一人勝手に回顧シリーズ#小津安二郎編(23)#風の中の牝鷄(原題の表記は、"とり"の右側は、ふるとり)/何と言っても田中絹代

【映画のプロット】
▶︎時子の暮らし
東京の場末。酒井宅を、調査員が訪ねる。
"ごめんなさい。"
"酒井さんですな。皆さん、お変わりありませんな。雨宮時子さんは、お宅にいるんですな。"
"はっ。"
"間借りですね。"
"はっ。2階貸しとりますんで。"
"子どもさんと二人ですな。"
"はっ。"
"生活は?"
"ミシンの下請けをやっています。"
"ご主人は、まだですか?"
"はっ。" 
"まだですな?"
"はっ。"
"これは、区役所の方に、問い合わせてみましたかな?"
"はっ。こないだも出掛けたようでした。"
"そうですか。長いですね。"
"じゃ、お邪魔しました。"
"あ、チフスの注射、済みましたな。"
"はっ。" 
"じゃ、どうも。"
"お巡りさん?"
"うん。"
"お時さんは?"
"さっき、子どもと出掛けたようよ。"
"うん。" 
"何だか、また包んで持って行ったようよ。大変ね、あの人も。" 
"うん。"
時子たちの部屋。夫修一(佐野周二)の写真が飾ってある。
息子を連れて歩く時子(田中絹代)。秋子のアパートの扉をノックする。
"はい。"
"こんちわ。"
"いらっしゃい。"
"浩ちゃん、いらっしゃい。"
"おばちゃんに、こんちわしないの?"
"こんちわ。"
"こんちわ。"
"ねえ、これまた売ってほしいんだけど。"
"なあに?"
"今月、また足りなくなっちゃた。"
時子は、風呂敷を解く。
"あ、これ、オリエントの時に、拵えたのね?"
"あんた、まだこれ、持ってたの?わたし、とうに売っちゃった。"
"これ着て、皆んなで鬼怒川温泉行ったことあるじゃない。"
"紅葉の時ね。"
"うん。この着物、好きなんだけど。もう着ることもないわ。ねえ、これ、こないだの値段でいいから、売っちゃってよ。"
"いいの?あれで。"
"うん。しょうがないわ。"
"いい加減、貧乏に慣れたけど、なにもかも、こう高くなっちゃ、やり切れないわね。"
"そうね。いつも、2、300円のお金、持ってなくちゃ、配給品も取りに行けないわ。"
"まあ、どうにかって、もうどうにもやって行けないわ。これでもう、私、着物お仕舞いよ。"
"あたしなんか、もうとうに、ありゃしない。うちの人、安いんですもの、月給。"
"ねえ、いくらぐらいになるかしら、これ。"
"ちょっと聞いてみるわ。"
"済まないわねえ。もう何がなくてもいいの。この子さえ、大きくなれば。"
秋子は、別の部屋をノックする。
"はい。"
"ごめんなさい。"
"またちょっと、お願いがあるの。"
"なあに?"
''これ、売ってもらえない?これ、こないだの値段でいいんですって。"
"ああ、時子さんの?"
"高く売ってあげてよ。"
"うん。うまく欲しい人がいてくれれば、いいけどね。でも、今、こんなもの売っちゃ、損よ。"
"困ってるのよ。要るのよ、お金。"
"時子さん、何も、こんなことしなくても、楽に暮らせるじゃないの。"
"どうして?"
"綺麗だし、その気になりゃ、いいのよ。"
"よしてよ。そんな人じゃないわ。時子さん、旦那様、いるのよ。"
"あてになるもんですか。まだ、帰って来ないんだもの。馬鹿馬鹿しいじゃないの、苦労するだけ。これ(箱から勲章を取り出す。)売ってくれって、下の人に頼まれたんだけど、帯留めにどうかって。どう、こんなもの。買う人、ないわね。子どもになら、喜ぶけど。"
時子が、部屋でアイロンをかける。
"どうしたの?浩ちゃん。眠いの?今朝、早かったもんね。"
秋子が戻って来る。
"どうだった?"
''うん、頼んで来た。やな奴よ、あいつ。何だって、時子さん、綺麗だから、その気になりゃ、楽に暮らせるって。"
"ふん、あたしにも、そう言ったわ。"
"いつ?"
"こないだ。"
"嫌な奴。馬鹿ねえ。"
"浩ちゃん、どうしたの?元気ないわねえ。"
"ふん。お眠ちゃんらしいの。浩ちゃん、もう帰る?お暇する?"
"まだいいじゃないの。今からお芋でもふかすわよ。"
"いいわ。また今度、ご馳走になるわ。浩ちゃん、おんぶして行く?いらっしゃい。旦那様によろしくね。"
"ええ。''
"じゃあ、お願いするわ。"
"ええ。"
"おばちゃんに、さよならは?"
