのね、あんた。"
"ふみ、今のお菓子ね、あっちの部屋に持ってって。"
"どうして、そんな気になったのさ。ねえ、どうして?"
"ただ、何となく。" 
"食べない?"
"うん。ねえ、難しいもの?"
"何が?"
"服のグラフォンなど。"
"そりゃ大して難しいもんじゃないわよ。私だって、やってんだもの。"
"ねえ、食べない?おいしいわよ。だけど、今からそんなことして、どうする積もり?ねえ、どうする積もりなの?"
"だから、何となしに。"
"何となしじゃ、敵わないわよ。私だって、謙があんな奴じゃなかったら、今時分、こんなことしてないわ。出戻りで、敷居が高いから、始めたのよ。あんたなんか、さっさと、お嫁に行きゃいいのよ。"
"そんなこと、聞いてやしないわよ。"
"聞いてなくても、教えてあげんのよ。"
"忘れてほしくないわ、そんなこと。"
"ただ、何となしに、行っちゃいなさい。"
"食べないの?"
"欲しくないの。"
"お上がんなさいよ。"
"食べたくないの。"
"美味しいんだったら。"
"沢山。"
"何よ、このくらい。私がこさえたんじゃないの、お上がんなさいよ。"
"嫌なの。"
"お上がんなさいったら。無理だって、食べさせるわよ。"
"嫌なのよ。"
"何よ、ヒス。嫌ならいいわよ。だから、あんた、早くお嫁に行きゃ、いいのよ。どこ行くのよ?" 
"帰る。"
"帰る?ほんとに帰るの?あんた、泊まって行くんじゃなかったの?泊まってらっしゃいよ。"
紀子は、家に帰る。
"ただ今。"
"お帰り、どこ行ったんだい?"
"アヤんとこ。"
"おい、おばさんのとこから、手紙が来たんだがな。土曜日に、お前に来てくれって、明後日。"
紀子は部屋に行く。
また、下に下りる。
"あらましの話しは、こないだ行った時に、聞いたんだろう。一度、逢ってご覧。その人も来るんだそうだ。"
"その話、お断りできないの?"
"まあ、一度、逢ってご覧。嫌なら、そのうえで断ったら、いいじゃないか。紀子、ちょいとおいで。お座り。おばさんからも、聞いたろうが、佐竹って言うんだがね、その男は。お父さんも逢ってみたら、なかなか立派な、いい男なんだ。あれなら、お前としても、不満はなかろうと、思うんだが。兎に角、明後日、行って、逢ってご覧よ。お前も、いつまでも、このままでいられまいし。いずれは、お嫁に行ってもらわなきゃいけないんだ。ちょうどいい時だと、思うんだが。どうだろう?おばさんも、大変、心配してくれるんだよ。なあ。"
"でも、私。"
"うん?"
"このまま、お父さんと一緒に、いたい。"
"そうも、いかんさ。そりゃ、お前がいてくれたら、何かにつけ、重宝なんだが。"
"だったら、私。このまま。"
"いや、それはいかんよ。お父さんも、今まで、あまりにお前を重宝に使い過ぎて、つい手放しにくくなっちゃって、済まんことだと、思っているんだ。もう、行ってもらわないと、お父さんとしても、困るんだよ。"
"だけど、私が行っちゃったら、お父さん、どうなさるの?"
"お父さんは、いいさ。"
"いいって?"
"どうにか、なるさ。"
"それじゃあ、私、行けないわ。"
"どうして?"
"ワイシャツだって、カラーだって、お父さん、汚れたままで平気だし、朝だって、きっとお髭をお剃りにならないわよ。"
"うん。髭ぐらい剃るさ。"
"だけど、私が片付けなきゃ。机の上だって、いつまで経っても、ゴチャゴチャだし、それに、いつか、ご自分でお炊きになった時に、お焦げのご飯、毎日、召し上がるのよ。お父さんのお困りになるの、目に見えるわ。"
"うん、だが、もし、例えばだ、そんなことでお前に、心配かけないとしたら、どうだろう。仮に、誰かお父さんの世話をしてくれる者があったら。"
"誰かって?"
