見出し画像

一人勝手に回顧シリーズ#小津安二郎編(29)#早春/夫婦の愛

【映画のプロット】
▶︎正二夫妻
東京の場末。遠くに工場の煙突。電車が、走る。
目覚ましのベルに、正二(池辺良)は、耳をふさぐ。隣に寝ている昌子(淡島千景)は、起きる。
"お早う。"
"お早うございます。"
"ゴミは来なくて、困るわね。"
"本当にねえ。"
"区役所、何してんだろう。"
たま子の家。
"ちょっと。今日、あんた、帰り、忘れないでよ。"
"何?"
"夕べ、そう言ったじゃありませんか。しょうがないわねえ。"
"何だっけ?"
"はばかりの電球よ。5色の。"
"二つくらい、買って来ようか?"
"一つで沢山よ。後、流し、よく水流しといてよ。"
"うん。"
正二の家。 
"ちょいと、いいの?時間ギリギリよ。ねえ、知らないわよ、遅れても。"
"うん、あー。"
正二が起きる。時計を見る。
"何だい?まだ、5分あるじゃないか。"
"だって、髭剃るんでしょ。"
"剃らないよ。"
"伸びてるよ。今朝、パンよ。"
"パンか?"
"だって、夕べ、あんた、帰ってから、お茶漬け食べたじゃないの。マージャンなんか、よしゃ、いいのよ。"
正二は、タバコを吸う。
通勤する人々。人で、溢れる駅のホーム。正二と昌子のほか、通勤仲間が集う。 
"お早う。"
"お早う。"
"あ、おい、夕べ、お前の家に行ったんだぞ。"
"そんな事あるかい?あ、夕べの話、皆んなにしといたか?"
"ああ。"
"聞いた、聞いた。"
"いいじゃないの。面白わね。"
"今日、昼、も一度、集まって相談しようか?"
"何よ?何の話?"
"いい話なんだ。面白いんだ。"
"面白い、面白い。"
"お前、連れてかないよ。"
"何よ?どこ行くの?ねえ、のんちゃん。"
"いいとこなんだ。面白えんだ。"
"来たぞ。"
電車が、ホームに入って来る。
東京駅。オフィスビル。
"まるで、サラリーマンの反乱ですね。"
"うん。"
"大変だなあ。"
"俺たちだって、たった今、あそこを歩いて来たんだぜ。"
"たまに、一電車早く乗ると、いいですね。客観的になるんで。"
"ああ。毎朝、東京駅で下りるサラリーマンは、34万だって言うからね。仙台辺りの人口と同じだよ。"
"そうですか。34万分の1か。"
"お早う。"
"や、お早う。""お早うございます。"
男が、正二に声を掛ける。
"お早う。昨日は、ありがとう。"
"あれから、どうだった?"
"てんで、上がるのに出会わなくて、味の素、こをなの一つだよ。お前、早く諦めて、良かったよ。"
"そうか。"
"お早う。"
"夕べ、寄っちゃったかい?三浦のとこ。"
"いや、寄れなかったんだ。ちょいと、用ができちゃってなあ。よっぽど、いけないのかな?"
"うん。よくないらしいんだよ。"
"そうか。"
正二は、始業する。
東京の中心部。土手で休むサラリーマンたち。
"おい、これにしようや。"
"連絡いいのかい?"
"ああ。" 
"だからさ、兎に角、蒲田駅8時集合で、いいじゃないの。"
"8時じゃ、早いよ。"
"贅沢言うんじゃないの。それで、行き当たりばったり、行っちゃいましょうよ。どうにか、なるわよ。"
"うん。じゃあ、そうするか。"
"会費なんぼや?"
"こないだ、酒井向井行った時、いくらだっけ?"
"確か400円だ。ちょっと余ったけどな?"
"じゃあ、いいね。"
"うん。"
"いいな?400円。"
"いいよ。"
"それで、どこ行くんだい?"
"江ノ島に行ってから、歩くのよ。ハイキングよ。"
"ハイキングは、知ってるよ。"
"俺、今度の日曜、かみさんと約束があるんだけどな。"
"どこ行くんだ?"
"デパート行くんだ。"
"何言ってんの、予約してるの?"
"してる、してる。"
"じゃあ、決まったな。蒲田駅8時集合。奥さんのある人は、連れて来てもよろしい。のっぽには、お前、連絡してくれるな?"
"よっしゃ。"
"ピン子とチャー子、私が連絡する。"
"天気だといいなあ。"
"大丈夫よ。ここんとこ、ずっと日曜、お天気だもの。"
"さあ。"
一同は、立ち上がり、仕事に戻る。
"杉山。小野寺さん、来てるぞ。"
"そうか。"
"総務部長のとこだ。"
総務部長と小野寺(笠智衆)
"この近江製紙の500トン、こいつは、すぐ間に合うと思うんだ。この四日市の方は、一度、工場に連絡してみないと。"
"そうですか。おう、どうしたい?"
"ご無沙汰しています。いつ、来られたんですか?"
"夕べの夜行でね。"
"そうですか。"
"じゃ、それお願いします。あっち行こうか?"
"ええ。"
"どう?やってるかい。"
"ええ、何とか。何で、出て来られたんですか?"
"ああ、ちょいと、大きい注文、取ったんでね。でも、常務が出掛けていて、今日、仕事にならないんだ。"
"そうですか。"
"すぐに帰ろうと思ったんだけどね。"
"今日、君、暇かい?"
"何です?"
"良かったら、河合のとこ、行ってみないか?"
"そうですね。お供しましょうか。"
"何とか言ったね?あいつの店。"
"ブルーマウンテンですか?"
"あ、そうか。あいつも、変わりもんだよ。"
"僕も、ここんとこずっと、ご無沙汰してるんですけど。"
"たまには行ってやれよ。喜ぶぞ。"
"ああ、大森さん、今度、大阪の営業所長になるようですね。"
"そうだってねえ。今聞いたよ。まただいぶ異動があるのじゃないかい。"
"そうらしいですね。あなたは、またこっちに帰って来るんじゃありませんか?"
"いやあ、まだまだ帰れないよ。まだ当分、島流しさ。"
"じゃあ、また後ほど。"
"ああ。じゃ後で。"
夜。"ブルーマウンテン"。小野寺、河合(山村聡)と正二。
"そうか。あいつが、大阪営業所長か、栄転だな。"
"うん。"
"ああ、荒川は?"
"あいつは、動かないよ。うまいからな。"
"そうだな、組合の委員長してやがって、重役になるような奴だからな。"
"さっきも会ったがね、まるで生え抜きの重役みたいな面してるんだ。おかしな奴だよ。"
"はっはっは。あいつ、君たちには、どう?"
"僕は、小野寺さんの子分と思われてますから。ちょいと、風当たりが、強いです。"
"ははは。そんな奴だよ。"
"どうも、ご馳走さん。"
"三浦、どうしてます?"
"どうも、よくないらしいんです。"
"そう、もう3月だね。"
"ええ。"
"三浦君、どうかしたのかね?"
"目ぇ、やられましてね。ずっと休んでます。"
"そうか、そりゃ、いかんな。"
"荒川の奴、またぐずぐず言ってんだろな。"
"あらぁ、君の子分だったからな、風当たり強いだろな。"
"そんな事は、あるまい。もう、5、6年も昔の話だ。"
"そうでもないらしいです。まだ響いているようですよ。"
一同、笑う。
"そうかい?しつこいもんだねえ。"
"どうぞ。" 
"お、奥行こうか。何もないけど。"
"そうか。"
"ほんとに、何もございませんが。"
"やあ。済いません。じゃ行こうか。"
"どうぞ。"
"どう?"
"ああ。" 
"どうぞ。"
"済いません。"
"どうも、かえってお手数かけちゃって。"
"いいえ。"
"大津の方、皆さん、お元気で?"
"ええ、何とかやってます。一度お出でください。遊覧船で回ると、琵琶湖もなかなかいいとこです。こないだ、子どもたち連れて、初めて回ったんだが。"
"僕も、昔、よく瀬田川で、ボート漕いだよ。石山に合宿が、あってね。"
"河合さん、ボートやっておられたんですか?"
"ええ。5番故意でたんですがね。もう、ダメだ。空けないか?どうぞ。"
"ああ。"
"おい。"
"ああ。どうだい?店の方。"
"まあまあだ。うちは、昼間の客が多いんだよ。ま、誰にも縛られないから、呑気さ。"
"そりゃ、いいねえ。うらやましいな。"
"毎朝、決まった時間に出掛けなくて済むんで、助かるよ。電車でもみくちゃにされるのは、敵わないからな。"
"混みますねえ。僕の所なんか、殺人的ですよ。"
"しょうがないさ。サラリーマンの宿命の一つさ。嫌なら早く、重役になって、会社の車で通うんだな。"
一同、笑う。
"でも、お前は、良かったよ。早く見切りつけて。"
"そうでもないさ。"
"いやあ。俺も、この頃、こんな生活が、馬鹿に嫌になることが、あるんだけど。いざとなると、なかなか踏ん切りがつかないもんだ。子どもも、段々大きくなるしね。君なんかも、辞めるなら、今のうちだぜ。"
"は、やだなあ。僕は、辞めませんよ。"
"そうかい。"
"そうだよ。夢は、まだまだあるしね。今が花だよ。"
"誰にも縛られない生活は、いいよ。"
"それは、何をやってみても、おんなじさ。俺も、サラリーマンだよ。人生から、サラリー貰ってるようなもんだよ。どうだい?今晩、泊まって行けよ。"
"いや、今日は、杉山のとこ、厄介になるんだよ。"
"さっき、電話かけてたんです。"
"そう。"
"いや、どっちにしたって、今の世の中、そう面白い事は、ないよ。"
"うん。"
"誰にだって、不満はあるさ。" 
"そう思って、のんびり暮らすか。"
"そうだよ。それより、手はないよ。"
"うん。まあ、そんなとこかな?"
正二の家。昌子は、小野寺の床を伸べる。
"お疲れでしょう。お支度できましたから。"
"ああ。ありがとう。お世話になりますな。"
"水、持ってって、あるか?"
"はい。"
"明日、お早いんでしょうか?"
"君、いつも何時で行くの?"
"8時28分の蒲田駅発ですが。"
"じゃあ、僕も、それで行こう。"
"もっとゆっくり、されたらどうです?とても混みますよ。"
"もし、お急ぎでなければ。"
"それに、そんな時間じゃ、常務なんか、出て来てやしませんよ。"
"やあ、来てなきゃ、久しぶりに、あの界隈、ぶらぶらしてみるよ。じゃ、お休み。
"お休みなさい。"
"あ、奥さん、適当な時間に起こしてくださいよ。"
"はい。お休みなさい。"
"お休み。"
"小野寺さん、少しお老けに、なったわね。"
"うん、この辺、白髪増えたな。"
"そうね。ちょいと、それ。"
"あ、おい、今度の日曜、電車の仲間で、またハイキングだ。お前も行かないか?"
"どこ?"
"江の島行って、それから歩くんだ。"
"どうしようかな?"
"行けよ。キン子もデブも、行くんだぜ。金魚も行くんだ。"
"ねえ、あの人、どうして金魚って言うの?とても綺麗な人じゃない。"
"あいつ、目玉でかいしさ、それに、ちょいとズベ公だろ。煮ても焼いても、食えないってんだよ。"
"可哀想だわ。ねえ、あんた、もう少し、待っててね。"
"何だい?"
"お米研いじゃうから。明日の朝、美味しいご飯炊くの。"
"早くしろよ。小野寺さん、布団、大丈夫か?あれで。"
"大丈夫よ。"