"いいわね。"
"お母さんにおんぶして。大きな赤ちゃん。"
"いいお天気ね。"
"うん。去年さね、今頃、放水路。また行かない?"
"うん、行きたいわ。ちょうどいいわ、青青して。一日、何も考えないで、のんびり遊びたいわ。"
"そうね。"
時子は、帰宅する。
"浩ちゃん、ただいま、浩ちゃん、おうちよ。ほうら、おんじするのよ。あら、お母さんね、浩ちゃんの靴、持って来ちゃった。"
時子は、玄関に下りる。
"お塩、取って来ました。これ、4人分で800グラム。お釣り5円40銭。はい。"
"済みません。"
"何だか、何でも高くなって、うっかり値段を聞かずに買えませんわ。これ(リンゴ)3つで100円ですって。あんまり高いんで、浩ちゃんのに、一つだけ買ってきましたわ。"
"昔なら、10銭も出せばね。"
"ええ。もっといいのが、ありましたわ。"
"どうも。"
"いいえ。"
時子が、部屋に戻ると、浩が伸びている。
"浩ちゃん、どうしたの?お眠ちゃん?"
"ねんねしたいの?どうしたの?どうしたのよ。元気ないわね。"
額に手を当て、額と額を合わせると、熱がある。
"浩ちゃん、浩ちゃん。"
時子は、浩を抱き抱える。
"浩ちゃん、浩ちゃん。しっかりしてよ。"
"浩ちゃん。"
時子は、階段を下りる。
"おばさん、おばさん。"
"はい。"
"何だか、急に、浩ちゃんが。"
"すぐ、お医者さん、連れて行ったら。"
"ええ、どこがいいでしょう?"
"どこが、いいかしら?どこがいい?"
"森田さんのとこへ。"
"行ける?"
"ええ。"
"学校の裏の。"
"近衛兵の、ペンキ塗りの。"
"ええ、分かってます。"
"気を付けて、行ってらっしゃいよ。"
"一緒に行ってあげようか?"
"いえ、大丈夫です。"
"気を付けてね。"
"では、行って参ります。"
"気を付けてな。"
"ええ。"
"どうしたんだ?"
"何だか、急に悪くなったんだって。"
浩を抱えて、歩く時子。
10時半。
"いかがでしょう?"
"まあ、容体を見て、どんどん注射してみましょう。明日の朝まで、もってくれれば、いいんですが。大腸カタルです。今晩は大事だから、よく冷やして上げてください。"
"はい。"
"お大事に。"
時子とおつねが、浩を見守る。
"どうも、大変なことになって。良くなってくれれば、いいわねえ。"
"あの、おばさんもどうぞ。もう遅いので。"
"ううん。" 
"どうぞもう。朝がお早いんですから。どうぞもう。"
"そうですか、じゃあ、これ(懐からポチ袋を取り出す。)、少しだけど、何かの足しにしてください。"
"まあ。"
"ほんの少し。氷代にでも。"
"そうですか。じゃあ、遠慮なく、いただいておきます。どうも、色々と、ご心配おかけしまして。"
"なんの。じゃあ、大事になさってくださいね。明日の朝、早く来ますからね。"
"すみません。"
"お大事に。"
"ありがとうございました。"
時子は、眠る浩を見つめる。
"浩ちゃん、悪かったね。お母ちゃん、馬鹿なもんだから、あんたにあんこ玉なんか、食べさせて。ごめんね。だって、あんた、欲しがるんだもの。ねえ、浩ちゃん、しっかりしてよ。よくなってよ。あんたがよくなってくれないと、お母ちゃん、困るのよ。いい?あんたにもしものことがあったら、お母ちゃん、どうするの?お母ちゃん、置いてって、行っちゃあ、嫌よ。いい?よくなるのよ、きっとよくなるのよ、いい?頑張ってね、頼むわよ。"
曖昧宿で、二人の女が待機中。鼻歌を歌う。
"ちょいと。" 
''なあに?"
"誰か泣いてやしない?"
"嫌よ。気持ちが悪い。"
夜が明ける。
"いかがでしょう?"