''例えばだよ。"
"じゃあ、お父さん、小野寺のおじさんみたいに、奥さんをお貰いになるの?"
留吉は、小さくうなずく。
"お貰いになるのね、奥さん。"
留吉は、うなずく。
"じゃあ、今日の方ね。"
"うん。" 
"もう、決まってるのね。"
"うん。" 
"ほんとね。"
"うん。"
"ほんとなのね。"
紀子は席を立ち、二階に上がる。
"お父さん、来ないで。下、行ってて、下、行ってて。"
"まあ、兎に角、明後日、行ってくれね。皆んなが、お前のこと、心配してくれてるんだから。いいね、行ってくれるね。頼むよ。"
"ああ、明日もいい天気だ。" 
紀子は、さめざめと泣く。
まさと周吉。
"紀ちゃん、何と言ってるの?"
"別に、何とも言わないんだよ。"
"何とも言わないって、お見合い済んで、もう一週間になるのに、ご返事しない訳には行かないわよ。"
"うん。そうなんだがね。"
"言うことないと、思うんだけど。"
"うん。" 
"紀ちゃんだって、気に入ってんのよ。そうよ。きっとそうよ。"
"また何だって、紀ちゃん、今日、東京に行ったの?呑気過ぎるわ、兄さんも。どうしても、返事聞いていただきゃなか。紀ちゃん、何時頃に、帰るって?" 
"さあ。"
"兄さん。がま口拾っちゃった。こりゃ、運がいいわよ。きっと、この話、うまく行くわ。"
"お前、届けないのかい?"
"届けるけどさ、縁起が、いいじゃない。さ、行きましょう。"
紀子とアヤ。
"どんな人だった?どんなタイプよ?太ってんの?"
"ううん。"
"じゃ、痩せっぽち?"
"ううん。"
"どっちさ?"
"学生時分、バスケットボールの選手だったんだって。"
"ふうん、いい男?どんな人よ?"
"おばさんは、ゲーリー・クーパーに似ていると、言うんだけど。"
"じゃあ、すごいじゃない。あんた、昔からクーパー、好きじゃないの。"
"でも、私は、うちに来る電器屋さんに、似てると思うの。"
"その電器屋さん、クーパーに似てる?"
"うん。とてもよく似てるわ。"
"そしたら、その人とクーパー、似てるんじゃない。何さ。ぶつよ。"
"でも、あんたにしちゃ、感心よ。よくやったわね、お見合い。いいじゃないの、なかなか。はねるとこ、ないじゃない。行っちゃいなさいよ。今時、そんな人って、滅多にいやしないわよ。言うとこないわよ。"
"でも、嫌ね。"
"何が?"
"お見合いなんて。"
''贅沢言ってるわ、あんたなんか、お見合いでもしなかったら、お嫁に行けやしないじゃないの。"
"だって。" 
''だって、そうじゃないの。じゃあ、あんた、好きな人が出来たら、出掛けて行って、結婚、申し込める?そんな度胸、ないじゃない。赤い顔して、お尻もじもじさせているだけじゃないの。" 
"そりゃ、そうだけど。"
"見合いでいいのよ、あんたなんか。私は、言えたけどさ。その代わり、見てごらんなさい。ちっともよくなかったじゃない。大体、男なんて、ダメよ。ずるいわよ。結婚するまでは、うまいこと行って、いいとこばかり、見せているけれど、結婚したら、とても嫌な所ばかり、見せて来るんですもの。恋愛結婚だって、あてになりゃしないわよ。"
"そうかしら?"
"そうよ。同じことよ。行ってみんのよ。嫌だったら、出て来んのよ。"
"平気よ。平気、平気。兎に角、行ってみんのよ。で、にっこり笑ってやんのよ。そしたら、旦那さん、きっと来るから、ちょこっと、お尻の下に敷いてやるのよ。"
''まさか。"
"そうよ。そういうもんなのよ。冗談だと思っているの、あんた。" 
"そうかしら?"