江の島。ハイキングの集団。
"おーい、少し待てよ。" 
"さっき、休んだばかりじゃないの。"
"おい、どこで、飯食うんだい。おーい。"
"うるせいな、あいつ。"
"さっき休んだ時に、のんちゃん、パン5つも食べたのよ。"
"おーい、まだか?"
"ほっとけ、ほっとけ。"
"おーい。"
"早く、いらっしゃいよ。"
金魚(岸恵子)と正二が、並んで歩く。
"あの人たち、どうしてあんなに遅れちゃったの?"
"うん。あいつら、さっきのとこで、弁当食っちまったんだ。"
"どうして、奥さん連れて来なかったの?"
"今日、うち行ったんだ。"
"お里?"
"うん。"
"連れて来りゃ、良かったのに。"
"うん。"
"おい、ハイキングって、あまり面白くねえな。"
"ええやないか。ええ気持ちやないか。"
"詰まんねえよ。俺、もう来ないから、もう絶対来ないから。"
"お前、前もそんな事、言っていたぞ。"
"あ、トラック来た。止めて、二人で乗っちゃおうか?"
"止まるかな。"
金魚は、トラックを止める。
"済いません。お願いします。早く。"
"どうも、済みません。"
二人は、荷台に乗る。
"あ、おい。"
トラックは、ハイカーを、次々、追い抜く。 
"先行って、待ってるわよ。"
"おーい、おい。"
"はい。"
金魚は、お菓子を差し出す。