"いい塩梅でした。熱も下がりましたし、この分なら、心配ないでしょう。"
"まあ。左様ですか。色々と、ありがとうございました。"
"いやー、一時は、どうかと思いましたけど、よく頑張ってくれましたよ。いや、この分なら、もう安心ですよ。もうどんどん、よくなりますよ。"
"ありがとうございました。"
"じゃあ、また。"
"あの、この病院、入院料、10日分前納していただくことに、なってますから。"
"はい。"
''皆さんに、そうしていただいてるんで。"
"はい。後ほど。"
"よかったですね、早く良くなって。"
''はあ、お陰様で。"
"じゃあ。"
"色々と、ありがとうございました。''
"浩ちゃん、よかったね。偉かったね、よく、あんた頑張ってくれたわね。先生も、誉めてらしたよ。浩ちゃん、強いって。これで、お母さんも、すっかり安心しちゃった。よかったね。あんたにもしものことがあったら、お母さんも、一緒に逝こうと思ったのよ。よかったね。ああ、よかった、よかった。"
"浩ちゃん、どうしよう?ここのお払い。お母さん、お金ないのよ。どうしよう?ねえ、どうしたら、いい?困っちゃったね。馬鹿ね、お母ちゃん。あんたに、あんこ玉なんか、食べさせて。" 
大きな鉄骨の構築物と場末の洗濯物。
時子は、一人、物思いにふける。
酒井がやって来る。
"あんた、早く寝なさいよ。わしもな、昨日、寝ていないんだ。少し、寝ないと、体に毒だよ。もう、子どもは大丈夫だよ。おつねが、見ているんだし、もう心配ないよ。よかったね。"
時子は、鏡にやつれた姿を見る。時子は、顔を覆う。 
軽快な音楽が流れる曖昧宿。
麻雀卓を囲む部屋に、男が入って来る。
"どしたの?もう済んだの?"
"ああ。お前な、酒、一本くれよ。熱いの。"
"それ、何食ったの?"
"リャンピンだ。"
"ちいちゃん、お酒熱くしてね。"
"どうだった?鈴さん。具合。"
"ダメだった。言うこと聞かないんだよ。"
"誰が?"
"俺の方がよ。"
"嘘おっしゃい。そんな年じゃないじゃないの。"
"はい、つもったぞ。大きいぞ。"
"誰?親。"
"お前じゃねいか。"
"ちぇっ、箱テンだ。5000円貸してよ。"
"ちいちゃん、私にもお酒、熱いの。"
"さっきの2本返すわよ。"
"ねえ、どうした?あの人。"
"今、帰ったい。"
"ふうん。"
"あれ、どうだい?"
"また寝られないのかよ。"
"ダメよ。"
"すーさんたら、すぐリーチかけたがるからね。"
"よっぽど、あんた、今日、運がいいのよ。固いのよ、あの人。なかなか、うんと言わなかったんだから。"
▶︎後悔の日々
秋子が、時子を訪ねる。
"こんちわ。時子さん、います?"
"二階ですよ。"
"ちょっとお邪魔します。"
"どうぞ。"
"こんちわ、大変だったわね、浩ちゃん、入院したんだって?今、病院行ったの。そしたら、あんた、こっちだって、言うから。"
"そう。困っちゃった。病気されて。"
"よかったわね、だいぶよくなって。"
"ええ。"
"あたし、昨日、織江さんに会ったの。聞いたわ。あんたのこと。あんた、昨日、織江さんのとこ、行ったんですってね。ねえ、あんた、どうして、あたしに言ってくれなかったの?なぜ、私に相談してくれなかったの?あんただって、織江さんがどんな人か、よく知ってるじゃない。あの人に相談すれば、ろくな事言わないに決まってるじゃない。そんな取り返しのつかないことして、あんた、浩ちゃんが可哀想だと思わない?そんなことして、そんなお金で浩ちゃん、よくなっても、喜ぶもんですか。馬鹿よ、あんた、馬鹿だわ。"
"そんなこと言わないで。そりゃ私だって、あんたに相談したかったわ。あんた以外、頼る人が、ないんですもの。"
"じゃあ、なぜ、言ってくれなかったの?"
"もう、あんただって、苦しいの、知っているのよ。あんたに有り余っているお金があれば、私だって、喜んで貸してもらうわ。でも、頼めば、あんただって、無理してくれそうじゃない?私、あんたに頼めなかったわ。あんたを、みすみす困らせることが、分かっていたから。そりゃ、私のしたこと、いいとは思ってないわ。でも、浩は、どんなことしても、よくなってもらいたかったの。ここまで育てて来て、今更亡くすなんて、できなかったの。うちの人も、きっと、浩が大きくなったのを楽しみに帰って来るのよ。手紙にも、浩のことばかり書いてあるんですもの。浩がよくなってくれれば、私、どうなっても構わないと思ったの。ねえ、子どもが病気になって、咄嗟にお金が要るとき、蓄えのない女の身で、あんた、どうする?どうして、お金を拵える?ね、女に一体、何ができる?"