"そ、そうすりゃ、いいのよ。試してご覧なさい。きっとうまく行くわよ。"
周吉の家で、紀子の帰宅を待つ周吉とまさ。
"紀ちゃん、遅いわね。" 
"うん。"
"私、また来ようかしら。" 
"もう少し、待っててご覧よ。次の電車で帰るよ。"
"そうかしら。"
"いい返事、してくれると、いいけどね。"
"大丈夫よ。紀ちゃん、気に入ってるのよ。"
"そうかなあ?"
"照れてんのよ。大体、今時の娘にしちゃ、旧式なのよ。あの子。"
"そうかな?うん。"
"あれで、紀ちゃん、詰まらないこと、気にしてるんじゃないかしら。"
"何を?"
"名前。佐竹さんの。"
"佐竹熊太郎か?"
"うん。熊太郎。"
"いいじゃないか、強そうで。そりゃ、お前の方が、よっぽど旧式だよ。そんなこと、気にしてはいやしないよ。"
"だって、熊太郎なんて、何かこのへん、もじゃもじゃ毛が生えてるみたいじゃないの。"
"うん。"
"若い人、案外、そんなこと、気にするもんよ。紀ちゃん、行くでしょ、私、何て呼んだらいいの?熊太郎さんなんて、山賊呼んでいるみたいだし、熊さんって言やぁ、八つさんみたいだし、だからって、熊ちゃんって、呼べないじゃないの?"
"うん、でも、何とか言って、呼ばないとしょうがないだろう。"
"そうなのよ。だから、私、くーちゃんって、呼ぼうと思ってるんだけど。"
"くーちゃん!"
"うん。どう?"
"うん。" 
"あ、帰って来た。"
"うん。"
"ただ今。"
"ちょっと、来た。"
"うん。"
"あれはね、確かそう。"
"ただ今。"
"お帰り。""お帰りなさい。"
紀子は、素通りして、二階に上がる。
"どうなんだろ?"
"うん。"
"私、聞いて来るわね。"
"おい。"
"何?"
"うまく聞いてな。"
"大丈夫よ。"
"あら、紀ちゃん、お帰り。"
"ただ今。"
"あの、こないだのご返事ねえ、どうだろ?考えといてくれた?ねえ、どう?"
紀子は、取り合わない。
"ねえ、ほんとにいいご縁だと、思うんだけど。どうなの?ねえ、どう?行ってくれる?ねえ、どう?"
"ええ。"
"行ってくれるの?"
"ええ。"
紀子は、背中を向け、かすかに返事する。
"そう?本当?行ってくれるのね。"
紀子は、小さくうなずく。
"ありがと。明日、返事するわよ。じゃあ、いいのね。これで、私もほっとしたわ。"
まさは、満面の笑みで、兄に報告する。
"どうだった?"
"行ってくれるって。思ったとおり。"
"そうかい、そりゃ良かった。"
"じゃ、兄さん、私、お暇するわ。良かった、良かった。早速、先方に、ご返事しとくわ。"
"ああ。ご苦労さんだったな。"
"まだ間に合うわね、9時35分?"
"ああ。少し急いだ方が、いいよ。"
"そう。"
"これで、私、すっかり安心しちゃった。今夜から、ゆっくり眠れるわ。日取りのことなんか、私、また来ますからね。兄さんも、ついでの時でも、寄ってよ。"
"ああ、行くよ。"
"やっぱり、がま口拾ったのが、よかったのよ。"
"おお、それね、届けとけよ。"
"大丈夫よ。届けるわよ。じゃあ、閉めないで、帰ります。さいなら。"
"やあ、ありがと。気を付けてな。"
"さよなら。"
"ああ、さよなら。"
紀子が下りて来る。
"おばさん、今帰ったよ。"
"そう。"   
"大変、喜んでたよ。いいんだね?そう返事して。"
"ええ。"
"だけど、お前、諦めて行くのじゃないだろうね。"
"ええ。"
"嫌々行くんじゃないんだね。"
"そうじゃないわ。"
"そうかい。それなら、いいんだけど。"
紀子は、冷たい視線で、父を見る。
周吉は、考え込む。
▶︎京都旅行
周吉と紀子は、京都に、旅する。
"夕べ、汽車の中、お前、よく寝られたかい?"