ガード下の飲食店街。 
昌子の母親が、おでんを仕込む。 
"今日は、お天気が良かったから、お前も連れて行って貰えば、良かったんだよ。アベックでさ。"
"そんな事で、お金使ったって、詰まんないわ。草臥れるだけよ。箕輪の叔父さん、何か言ってた?"
"別になんとも言って、なかったけどさ。でも、悪いよ。"
"私だって、貯めたくないわよ。"
"でもさ、あんな安い家賃てないよ。分かってるわよ。"
"だったら、きちんきちんお払いなさいよ。"
"亭主に働きがないから、ダメなのよ。"
"あんな事、言ってるよ。好きで一緒に、なっといて、さ。もう、建て替えないよ。お前、帰りに、おでん、持ってかないかい。よく煮えてるよ。"
"いいわよ。"
"でも、杉山さん、昔、うち来ると、よくこんにゃく食べてたじゃないか。こんにゃく好きなんだろ。"
"あの時分、学生で、お金がなかったからよ。今だって、ないけどさ。お母さん、出来たわよ。"
"そうかい。ありがと。"
"ミー子、ミー子。おっかさん、ミー子、お腹が大きいんじゃないの?"
"そうらしいんだよ。"
"お前のとこ、どうなのさ?あれっ切りかい?"
"なあに?"
"赤ん坊だよ。できないのかい?"
"要らないわよ、もう。"
"あった方がいいよ。淋しくないかい。"
"もう、慣れたわよ。"
"あの子が生きてりゃ、来年、もう小学校だったのにねえ。"
"よして、もういいわよ。康一どうしたの?"
"ここんとこ、日曜はずっとアルバイなの。"
"感心ね。"
"この頃は、大学出たって、なかなか口がないらしいね。それに、あの子、ちょいと生意気だろ。心配なんだよ。大学出て、ぶらぶらされてちゃ、敵わないからね。今のうちから、杉山さんによく頼んどいてよ。"
"おっかさんも、苦労多いわね。"
"そうだよ。苦労の固まりだよ。杉山さん、月給上がったかい?"
"そう、ちょいちょい、上がるもんですか。1000円上がるの、大変なのよ。おっかさん。"
"そうかい?"
"そうよ。"
"じゃあ、私の電気座布団は、まだまだだね。"
"もう要らないじゃない、こんなに、暑くなったんだもの。じゃ、おっかさん、私、そろそろ帰る。
"そうかい。こんにゃく、ほんとに、持っとかないかい?"
"貰っとこう、かしら。少しでいいわ。おっかさん、辛子忘れないでね。"
"あいよ。爆弾も入れとくよ。今日の美味いんだよ。よく染みてて。"  

オフィス街。
金魚がタイプを打つ。
"何さっきから、一人でにやにやしてるのよ?"
"なあに?"
"変に嬉しそうじゃない。"
"そう?そう見える?どうしたのかしら?"
"何言ってんの。ねえ、お昼、桃紅円行かない?シュウマイライス。"
"今日は、ちょいと、都合悪いの。うふふ。"
"何よ?"
"ううん、別に。"
"何よ?変ね。何、いい事あんのよ?"
ラーメン屋で、正二が、昼食を取る。
"お待ちどう様。"
"今朝、一電車遅らせたら、寒天と一緒だったのよ。嫌な奴。"
"どうして?"
"こないだのハイキングの事、妬いてんのよ。二人で、トラックに乗った事。"
"いいじゃないか。妬かしとけよ。"
"だって、詰まんないじゃない。何もないんだもの。" 
"何でもあったら、大変だよ。"
"そうね。"
"そうだよ。"
"でも、どうやって妬くのかしら?ね、今度、どっか行かない?"
"うん。行こうか。君は、兄さんのとこ、いるのかい?"
"ううん、姉さんのとこ。姉さん、兄さんと、とっても仲いいのよ。"
"いいじゃないか。妬くなよ。昨日、遅く帰っても、うちで、文句言わないかい。"
"そりゃ、言うわよ。でも、平気。自由なんだもん。あんたんとこ、どう?遅く帰って、奥さん、文句言わない?"
"言うよ。たまには。"
"怖い?奥さん。"
"ああ、怖いよ。"
"うふっ。怖い方がいいのよ、奥さんは。"
正二の家。
"このアイロン、具合悪いわね、ぐらぐらして。"
"もう、ネジ山、馬鹿になってんのよ。直んないんだよ。アイロンぐらい、買いなさいよ。"
"買えりゃ買うわよ。でも、結構、それで間に合うんだもの。"
"間に合うって事は、詰まんない事ね。"
"はい。あんた、これから、また社に帰んの?"
"ううん。今日は、もうじかに家に帰る。もう、原稿貰って来ちゃったから。破けてるわよ、枕カバー。"
"ああ、いいのよ。飲まない?"
"うん。"
"あんた、いいわねえ、呑気で。うらやましいわ。"
"何が?"
"一人ってのは、気楽よ。"
"何言ってんの?亭主に死なれて、ご覧なさい。あんただって、わあわあ泣いちゃうから。"
"そうかしら?やっぱり、泣くかなあ?"
"泣く、泣く。大泣きよ。あの時分、あんた、杉山さんと一緒にならなかったら、死んぢゃうみたいな事、言ってたじゃ、ないの。"
"そうね、そんな事を言ってたわね。随分、昔の話。足りないなら、お砂糖あるわよ。"
"もう、沢山。十分、甘い。"
"あんた、もう一生、結婚しない積り?"
"そうよ。ただし、よっぽど好きな人が出来れば、別よ。"
"篠田さんもまだね?"
"そう。あの人は、純粋に一人。初めっから、結婚しないんだもん。あの人、学校出てから、ずっと、お勤めでしょう。男の人の間で、揉まれているうちに、目が肥えちゃたのよ、きっと。"
"探してんのかしら?"
"かも分かんない。でも、うちの社の人、そう言ってるわ。女も、年取ると、慌てて、案外、クズみたいな男、掴んでしまうもんだって。"
"あんたも、気を付けた方が、いいわよ。"
"そうね。ひと事じゃないものねーっ。"
"そうよ。あはは。"
"どなた?"
正二が、帰って来る。
"俺だよ。"
"お帰りなさい。"
"早いじゃない?" 
"早くはないのよ。たまには。"
"こんちわ。お邪魔してます。"
"やあ、いらっしゃい。"
"赤城さんねえ、鵜の木まで、原稿取りに、いらしたんですって。" 
"腹減った。飯まだか?"
"まだ。"
"何だ?まだか?"
"あの人も来てるし、お肉でも買う?"
"これから、買いに行くのか?"
"そうよ。"
"要らねえよ。"
"どうぞ、ごゆっくり。"
"はあ。" 
"どこ、行ったの?"
"知らない。怒ってんのよ。"
"どうして?"
"お腹空いちゃったって。女房なんて、ご飯炊く道具だと思っているのよ。"
"そりゃ、無理ないわよ。私だってそうよ、お腹空かして、お勤めから帰って、これから、またご飯炊くかと思うと、うんざりしちゃう。"
"どうするそんな時?"
"だから、夜は、大概パン。何だか、お腹空いて来ちゃった。"
"そうね。すき焼きでも食べない?"
"そうね。お肉、私が買う。"
"じゃあ、私、ご飯炊く。100めでいいわね?"
"十分よ。うち、いつも50め。買い物かご、あるわよ。"
"あ、そう。"
"はい。" 
"じゃあ、行って来るわ。" 
"西向きまで行かなきゃ、ダメよ。"
"そう?"