"そりゃ、私だって何にもできないかも知れないけれど、あんたと一緒に泣いてあげるくらいしかできないかも知れないけれど、でも、そんな思い切ったことをする前に、一度は相談してほしかったの。ね、あんた、覚えてる?昔、あんたと一緒に、広小路のオリエントにいた時に、あんたに言われて、私、危ないところで救われたことがあるわ。いいこと言ってくれたと、未だに有り難く思っているのよ。それなのに、そのあんたが、そんなことするなんて。"
"はっ、私馬鹿だったわ。どうかしてたのよ。何もかも売ってしまえば、よかったのよ。タンスも、ミシンも、鏡台も。でもあの人が帰って来て、私のことを考える。少しは、うちらしく、しておきたかったのよ。馬鹿だたわ、私。"
時子は頭を抱えて、泣く。
大きな構築物と洗濯物。
病院を掃除。
"ちょいと、雨宮さん、帰るわよ。"
"雨宮さん。"
浩をおぶった時子が、振り向く。
"お大事に。"
時子が会釈する。
"あの人、いくつかしら?"
"28よ。"
"地味ね。"
"割と綺麗ね。男好きのする顔よ。ほら。こないだ、ここにいた、高橋さんに似てんじゃん。"
"うん。患者さんと仲良くなった?"
"うん。"
"ちょっと、また来たわよ、あの学生。"
"しょうがないね。学生のくせに、あんな病気になって。"
"参勤して、学校に行ってる人もいるのにさ。"
"澄まして歩いているわ、ガーゼ取り替えて、染みあるくせに。"
"昼から、ここまた入院よ。"
"子ども?"
"ううん。お婆ちゃん。"
"ふうん。"
時子の部屋。
"浩ちゃん、よかったね。ピィピが治って。今日は、お布団の上で、遊んでいるのよ。おんも行っちゃダメよ。はい。"
"あー、お利口さんね。浩ちゃん、大人にしていたら、お母さん、今度、いい所に連れて行ってあげるからね。いい?"
"うん。"
"お利口ちゃんだからね。"
修一の写真を見つめる。
"ねえ、あなた。いつ、お帰りになるの?あなたのお帰り、いつまでお待ちすれば、いいの?あなたに早く、帰っていただかないと、私もどうしていいか、分からなくなりました。ねえ、怒ってらっしゃる?私のこと。馬鹿ね、私。私、ほんとに馬鹿でしたわ。ごめんなさい。でも、浩、あんなによくなったんです。"
川に浮かぶ舟。
時子と秋子は、土手で、休む。
"でも、よかったわね。浩ちゃん、元気になって。"
"うん。前より丈夫よ。この頃、よく食べるわ。"
"ねえ、あのくらいの時分、一番楽しいんじゃないかしら。"
"そうね。"
"私たち、何していたかしら?あの時分。何、考えていたんだろう?"
"あたし、お巡りさんのお嫁さんに、なりたかったんだって。死んだおっかさん、よく、そう言ってたわ。そう、ついこないだのような気がするけれど。私、もうすぐ30よ。"
"そうね、私たち、お店辞めて、もう7年になるもの。"
"あの頃、よく話し合ったわね、夢のようなこと。"
"あんた、よく言ってたじゃない。どこか、郊外に、都合、住むんだって。芝生があって、日当たりがよくって、何だっけ?"
"犬もいるのよ。"
"ああ、そうだっけ。テリアだっけ?"
"ううん。エアデルよ。"
"ああ、そうそう。ある日のことよ、旦那様、あなたに、とても素敵なコンパクト買って来たの。それは、パックスマスターだったの。"
"マックスファクターよ。"
"そうか、それは、あんたが一番欲しがっていたものなの。"
"いいわよ。もう。"
"浩ちゃん。危ないわよ。"
時子は、草の上に、寝転ぶ。
"もう、ダメね。くたびれちゃった。"
"何、言ってんの。持つのよ。昔のような夢。浩ちゃん、もうすぐよ、大きくなるの。"
"ええ、早く大きくなってくれれば、いいわ。 
▶︎修一の帰還
時子と浩は、歩いて帰宅する。
"ただ今。"
"お帰りなさい。"
"ただ今。"
"あんた、お帰りよ。"
"だあれ?''
"旦那様、お帰りよ。"
"まあ。"
"とてもお元気でね。"
"まあ。そうですか。"
"よかったわね。早く、行ってらっしゃい。"
"ええ。浩ちゃん、早く、いらっしゃい。"
部屋では、修一が寝ている。
"浩ちゃん、だあれ?浩ちゃんのお父さんよ。そうね、お父ちゃん、帰って来て。"
"お父ちゃんよ、浩ちゃん、忘れちゃった?お父ちゃんって、言ってご覧。"
"お父ちゃん。"
"もっと、大きな声で。"
"お父ちゃん。"
"お父ちゃん。"
"ほお。"
"お帰りなさい。お元気ですか?"