"ええ。"
"お父さんも、よく寝たよ。朝、目が覚めたら、瀬田の鉄橋だった。"
"私も、名古屋から米原まで、知らなかった。"
"ふうん。"
小野寺が、座敷で待っている。
"やあ、お待ちどう。さっぱりしたよ。"
"早いだろ、紀ちゃん。"
"いいえ、それ程でも。"
"しかし、よく出て来たね。"
"うん。"
"紀子がね、急に、お嫁に行くことになってね。"
"そう。"
"それで、お別れに、遊びに来たんだ。"
"そうかい、そりゃ良かった、おめでとう。おめでとう、紀ちゃん、おい。紀ちゃん。どんなお婿さんだい、おじさんとどうだい?"
"そりゃ、比べものにならんよ。"
"どっちだい?"
"そりゃ、おじさまの方が、素敵よ。"
"そうかい。ほんとかい?ご馳走するかな、紀ちゃんに。"
"どうだい?今日、昼。"
"うん。"
"行こうか、瓢亭。"
"いいねえ。"
"美佐子も、紀ちゃんに、逢いたがっているんだよ。"
"そう?私もお目にかかりたいわ。"
"その代わり、汚らしいのも、来るんだよ。"
"まあ。"
"いいかい?あっはっは。"
清水寺。周吉と小野寺の妻。
"京都は、いいですね、のんびりしてて。東京には、こんなとこありませんよ。ほこりぽくって。"
"先生、京都には、時々、おいでになりますの?"
"いやぁ、何年振りですかな?終戦後、初めてですよ。"
"ああ、そう。"
"おじさまー。"
横の舞台から、美佐子が呼ぶ。周吉は、手を振る。
"紀ちゃん、汚らしいのどうだい?"
"嫌なおじさま。"
"聞かしとくれよ、感想を。"
"なあに?お父さま、汚らしいのって。"
"うーん。不潔なんだよ。ねえ、紀ちゃん。"
小野寺は、紀子に、軽く叩かれ、小野寺は、笑う。
夜。
周吉と紀子は、布団を伸べ、寛ぐ。
"今日は、随分、歩いたなあ。お前、疲れなかったか?"
"いいえ。"
"前に、高台寺に行った時は、萩が盛んで、なかなか綺麗だった。明日、お前、どうするんだい?"
"10時頃、美佐子さんが来てくれるって。どこ行くの?何だったら、博物館に行ってみると、いい。"
"ええ。"
"寝よか。"
"ええ。消しましょうか?"
"ああ。"
"ねえ。"
"うん?"
"私、知らないで、小野寺のおじさんに、悪いこと言っちゃって。"
"何を?"
"おばさまって、とてもいい方だわ。おじさんとお似合いだし、汚らしいなんて、私、言うんじゃなかった。"
"うん、いいさ、そんなこと。"
"とんでもないこと、言っちゃって。"   
"本気になんか、してないよ。"
"そうかしら?"
"いいよ、いいんだよ。"
"ねえ、お父さん、私、お父さんのこと、とても嫌だったんだけど。"  
周吉は、眠り、寝息を立てる。
龍安寺の庭。周吉と小野寺。 
"しかし、紀さん、よくやる気になったね。"
"うん。"  
"あの子なら、きっといい奥さんになるよ。"
"うん。持つなら、やっぱり男の子だね。女の子は、詰まらんよ。折角、育てると、嫁にやるんだから。" 
"うん。"
"行かないなら、行かないで心配だけど、やっぱりやるとなると、詰まらんよ。"
"そりゃ、しょうがないよ。我々だって、育てられたの、もらったんだから。"
"そりゃ、そうだ。"
周吉と紀子は、帰り支度をする。
"早いもんだね、来たと思ったら、もう帰るんだね。"
"ええ、でも、とても楽しかった、京都。" 
"うん。よかったね。贅沢言ったら、キリがないが、奈良にも一日行ってみたかったな。"
"ええ。"
"こんなことなら、これまでお前と、方々、行っとくんだったよ。これで、もうお父さんとは、おしまいだね。帰ると、忙しくなるぞ、お前は。おばさん、待ってるだろう。帰りの急行も、いい塩梅に、座れるといいがね。まあ、どこにも連れて行ってやれなかったけど、今度は、連れて行ってもらうさ。佐竹君に、可愛がってもらうんだよ。どうした?"  