アパート。
"毎度、どうも。"
"うまそうだな。"
正二は、電車仲間と、雀卓を囲む。
"今日、俺のとこの課長、嫌な事、言いやがんのよ。"
"何だって?"
"昨日の夕刊に出てだろ。大森で、トラックが子ども、はねたって。"
"ああ、出てたな。"
"あれに、保険金払ったって、怒りやがる。可哀想だよな、子ども。"
"お前、今、何捨てた?"
"これだよ。リャンピン。"
"これか。大樹も、会社の製品、2割引きで買えるのか?"
"ああ、買えるよ。何だい?"
"うん。かみさん、電気洗濯機、欲しがってんだ。"
"買うのか?"
"いやあ。聞いただけだよ。"
"そうだろな。"
ドアがノックされる。
"はい。"
金魚が、入って来る。
"こんばんわ。今、スカさんのとこ、寄ったのよ。"
"何だい?"
"そうしたら、こっちだって言うから。"
"はい、ポン。"
"あら、このパイプ、誰の?"
"俺んだよ。"
"女向きじゃない。"
"そうだよ。かみさんの、借りて来たんだよ。"
"いやらしい。"
"いいんだよ。これで、すっとつくんだよ。うめえんだよ。あ、満貫じゃねえか。"
"嫌なの。"
"はい、それ。240。"
"馬鹿野郎。安上がりしやがって。"
"ダメじゃない、そのパイプ。"
"240か。何だかんだ、杉のとこ、行きやがった。"
"なあに?"
"金魚、お前、こないだのハイキングから、ずうーっと、杉と臭えぞ。"
"何がよ?"
"おい、ドラは、何だ?"
"8万だ。" 
"凄いじゃない。''
"これも、凄い。凄い、凄い。"
"インチキね、のんちゃん。"
"黙ってろい。これが、凄くなるんだ。"
♪湯島 通れば、思い出す
 お蔦 主税の心意気
 知るや 白梅
"ポン。"
"ばっきゃろう。"
♪玉垣に のこる二人の影法師

ガソリンスタンドの事務所。
"おい、ノン公。"
"どこ行くんだい?"
"農林省行くんや。お前、何しとんや?"
"勤めは、辛いよ。"
"今朝、面白かったぞ。電車の中で、ドアエンジンにスカートはさまれよった。で、ポッポの野郎、こんなの捻りよったら、電車、ぐっぐーと止まりよんねん。"
"そうか。ケツ挟まれば、良かったのになあ。"
"ほんまやな。ハイキングの時のばちや、ええ気持ちや。てきめんや。行って来るわ。"
"ああ。"
"バイバイ。"

正二の職場。
"2、3日前に俺が寄った時は、元気にしてたけどな。"
"でも、国からお袋さん来るようじゃ、あまり、良くないんだな。"
"うん。入院すりゃ、いいんだろうけど、あいつ、病院に入んの、嫌がってんだ。"
"杉山さん、電話。"
"おい、今日、三浦んとこ、見舞い行くんだってな?俺も、一緒に行くよ。"
"そうか。"
"はい、もしもし、杉山ですが。え?あ、君か。あ、え?そうだな。うん、うん、じゃあ。"
"おい、俺、三浦んとこ、行けなくなっちゃった。"
"そう。"
"うちから電話でな、急に、用ができちゃったんだ。三浦に、よろしく言っといて、くれないか。"
"いいよ。"
"いずれ行くけど。"
"ああ。"