"おい、浩。"
"お返事は?お父ちゃんよ。"
"大きくなったなあ。ほら。おいで。"
"お父ちゃんのとこへ。"
"忘れちゃったのか?"
"忘れちゃったの?いつ、お帰りになったの?"
"今朝、着いたところだ。"
"お腹空いてらっしゃる?"
"ああ。"
"すぐ、ご用意しますから。何、召し上がる?"
"なんでもいいよ。"
"お肉にでもしましょうか?"
"ああ、いいね。"
"すぐ、行って来ますから。浩ちゃん、お父さんと待ってる?それとも、お母ちゃんとお使いに行く?"
"行く。''
"じゃあ、お支度のできるまで、もう一度、お休みになったら?"
"ああ、寝るか。夕べ寝てないんだ。"
"そんなに、汽車、混みまして?"
"うん、立ち通しだよ。"
時子は、修一に毛布を掛ける。
"これで、いいかしら?"
"ああ、大丈夫だ。" 
"行って来ます。ついでに、タバコ頼むよ。"
"何がよろしいの?"
"何でもいいよ。よく、煙出るの。"
"まあ。"
"浩ちゃん、行きましょう。"
修一は、満足そうに、天井を見つめる。
"ちょいと、行って来ます。"
"行ってらっしゃい。ちょっと。"
"これ、配給のお酒だけど、旦那さんに上げてくださいな。"
"まあ。"
"ご無事にお帰りになった、お祝いの徴ですよ。"
"そうですか、ありがとうございます。喜ぶでしょう。ちょっと、待ってらっしゃい。"
時子は、二階の上がり口に、一升瓶を置く。
酒井一家の夕食。正一が、お代わりをする。
"お母さん、4杯目よ。"
"3杯目だい。"
"嘘よ。"
"ちょっと、上げなさい。"
"そら見ろ。"
"うまいな。"
"それ、さっき時子さんからもらったの。お酒上げたでしょ。"
"雨宮さんの所、何年ぶりだい?"
"足掛け、4年ぶりですって。"
"無事に帰って来られて、何よりだよ。"
"嬉しいよね、二階。"
二階では、浩が、元気に駆け回り、二人が楽しそうに見ている。
"お父さんが、来たんで、すっかりはしゃいじゃって。さあ、浩ちゃん、もうお休みなさい。"
"やだよ。"
"さあ、お休みなさい。あんた、いつもより、遅いのよ。もう、お父さん、ずっとおうちにいらっしゃるのよ。明日、また遊びましょう。"
"お父ちゃん、お休みなさい。"
''ああ。お休み。"
"お母ちゃん、お休みなさい、は?"
"お母さん、お休みなさい。"
"お休みなさい。"
布団の間の、電気を消す。
"もう一人で寝れるのか?"
"ええ、もうとうからよ。"
"早いな。"
修一は、手帳の間から、浩の手形を取り出す。
"まだ、持っていらっしゃったの?"
"ああ、向こうでは、よくこれを見たよ。帰ったら、どんなに大きくなっているかと、思って。こんなだぜ。"
''もう、寝ちゃったわ。"
"大きくなったなあ。"
"ええ。"
"留守中、病気しなかったかい?"
"はしかしました。"
"ああ、あれは、誰でもやるんだ。小さい時だから、たらふく食うんだ。それだけかい?"
"それから、一度、大腸カタルに。2日ほど前。"
"そりゃ、最近じゃないか。"
"ええ。"
"入院でもしたのかい?"
"ええ。"
"それは、大変だったなあ。金なんかどうしたんだい?あったのかい、金?"
"え。"
"換えたのかい、誰かに?"  
"ええ。"
"誰に?どうしたんだい?"
"何だい?どうしたんだい?"
"黙ってちゃ、分からないじゃないか。どうしたんだい?何とか、言ったら、どうだい?言えないのか?言えないことなのか?おい、どうしたんだい?"
時子は、泣き伏せる。
巨大な構築物。
秋子がやって来る。
"浩ちゃん、こんにちわ。お母さん、いる?"
"いる。"
"そう。ちょっとごめんなさい。"
"ごめんなさい。"
"あ。"
"お邪魔します。"
"あ、どうぞ。"
"こんちわ。"
"いらっしゃい。"
"旦那様、お帰りになったって?よかったね。昨日、電話もらった時、私、いなかったの。今朝、アパートのおばさんから聞いたの。"
"そう。" 
"おめでとう。よかったわね。"
"ありがと。"
"旦那様は?"
"ちょっと出掛けたわ。"
"元気だった?"