紀子の手が止まる。
"どうしたんだい?"
"私。"
"ん?"
"このまま、お父さんといたい。どこにも行きたくないの。こうして、お父さんと一緒にいるだけで、いいの。それだけで、私、楽しい。お嫁に行ったって、これ以上の楽しさはない。このままでいい。"
"だけど、お前、そんなこと言ったって。"
"いいえ、いいの、お父さん、奥さんお貰いになっていいのよ。やっぱり、私、お父さんのおそばにいたい。お父さんが好きなの。お父さんと、こうして一緒にいることが、一番の幸せなの。ねえ、お父さん、お願い。このままにしといて。お嫁に行ったって、これ以上の幸せがあるとは、思えないの。"
"だけど、それは、違う。そんなもんじゃ、ないさ。お父さんは、もう、56だ。お父さんの人生は、もう終わりが近いんだよ。だけど、お前たちは、これからだ。これから、新しい人生が始まるんだよ。つまり、佐竹君と作り上げていくんだよ。お父さんには、関係のないことだ。それが、人間生活の歴史の順序というもんだよ。そりゃ、結婚したって、最初から幸せじゃないかも知れないさ。結婚して、いきなり、幸せになれるという考え方が、むしろ間違っているんだよ。幸せは、待ってるもんじゃなくって、やっぱり自分たちで、作り出すもんなんだよ。結婚することが幸せなんじゃない、新しい夫婦が、新しい一つの人生を作り上げていくことが、幸せなんだよ。1年かかるか、2年かかるか、5年先か、10年先か、努めて、初めて分かるんだよ。それでこそ、初めて、本当の夫婦になれるんだよ。お前のお母さんだって、初めから幸せじゃなかったんだ。長い間には、色んなことがあった。台所の隅っこで、泣いてるのを、お父さん、幾度も見たことがある。でも、お母さん、よく辛抱してくれたんだよ。お互いに、信頼するんだ。お互いに、愛情を持つんだ。お前が、これまで、お父さんに持っててくれた、温かい心を、今度は、佐竹君に持つんだよ。いいね。そこに、お前の新しい幸せが生まれて来るんだよ。分かってくれるね。"
紀子は、小さくうなずく。
"分かってくれたね。"
"ええ。"
"わがまま言って、済みません。"
"そうかい、分かってくれたかい。" 
"ええ。本当にわがまま言って。"
"いや、分かってくれて、良かったよ。お父さんも、お前に、そんな気持ちでお嫁に行ってほしくは、なかったんだ。まあ、行ってご覧。お前なら、きっと幸せになれるよ。そう、難しいもんじゃないさ。" 
"ええ。“
"きっと佐竹君といい夫婦になるよ。お父さん、楽しみにしてるからねえ。そのうちに、今晩、ここでこんなことを話したことが、きっと、笑い話になるよ。" 
"すいません。ご心配をかけて。"
"いや、なるんだよ、幸せに。いいね。" 
"ええ。そうなってみせますわ。"
"うん、なるよ。きっとなれるよ。お前なら、きっとなれる。お父さん、安心してるよ。なるんだよ。幸せに。" 
"ええ。" 
▶︎嫁ぐ日
紀子の家の前に、黒塗りの車。
礼装した周吉と服部。
"これで、パラパラと来たんで、どうかと思ったんですが。"
"ああ。いい塩梅だったよ、天気になって。降られちゃ、大変だからね。" 
"そうですね。"
"君は、新婚旅行、どこ行ったね?"
"湯河原です。"
"そう。紀子たちも湯河原行くんだが。あそこは、駅からバスだけかい?"
"いえ、ハイヤーがあります。"
"そう、ハイヤーもあるのか。"
"ええ。"
"先生。お二階で、呼んでまあすですよ。"
"あ、そう。お嬢さん、綺麗に支度なさいまして、一遍、ご覧なさいましまし。"    
"そうですか。じゃあ。"
"いいお嫁さんになりやしたでえすよ。"
"いやあ。"
"あ、兄さん、支度、もう出来たわよ。"
"そうか。"
"自動車、来てるかしら?"