▶︎正二の不貞
夜。お好み焼き屋の座敷。
"お待ちどう様。"
"ありがとう。ちょっとほって。" 
正二と金魚。
"それで、どうしたの?"
"うちから、電話で急用だと、言ったんだ。"
"悪い人、うふ。ああ、美味しい。飲まないの?"
"飲むよ。"
"このうち、いいでしょ。割に静かで。今頃、あんたんとこの奥さん、何してんだろ?晩の支度して、待ってるわよ。それとも、お風呂から帰って、お化粧してるかな?どうして、黙ってんの?" 
"それも、焼けてるぞ。"
"奥さんなんて、詰まんない。"
"どうして?"
"ねえ、知ってる?♪そだで、今日もアドバルーンっていう歌。"
"知ってるよ。"
"待ってても、帰って来ない訳よ。お好み焼き屋で、ビール飲んでんだもの。"
"うん。"
"あんた、うち帰って、いちいちこんな事言うの?"
"言ったり、言わなかったりさ。"
"今日の事、言う?"
"さあ、どうだかな。"
"言ったって、いいわよ。私、平気。でも、あんたが黙ってて、あたしが黙ってて、どうして分かる?分かりっこ、ないじゃない。うふふ。"
"ねえ。"
"うん?"
二人は、キスをする。物音がして、急に離れる。
"お呼びですか?"
"ううん、呼ばない。失礼しちゃうわね。ダメよ、あんた。呼び鈴、踏んじゃったのよ。あ、紅付いてる。はい。どう?"
"ああ。"
"私も飲もう。"
二人は、一夜を共に過ごす。宿の部屋で。
"夕べは、明かりがきらきらしてって、いいとこだと思ったら、汚い海。ああ、やだ。あんな物、浮いてる。どうしたの?何、考えてるの?"
"支度しよか、そろそろ時間だ。"
"今日、ほんとに休めないの?"
"うん。"
"電話、かけりゃいいじゃない。"
正二は、着替え始める。
"ねえ。"
"何だい?"
"後悔してる?私、分かんなくなってきちゃった。"
"何が?"
"気持ち。私、これまで、あんたの奥さんの事なんか、そう今まで、気にしちゃいなかったのよ。あんたに奥さんあっても、平気だと思っていたの。でも、変。ほんとに変だわ。"
"何が?"
"奥さん、憎らしくなってきちゃった。妬いてんのかな?"
"おい、早くしろよ。"
"あたし、とっても、あんた、好きになってきちゃった。どうしよ?"
"おい、先行くぞ。"
"待ってよ、もうちょっとよ。"
"時間一杯だ。行くよ。"
"ねえ。今度いつ?"
"分かんない。"
正二は、先に出る。
"何だ、意地悪。"
金魚は、鼻歌を歌いながら、髪をすく。

正二の家。昌子と母親。
"そんなとこ、お母さん、ちょいちょい、行くの?"
"ちょいちょいは、行きゃあしないよ。うちへ来るお客さんがね、ほら、知ってるだろ、菅井のツーさんだよ。あの人がね、確かな筋から聞き込みがあって、8レースの44、絶対だって言うもんだから。お前、お醤油入れたかい?"
"まだ。"
"ちょぼちょぼっとで、いいんだよ。あ、それじゃあ、多いよ。" 
"おっかさん、儲かったの?"
"儲かるもんかい、やっぱり本命が来ちゃったよ。"
"本当?隠してんじゃないの。私にたかられると思って。"
"そんな事、隠しませんよ。当たりゃ奢るよ。杉山さん、時々、うちに帰んない事あるのかい?"
"時々ではないわ。"
"じゃあ、気にする事、ないわね。"
"おっかさん、もう、このお鍋、下ろしてもいい?"
"あ、さーっと煮立ったら、いいよ。"
"よく、ちょくちょく、マージャンなんかで、遅くなる事は、あるのよ。でも、帰って来なかったの、夕べの初めて。"
"うちのとっつあんなんか、しょっちゅうだったよ。でも、どうしたんだろね。"
"どうしたんだか?おっかさん、今日は、お店どうしたの?"
"休業だよ。"
"呑気ねえ。"
"呑気なもんかね。たまに骨抜きしなきゃ。"
"ただ今。"
"ほら、旦那様、お帰りだよ。"
"お帰り。"
"ああ、くたびれちゃった。偉い目に遭っちゃった、夕べ。"
"お帰んなさい、お邪魔してます。"
"やあ、いらっしゃい。"
"ちょいと、川崎まで来たもんで。"
"そうですか。康ちゃん、どうしてますか?勉強してますか?"
"何してますか?今日は、あの子のお勤めの事で、お願いもあってね。"
"ははは、気が早いな。卒業、再来年じゃありませんか。まだまだ、いいですよ。"
正二と昌子は、二階に上がる。
"酷い目に遭っちゃったよ。"
"どしたの?"
"三浦のとこ、行ったんだ。そしたら、よくないんだ。やになっちゃったよ。"
"どうして?"
"国から、おっかさん、来ててな、泣かれちゃってさ、帰って来られないんだ。"
"で、あんた、三浦さんとこ、泊まったの?"
"病人のとこ、泊まれるかい。木村のとこだよ。木村も、一緒に行ったんだ。"
"で、またマージャン?"
"冗談言うない。マージャンなんか、やってられるかい。"
"ほんと?"
"病人の事で、一杯だよ。風呂行って来る。おい。"
"なあに?何よ?お腹どうなの?"
"帰ったら、食う。"
"ちょっと、風呂行って来ます。"
"ああ。下駄は?"
"分かってます。お母さん、ゆっくりしてらっしゃいね。"
"行ってらっしゃい。"
"どこに、お泊りだったって?"
"病気の友だち見舞いに行ってたんだって。" 
"それ、ご覧な。そんなもんだよ。お前、気い回し過ぎるよ。"
"そうかしら?"
"そうだよ。さあ、ご飯だよ。ご飯、ご飯。"