"ええ、とても。"
"これ、つまらないものだけど、上げてよ、旦那さんに。"
"そう?ありがと。"
"嬉しかったでしょ。これで、安心でしょ。苦労したもんね。あんた。ねえ、浩ちゃん、病気したこと、旦那さんに黙っていた方が、いいわよ。あの時のこと、何もかも、黙ってらっしゃいね。もう済んだことだし、言っちゃダメよ。旦那様に。"
"もういいの。言ったのよ。"
"言ったの?" 
"うん。"
"何もかも?"
"うん。"
"馬鹿ね、あんた。何だって、そんなこと言うのよ?もう、皆んな過ぎたことじゃない。そんなこと、今更、旦那様に言うなんて、旦那様を苦しめるだけじゃない。それは、正直に言うことは、いいことよ。だけど、言ったからって、あんたなしたこと、消える訳ないじゃない。言っていいことと、悪いことがあるわ、そんなこと、今更、不幸になったら、つまらないじゃないの。"
"ねえ、どうして、そんなこと言っちゃったの?"
"私も、そうは思ったのよ。嘘ついてしまおうと、思ったの。やっぱり、本当のこと、言わないでは、おけなかったの。あの人は、私を信じているのよ。あの人と私との間に、今まで、一つだって、隠し事はなかった。お互いに、何もかも打ち明けたの。何もかも、話し合ったの。あたしだけ、あの人に、隠し事を持つことなど、できなかったの。"
"そうね、あなた、隠し事のできない人ね。だけど、旦那様、そんなこと聞いて、とても苦しむわ。どうしたら、いいのかしら、そんな時。"
東京のオフィスビル。
事務所の机に、修一は、呆然と座る。佐竹(笠智衆)がやって来る。
"待たせたな。いつから来れるんだい?帰って早々、気の毒だけど、なるべく早く出て来てほしいんだ。新谷さんも辞めてしまってな、俺も、帰って早々、引っ張り出されたんだ。"
"ああ、そうかい。"
"東京も、色々変わったよ。前の3階が、キャバレーになったよ。なにもかも、高いんで、驚いただろう。"
"ああ、驚いた。"
''金あるか?少し、持ってくか?"
"ああ。借りとこうか。"
"馬鹿に元気がないな。"
"うん。寝不足なんだ。"
"夕べは、ぐっすり、畳の上で、寝たんじゃないのか?"
"いや、よく寝られなかった。"
"どうして?どうしたんだ。"
"うん。ちょっと不愉快なことがあって。"
"何だい?どうしたんだい?"
"うん。いずれ話すよ。今は、言いたくないんだ。"
"ふーん。"
"佐竹さん、お電話。"
"これか?ああもしもし。"
時子の家。浩は、寝付き、修一は、帰らない。
修一が帰って来る。
"お帰りなさい。あなた、ご飯は?"
"食いたくない。"
"おい。"  
"はい。"
"ここへ来い。聞きたいことが、あるんだ。"
"その織江って女と、いつから知り合いになったんだ?"
"去年の暮れからです。"
"何してる女だ?何で、知り合いになったんだ?"
"いつも着物を着てもらっていたんです。"
"そして、お前の行ったうちは、どこだ?この近くか?"
"いいえ。"
"どこなんだ?"
"月島でした。"
"月島はどこだ?どの辺だ?"
"終点でした。"
"終点で下りて、どっち行くんだ?"
"左に行きました。"
"左だけか?"
"狭い通りでした。"
"その通りを、どう行くんだ?どう行ったんだ?"
"暫く行って、左に曲がりました。"
"左?" 
"ええ。"
"ほかは、何だ。"
"小学校がありました。"
"それから、どう行くんだ?どう行ったんだ?行ったんなら、覚えてるだろ。どう行くんだ?"
"その学校の裏でした。"
"何て言ううちだ。そのうちは、何て言うんだ?"
"門戸に、桜井と書いてありました。"
"それは、夜か?何時頃だ?"
"8時過ぎでした。"
"その時、男は、もういたのか?それとも、後から来たのか?どっちなんだ?どんな男だ?おい、どんな男だ?"
時子は、肩で息をする。
"おい、名乗れないのか?おい。"
時子の肩を突く。
浩が、起きて、二人を睨む。
"浩ちゃん、どうしたの?寝ぼけちゃ、ダメじゃない。お休み、いい子だから。"
"おい、言わないか。"
時子の腕を取る。
"言わないのか。おい。"
時子を突き飛ばす。
"馬鹿。''
弾みで、空き缶が階段を落ちる。
修一は、時子の腕を取り、押し倒す。
階下の一家は、休んでいる。
修一と時子は、着乱れて、呆然として座る。
修一が、部屋を出て行く。修一は、道端に、腰を下ろす。
朝が来る。時子は、壁にもたれて、夜を明かした様子。
通勤する人々。修一も、着たなりで、歩く。
修一は、月島の"桜井"宅を訪れる。
"ごめん、ごめん。ごめん。"
女が出て来る。
"聞いて来たんだけど、部屋あるかい?"