"もう、来てる。"
"そう。"
"ご苦労さん、や、ご苦労さん。"
花嫁姿の紀子。
"やあ、出来たな。"
"では、私たち、先に。""では、これをお持ちしますので。"
"済みません。"
"紀ちゃん、持ってるわね、お扇子。"
"ええ。"
"綺麗なお嫁さんになって。亡くなったお母さんに、一目、見せてあげたかった。"
"じゃ、そろそろ出かけようか。途中、ゆっくり行った方が、いいからね。"
"兄さん、何か、紀ちゃんに、言うことは?"
"いや、もう何も言うことないよ。"
"そう。じゃあ、紀ちゃん、行きましょう。"
"お父さん、今まで、お世話になりました。"
"幸せに、いい奥さんになるんだよ。幸せにな。なるんだよ、いい奥さんに。"
"ええ。"
"さあ、行こうか。"
近所の人が、見送りに集まる。

式を終えて、周吉とアヤ、小料理屋で飲む。
"アヤちゃん、どう?"
"ええ。これで、3杯目よ。"
"うん。"
"私、5杯まで大丈夫なの。いつか、6杯飲んだら、ひっくり返っちゃった。"
"そうかい。"
"お待ちどう様。先日、小野寺先生と一緒にお嬢さまが、見えられまして。"
"そうだってねえ。"
"驚きましたよ、すっかり立派になられて。今日は、お嬢さまは?"
"今、東京駅で見送って来たところだよ。嫁に行ったよ。"
"そうですか?そのお帰りで。どうも、おめでとう存じます。"  
"ありがとう。" 
"おじさま。"
アヤがお釈する。
"紀ちゃん、もう、どの辺かしら?"
"うん。大船辺りかな。"
"そうね。おじさんも、当分、お淋しいわね。"
"うん。そうでもないさ。じきに慣れるさ。アヤちゃん、どう?4杯目。" 
"ええ。"
"ねえ、おじさま。"
"うん?"
"おじさま、奥さんをお貰いになるの?" 
"どうして?" 
"だって、紀子、気にしてたわ。一番、そのこと、気にしてたらしいわ。およしなさい、そんなものお貰いになるの。ダメよ、貰っちゃ。いい。"
周吉はうなずく。
"ほんとよ。"  
"ああ。でも、ああでも言わなけりゃ、紀子は、お嫁に行ってくれなかったんだよ。"
アヤは、周吉の額にキスをする。
"おじさま、いいとこあるわ、とても素敵、感激しちゃった。いいのよ、淋しくないわよ。淋しかったら、私、時々、遊びに行ってあげるわ。本当よ。"
"本当に、遊びに来てくれるねえ、アヤちゃん。"
"ええ、行くわ。ああ、いい気持ち。はい、5杯目。おしまい。"
"アヤちゃん、ほんとだよ、ほんとに遊びに来てくれるね。おじさん、待ってるよ。"
"ええ行く。きっと行くわ。私、おじさまみたいに、嘘つかないわ。"
"何?" 
"そんな上手な嘘、つけないもの。"
''しょうがないさ。おじさんだって、一世一代の嘘だったんだ。"
周吉が帰宅する。
"お帰りなさいませ。"
"ただ今。"
"お嬢さん、無事にお立ちになりましたか。"
"ああ。お陰様で。"
"さいですか、本当におめでとうございましたです。"
"いや、色々、ありがとう。"
"いいえ、ではお休みなさいませ。"
"ああ、せいさんによろしくね。"
"じゃあ、お休みなさいませ。"
"ああ、お休み。"
周吉は、籐椅子に座り、リンゴの皮を剥く。
鎌倉の海。
【感想】
戦前から遡り、いよいよ小津作品の核心に、迫った感がある。裕福な階層の家族の物語。父と二人で暮らす一人娘を、早く嫁がせようと、周囲は画策する。当事者の父娘は、互いを思いやる余り、娘は、嫁いだ後の父の世話を心配し、結婚に消極的。父は、再婚すると、ウソまでついて、娘を送り出す。身近にいそうな、少し癖がある親戚たちの振る舞いが、巧みに描かれる。

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