ミルクスタンドに、男が入る。
"ホットドッグ。"
隣の女に声を掛ける。
"こいつ、こんな所で、サボっとる。"
"今日は、土曜日よ。人聞きの悪い事、言わないでよ。"
"お前、今朝遅れたやろ?"
"ううん、一電車先に乗ったのよ。あんた、金魚と一緒だった?"
"ああ。"
"ほらね、そうだと思ったんだ。私、杉と一緒だった。"
"何やねん?"
"おかしい事あるんだ、臭いんだ。"
"何がや?"
"ねえ、あんた、気がつかない?杉と金魚。"
"どうしたん?"
"おかしいんだ。この頃、あの二人、絶対、同じ電車に乗らないの。"
"そうかな?"
"そうよ。全然よ。昨日なんか、杉、先に来てたのよ、そしたら、そこに金魚が来たら、わざと新聞買いに行って、一電車遅れるんだもの。逢ったって、変によそよそしいのよ。"
"詰まらんこと見てんな、しょうもない。"
"でさ、何にもないなら、口聞いたらいいじゃない。あたしとあんたみたいに。"
"アホらし。お前みたいなもんと、何でもあったら、事じゃ。"
"ふん、失礼しちゃうわ。じゃあ、もう何も言わない。"
"まだ何ぞあるんかいな?"
"あるわよ。"
"うん。何や?"
"言わない。おじさん、ミルクもう一つ。"
"俺は、ソーダ。おい、ゆうてみ。ゆうてみいな。おい、言わんかな。"

金魚の勤め先。
"さよなら。"
"さよなら。"
化粧室。
"シャボン、もういい?"
"ありがと。"
"お先に。"
"さよなら。"
金魚は、入念に、化粧を直す。
"あの人、変ね。この頃。"
"どんな人だった。一緒にいたって。"
"ちょっといい男。ジェラール・フィリップみたい。"
"趣味ねえ、その人、奥さん、あるらしいのよ。"
"そう?"
"忘れちゃった。"
"さよなら。"
"さよなら。"
"あの人、前にも噂があったじゃない。"
"そんな事、しょっちゅう。ここんとこ、ちょいと収まったのよ。"
"そう。"
"いいお天気。綺麗な空。一週間て、長いわね。"

正二の家を、たま子が訪ねる。
"奥さん。"
"ああ、いらっしゃい。どうぞ。"
"申し訳ないな、すっかり忘れてて、これ。ありがとうございました。"
"いいえ。"
"とっても、美味しかったわ。お母さん、お上手ねえ。"
"何ですか。"
"ちょっと、かりんとう入れて来たの、ほんの少し。"
"まあ。ご馳走様。"
"さっき、駅向こうで、買って来たの。割方、美味しいのよ。"
"お茶、淹れましょうか?"
"いいの、いいの。今日、旦那様、お早いの?"
"遅いんですって。"
"この所、2、3日、早かったわね。"
"ええ、珍しく。でも、あてになりませんわ。"
"ほんとねえ。うちなんかも、若い時分、何だかんだと、ちょいちょい、遅くなってね。どうしてかと思ったら、それがね、奥さん、あったのよ。"
"何がですの?"
"これ(小指を立てる。)。駅向こうに、カフェがあるでしょう、あたし、あそこばかりと思っていたら、隣の玉突き屋のゲーム取りだったの。それを、火の見のそばのアパートに、住まわせていたのよ。その時分、うちやぶちに住んでたでしょう、いきなり行って、ドア開けたら、うちったら、女の浴衣着て、かつ節かいてんのよ。"
"まあ。"
"そこへ女が帰って来たの、お風呂からよ。この辺、べっとり白粉塗って、お豆腐買って、嫌な女、金歯一杯入れて。"
"それで、奥さん、どうなさったの?"
"どうもこうもないわよ、その辺、お豆腐だらけ。"
"まあ。"
"油断できないわよ、奥さん。今じゃ、会社で、堅い一方だと言われるけれど、それが、そんなんだったんだものねえ。"
"あ、お帰りよ。"
"うちの人も、たまに遅く帰ってくれると、助かるんだけど。早けりゃ早いで、また厄介なもんね。"
"たま子、帰ったよ。"
"はい、はい。今、帰りますよ。じゃ、どうもごめんください。お宅の旦那様、今日は、どちら?"
"何ですか、兵隊時分の仲間の会ですって。"
"ちょいと、心配ね。"
"お帰りなさい。お腹空いてる?"
"うん。シャケの粕漬け、二切れ買って来たよ。"
"あ、そう。うち、お豆腐買ってあんの。ちょいと、おかか、かいて。"
"あいよ。"