"あの、どちら様で?"
"織江さんから聞いて来たんだ。"
"まあ、どうぞ。"
二階に上がる。
"どうぞ。いらっしゃい。"
"呼んでもらえるかね、誰か?"
"はい、あの、どんな?" 
"誰でもいいよ。"
"そうですか。ちょっとお待ちください。"
"ねえ、おばさん、20日程前に、織江さんと来た女があるんだ。28、9の。夜8時頃だ。時々、来るのかい?あの女。"
"いいえ。あの時、一度ぎりでした。"
"そうかい。"
小学生の歌唱が聞こえる。校庭が見える。
"こんちわ。"
"いくつだい?君。"
"21。"
"なんて名前だい?"
"サー子。"
"いつからやってるんだい?こんな商売。どうして、こんなこと、しているんだい?"
"皆んな、聞くのね。そんなこと、だってしょうがないのよ。私は、うちの面倒を見てんのよ。"
"お父っつあんは?"
"もう、働けないわ。"
"おっかさんは?"
"いないの。"
"兄弟は?"
"弟が、学校行ってるわ。兄さん、死んじゃった。"
"ふうん。そりゃ、大変だな。"
女は立ち上がり、歌声を聴く。
"私、この小学校を出たのよ。よく、あそこで、銀杏拾ったわ。兄さん、あっちの部屋、行かない?"
修一は、金を置いて、帰る。
"帰るよ。"
"帰るの?"
女は、金をつかんで、修一の後を追う。
"どうしたの?"
"帰ったわ、今の人。これだけ置いて。"
"ふーん。どうしたの?"
"何だか。"
修一は、川縁に、腰を下ろす。
さっきの女がやって来る。
''兄さん、こんなとこいたの?何してんの?なぜ、お金置いて、帰っちゃったの?"
女も腰を下ろす。
"君は、何で、ここに来たんだい?"
"お弁当、食べに来たの。どう?一つ食べない。食べてよ。お金だけもらったら、悪いから。"
"もらおうか。"
"私がこさえたんだから、おいしくないわよ。"
"いや、うまいよ。"
"お天気がいいと、私、ここに、お弁当食べに来るのよ。それで、夕方まで、ここで遊んじゃうの。"
"商売は、どうするんだい?"
"お客さんがあると、ここに、呼びに来てくれるの。だって、あのうちで待ってるの、何だか嫌でしょ。"
"21だと言ったな。"
"ええ。"
"君は、どう思っているんだい?こんな商売。"
''嫌よ。"
"嫌なら、辞めればよいじゃないか?"
"辞めて、どうするの?"
"どっかで真面目に働くんだ。"
"ダメよ。もう私なんか、真面目に相手してくれるとこなんか、ないわ。"
"そんなこと、ないさ。君が、その気になれば、いいんだ。"
"ダメよ。私がその気になっても、きっと男の人は、私を馬鹿にするわ。兄さんだって、そうじゃないの?"
"何が?"
"そんなら、今日、なぜ、あんなとこ行ったの?私なんかを馬鹿にして、かかってんじゃないの?"
"それは、違うよ。"
"嘘ばっかり。"
女は、離れて座る。修一が、近寄る。
"おい、君は、まだ若いんだ。これから幸せになれるんだぜ。いつも、ダメなんてことは、ないんだぜ。2、3日経ったら、ここにまた来るよ。その時、君の勤め口、探して来てあげる。"
修一は、立ち去る。女は、呆然と見送る。
佐竹のオフィス。
佐竹と修一が、向き合って座る。
"で、いくつだい?その女。"
"21だ。どうだろう?使ってもらえないか?ここで。"
"何とかしても、いいよ。"
"頼みたいんだ。"
"どうも、おかしいじゃないか?その女は許せて、どうして奥さんのこと、許せないの?奥さんのことも、その時の身になってみれば、無理もないじゃないか?それも、もう過ぎたことだ。そんなことに、拘らずに、奥さん、許してあげろよ。なあ、奥さんが可哀想だよ。"
"いやあ、それは、俺だって、許しているんで。しょうがないと、思っているんです。ただ、なかなか気持ちが落ち着いてくれないので。何か、くすぶってるんだ。イライラするんだ。脂汗が出て来るんだ。よく眠れないんだ。怒鳴ってみたくなるんだ。自分ながら、どうにもならないんだ。"
"そら、お前の苦しいことは、よく分かるが、努力するんだな。もう、許しているのなら、感情以上に、意思を働かせよ。その気持ちも、押さえつけてしまうんだな。それは、立派なことだと、思うよ。まあ、早く、そこから
抜け出すことだよ。"
"おい、焼けたぞ。"
"まあ、早く、忘れるんだな。"
"昨日から、ここで聴くジャズが、俺には、悲しいよ。"
"悲しいもんじゃないよ。少しうるさいけど、やっぱり楽しいもんだよ。早く、元気を出せよ。早く、あれが楽しく聴こえないと、ダメだ。"
"どうだい?"