戦友の会。 
"♪僕と君とは 卵の仲よ
 僕が、白身で 黄身を抱く 黄身を抱く
 つーつーれろ、れろ、つーれーろ
 つーれらつれとれしゃん
 つれられとれしゃん、らんらん "
"おい、おい、飲めよ。"
"おい、一杯行こう。"
"おい、チャンゲンには、よくチャンチしたよな。犬を殺してよ、よくすき焼きで、飲んだじゃねえか。"
"美味かったよな。俺、帰ってから、あんな美味いもの食べた事ねえよ。"
"そりゃ、そう思うんだ、今、食ってみろ。ケバ臭くて、食えたもんじゃねえってば。"
"そうかも知んねえ。"
"おか、石島の野郎よ、犬捕まえんのうまくてよ、犬見たら、大抵、逃さなかったんじゃんよ。"
"ほんとだ。"
"でもよ、あんな臆病な奴もなかったよな。弾飛んで来るとよ、鉄砲おっぽり出して、南無妙法蓮華教、南無妙法蓮華教ってお題目、唱えてるじゃねえか。"
"あ、そうそう、あいつ、暇見ちゃ、かあちゃんによく手紙書いてたよな。"
"ほんとだ。"
"あいつが戦死してよ、遺品調べたらよ、千人針の腹巻きの中から、面白い絵が出て来たじゃ、ねえか。抱っこして。"
一同、笑う。
"ところがよ、帰って来て、俺が、お線香上げに行ったらよ、あいつのかあちゃん、あの野郎の事、忠勇無象の我が兵だと思ってやがんのよ。"
"ありがてえよな、かみさんってものは。"
"俺、こないだ、そのかあちゃんに会ったよ。"
"どこで?"
"上野の松阪の方で。"
"どうしてた?"
"御徒町の煮豆屋に後妻で行ったとか。唇赤く塗ってよ、幸せそうな顔してやがんのよ。"
"まじいじゃねえか。"
"あいつも、浮かばれないよな。"
"ほんとだ。"
"俺たち、死なないで、帰って来て良かったよな。"
"おーい、しんみりしちゃったじゃ、ねえか。元気出せ、元気。♪痕の付くほど つねってみたが 色が黒いので 分からない 分からない
つーつーれろ、れろ、つーれろ つーれらつれとれしゃん つれられとれ らんらん。"
昌子は、正二を待っている。仲間を連れて、帰って来たようだ。
"おい、入れよ。"
"こんばんわ。""こんばんわ。"
"上がれよ。""おおきに。"
二人連れて上がる。 
"奥さんすか?どうも、済いませんね。"
"どうも、夜分、伺いまして。"
"いいえ、ようこそ。"
"おい、二階行こう。来いよ。"
"ああ。""お邪魔します。"
"階段、危ねえぞ。"
"大丈夫だよ。""大丈夫、大丈夫。"
"ほんとだったのね?"
"何が?"
"兵隊の会。"
"嘘だと、思っていたのか?"
正二は、二階に上がる。
"おい、いいかみさんだな。"
"いやあ。"
"なあ、おい。"
"もう、ちいっと飲みたいな。どうだい?もう、ちいっと飲みてえよ。"
"あるかな?"
"あるよ。""頼めよ。"
"おい、酒ないか?"
"ありません。"
"ビールは?"
"ないわよ。もう、いいじゃない?何さ、あんな酔っ払い連れて来て。"
"連れて来たんじゃない、ついて来たんだ。そうか、ないのか。"
"馬鹿にしてんわ。"
"ないんだとさ。"
"何が?"
"酒だよ。"
"酒か?もう、いいか?"
"俺、行って、買って来る。"
"うん。"
"行ったって、もう、起きてやしないよ。"
"大丈夫、大丈夫。"
"ちょっと、失礼。"
"どこ、いらっしゃるの?"
"酒屋、こっちでしょうか?"
"もう、寝てますわ。こんな時間なんですもの。"
"そうすか。何時でしょうか?"
"もう、1時過ぎてます。"
"そうすか。じゃあ、酒屋も寝てますね。"
"ええ。"
"そうか、寝たか。ねえ、奥さん。川口の方にいらしたらね、是非、あっしのとこ、寄ってくださいよ。ちっぽけな鋳物工場ですが、鍋作ってんす。品川鍋。金太郎印。ご存知ないですか?"
"はあ。"
"そうすか。"
二階から、酔っ払いが、下りて来る。
"おい、何してんだよ?"
"いやあ、奥さんに、うちの鍋、差し上げたいと思ってね。"
"またそんな事、言ってやがらあ。さっきの家でもね、奥さん。この野郎、姉ちゃんつかまえて、鍋やろう、鍋やろうって、言ってやがんでさ。"
"いいじゃねえか。宣伝じゃねえか。"
"何言ってやがんでぇ、やる、やるって。ねえ、奥さん。この野郎、僕には、一つもよこさない。不愉快である。ひっく。"
"おい、二階上がれよ。"
"は。"
"もう寝ろよ。床敷いたぞ。"
"うん。おい、金太郎印。"
"奥さん、どうも、失礼しました。"
"や、お休み。"
"お休みなさい。"
"あー、いい気持ちだ。"
"危ねえぞ。"
"大丈夫、大丈夫。"
"ねえ、明日、どうするの?"
"何だい?"
"坊やの命日よ。"
"ああ、そうか。"
"行かないの?墓参り。"
"行くさ。決まってるじゃ、ないか。"
"おい、着替えて寝ろよ。"
"はあ?"
"寝るんだよ。"
"ああ、そうか。起きろ。"
"布団、それでいいな?"
"大丈夫、大丈夫。"
"じゃあ、お休み。"
"何だ。お前、行っちゃうのか?"
"うん。"
"どこ行くんだ?"
"俺は、下で寝るんだ。"
"いいじゃねえか。ここで、一緒に寝るんだ。"
"一晩くらい我慢しなよ。""久しぶりじゃねえか。""いいってば、よう。"
"もう、布団ないんだ。3人は、無理だよ。"
"贅沢言うなよ。向こうじゃ、馬小屋のマグサの上で、寝たじゃねえか。せめぇとこでよ。"
"そうだ。ほこほこして、暖かかったな。""おい、来なよ。懐かしいじゃねえか。"
"じゃあ、一緒に寝るか。お前たちも、着替えろよ。"
"俺も、このまま寝ちゃうんだい。"
"俺もだ。"
"いいもんだ、戦友は。"
"いいもんだ。全くいいもんだ。"
"嬉しいじゃねえか。"
"おい、消灯だぞ。"
"消灯?"
"消灯、消灯。"
"たたたた、たたたたたー、たたたた、たたたたたぁ。"
昌子も、電気を消して、寝る。
翌朝。
"ちっと、頭痛いなあ。"
"そうだろ。随分、飲んでたもん。"
"どうして、ここに来ちゃったんだろう?"
"宴会終わってよ、鴬谷の駅まで歩いてよ、おめえ、向こうに乗りゃいいのに、別れたくないって、こっちに来たんじゃねえか。"
"お前、どうしたんだよ。"
"あんな事、言ってやがらあ。俺は、鶴見まで行くのによ、お前が、無理に蒲田で下ろしやがったんだ。"
"そうか?覚えてねえな。"
"それから、駅前の屋台に入ったじゃないか。"
"あ、そうだ。焼き鳥食ったじゃねえか。"
"そうか?"
"食ったよ。確かに食った。な?"
"そして、二人で俺を、送ってくれたんだ。いいんだ、いいんだって。"
"それで、泊まっちゃったのか?悪かったな。"
"済まなかったな。"
"でも、面白かったよ。"
”あなた。"
"何だい?"
"ちょっと。"
"何だい?"
"私、先に出掛けます。"
"もう、行くのか?"
"ええ。"
"どこで逢う?"
"だって、時間、分かんないでしょ?"