"いや、まだあるよ。"
翌日。修一が、2日振りに、家に帰って来る。
やつれた時子。
"お帰りなさい。"
"心配してましたわ。夕べもお帰りにならないものだから。疲れてらっしゃるんじゃない?少し、お休みになったら?ねえ、どこ行ってらしたの。夕べも、浩ちゃん、遅くまで、待ってましたわ。お父ちゃんと、一緒に遊ぶんだって。"
"済みません。折角、楽しみに帰ってらしたのに。あなたに、こんな思いさせて。あの、もう行かないでください。今日は、家にいてください。"
時子は、修一に、すがる。
"どけ。"
"いいえ、行かないでください。あなたは、疲れてらっしゃるんです。今日は、どうぞ、お休みになってください。"
"離せ。"
"いいえ、あなたにもしものことが..."
修一が、払い除け、時子は、階段を落ちる。
修一は、階段を駆け下り、声を掛ける。
"時子。''"時子、時子。"
時子は、わずかに頭を動かす。
"大丈夫か?おい、なんともないか?"
"はい。"
時子は、どうにか起き上がろうとする。時子は、肩で息をつく。
"どしたの?"
"ええ。"
"どしたの?"
"私、そそっかしいもので、今、梯子段から落っこちちゃって。"
"大丈夫?"
時子は、障子につかまり、立ち上がる。
"危ないわねえ。なんともなかった?気をつけなさいよ。"
"ええ、済みません。"
時子は、片足を引きずりながら、二階に上がる。修一は、ぽつねんと座っている。
"済みません。あなたに、こんな思いをさせるなんて。皆んな、私が、馬鹿だったんです。でも、もうこれ以上、あなたが苦しんでいるのを見るのが、辛いんです。どうぞ、あなたの気の済むようにしてください。私は、我慢します。どんなことでも、我慢します。ぶってください。ねえ。憎んでください。存分に、あなたの気の済むように、してください。あなたが泣いちゃ嫌。あなたが泣いちゃ、嫌です。ね。あなたは、私を叱ってください。ぶってください。このままでは、私も苦しいです。"
"俺は、お前を叱りはしないよ。お前が、可哀想だと思っているんだ。お前が、あの時、ああするよりほかに、しょうがなかったことも、よく分かるんだ。"
修一は、時子の腕をつかむ。
"おい、忘れよう、忘れてしまうんだ。ほんの間違いだ。こんなことに、拘っていることが、俺たちを不幸にするんだ。忘れちゃおう。"
"俺は、忘れる。お前も忘れろ。もう二度と言うな。二度と考えるな。お互い、もっと大きな気持ちになるんだ。もっと深い愛情を持つんだ。いいな。"
"済みません。"
時子は、泣き崩れる。
"俺も、どうかしていたよ。済まなかった。色々、心配かけて。もういいんだ。もう泣くな、おい。怪我はなかったか?おい、立ってみろ。大丈夫か?歩いてみろ。"
時子は、ふらふら歩く。修一が抱き留める。
"この先、まだ長いんだ。色んなことがあるぞ。もっと、どんなことがあるか、知れないが、どんなことにも動じない俺とお前になるんだ。どんなことがあっても、一緒になって、やって行くんだ。いいな。それでこそ、ほんとの夫婦だ。ほんとの夫婦になれるんだ。浩も、もうすぐ、大きくなるぞ。お互いに、しっかり抱き合って、やって行くんだ。いいな?"
"うん。"
"分かったな?"
"うん。"
修一は、ひざまずく、時子を立たせ、時子は、修一の背中に、腕を回す。
巨大な構築物。
浩は、外で、友だちと遊ぶ。
【感想】
貧困がもたらした悲劇。
戦争に往った夫の帰りを待ちわび、一人息子と暮らす時子は、ぎりぎりの生活ながら、友人や家主の庇護を得て、楽しく暮らしていた。しかし、息子の治療費という急な出費を賄うため、一夜、身体を売る。折り悪しく、夫が帰還し、なぜか一夜の過ちを告白する羽目になる。夫は、激しく反発し、家にも寄り付かなくなるが、久しぶりに帰宅し、夫婦が揉み合う中、時子は、階段を転落する。これで、緊張が頂点に達し、夫婦は、改めて互いに慈しむことを誓う。田中絹代と佐野周二という2枚看板に、社会の闇を演じさせた。

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