"何だい?"
"いや、いいんだ。"
"でもよう、お前は、いいよな?"
"何が?"
"今も、こいつと話したんだけどよ、サラリーマンで。"
"どうして。"
"俺たちと違って、会社は大きくて。"
"決まった時間働けば、毎月、きちん、きちんと金が、入ってよ、盆暮れには、ボーナスも入るしよ、段々、給料が上がってよ、仕舞いには重役さんじゃねえか。"
"人間、やっぱり学問がないとダメだな。"
"そんな事ないよ。そりゃ、君たちの方が、ずっといいよ。"
"どうしてね?"
"俺と違って、腕に職があるしさ、どこ行っても、その腕が、物を言うよ。"
"腕ってたって、たかが、ラジオの組み立てじゃねえか。ちったあ、テレビもやるけどよ。"
"立派なもんだよ。お前は、鍋の方が専門だし、そこへ行きゃ、俺は、何の技術もないんだ。クビになりゃ、差し当たり、明日から、食いっぱぐれだよ。"
"そんな事、ねえよ。"
"そうだよ。大体、サラリーマンって、昔、1銭5厘で集まった兵隊みたいなもんだよ。人は、有り余ってるしさ、重役になれるのは、1000人に一人あるか、ないかだよ。"
"うーん、そんなもんかな。"
"でも、お前、頭いいから、きっと、重役まで行くよ。"
"行けるもんかい。もし、クビになったら、お前の鍋のセールスマンに雇って貰うよ。頼むぜ。"
"ははは。そりゃいいな。"
"だけどよ、金太郎印じゃ、ちょっと勿体ねえな。"
一同笑う。
昌子が、歩く。
"こんちわ。"
"やあ。お出掛けですか?"
"ええ。ちょいと。"
"行ってらっしゃい。"
"杉山さんの奥さん?" 
"ああ。何だい?今日から早番かい?"
"そうよ。ちょいと、ここんとこ、架けて。"
"本気、大丈夫?"
"大丈夫だい。"
"ねえ、ちょっとおかしいのよ。"
"何だい?"
"ここんとこ、白粉の乗りが悪いの。出来たのかも知れない。ねえ、妊娠かも知れない。"
"誰?"
"私よ。"
"よせやい。そんな訳、ねえじゃねえか?"
"でも、ないんだもん。もう、あってもいい頃なのに。"
"何が?そうか。いつからだい?"
"先月からよ。"
"脅かすなよ。子どもなんか、出来たら、食えやしないよ。"
"そんな事言って、しょうがないわよ。あんた、拵たんだもの。"
"気のせいじゃ、ねえか?そんな筈ない。"
"だって、しょうがないわよ。出来ちゃったんだもん。"
"そんな訳ないんだけどな。"
"ないって言ったって、しょうがないじゃない。"
"うん。そうかなあ。一遍、医者行って、診て貰えよ。"
"うん。お金ある?"
"お前のとこ、ないのか?"
"ない。これ、買っちゃったもん。"
"じゃあ、次の給料日まで、待てよ。"
"そんな事、言っていたら、段々大きくなるわ。知らないわよ。"
"弱っちまったな。そんな筈ねえんだけどな。"

昌子の母の店。 
"おばさん、こないだ、川崎、済まなかったね。とんだ散財かけちゃって。"
"いいんですよ。私もね、お腹の中では、てっきり、米山が、頭だと思っていたの。"
"そうだよ。あの日、初めっから、荒れてたもんね。"
"そうですよ。"
"はい。おっかさん、これ。"
"おお。昌子ちゃん、来てたのかい。"
"暫く。"
"大きくなったねえ。どう?旦那さんと、うまく行ってるかい?ちょっと、お釈してくれよ。"
"はい。"
"綺麗になったねえ。いい年増だ。"
"ツーさん、いつまでもお若いわ。"
"そうかい。ありがとう。褒めて貰ったところで、帰るかな。じゃあ、お母さん、頼むよ。"
"はい、はい、毎度どうも。"
"ああ、いい気持ちだ。お、カバン、カバン。"
"はい、はい。"
"あばよ。"
"さいなら。"
"お前、まだいいのかい?帰らなくて。"
"いいのよ。"
"もう、兵隊のお客さんも帰っているよ。"
"どうだか。二人とも柄の悪い奴なのよ。あんな友だちがいるのかと思ったら、やになっちゃった。詰まんない事、面白そうに、わはは、わはは笑って。馬鹿みたい。"
"でもさ、鉄砲玉くぐった仲だもん、お互い懐かしいんだろ。"
"懐かしいなんて、あんなもんじゃないわよ。あんなのが、兵隊だから、日本、負けたのよ。子どもの命日すら、忘れてるんだもん。"
"そりゃ、しょうがないよ。私だって、とっつあんの命日、忘れてる事、あるよ。"
"こないだだって、そうよ。泊まって来た日あるでしょ、お母さん来た日、友だちの見舞いに言ったって、ハンカチに紅付いてんのよ。どこに泊まって来たか、分かりゃしない。怪しいもんよ。"
"だけど、そう一々、細かい事、気にするようじゃ、お前さん、まだまだ、旦那さんに惚れてるよ。"
"惚れてなんか、いないわよ。"
"惚れてますよ。分かってますよ。今日も、おでん持って行くかい?"
"持ってかないわよ。" 
"おやおや、随分、お臍曲げちゃったんだね。"

ミルクスタンドに、通勤仲間が、集う。
"やっぱり、女の奴は、目が早いな。俺は、もう、とうから臭いと思っていたんだ。"
"そうか。俺は、チャコに言われて、初めて気が付いたんや。"
"そう言えば、俺、こないだ、二人で、放送局の前、歩いているの、見たよ。"
"こないだって、いつや?"
"公会堂で、リサイタルがあった晩や。"
"穏やかやないな。"
"とうから、臭いんだよ。"
"一遍、やってやるか?"
"何がや?"
"査問会。吊し上げだよ。"
"やるか。"
"やったろ、やったろ。いつやる?"
"今晩どうだい?"
"いいね。"
"俺んとこ、どうだい?今朝、名古屋から、うどんが来たんだ。うどんの会。"
"おい、ノン公。お前も来るな?"
"他人事じゃないわ、心配事あるんだ。"
"何だ?"
"お前たちには、分からないんだ。頭、痛えんだ。"
"そういゃあ、さっきから、元気ないな。"
"そうなんだ、元気ねえんだ。"
"どうしたい?"
"人生は、憂鬱だよ。"
"何ゆうて、けつかる。"
"よし、杉と金魚のとこ、連絡しとかな、いかんな。"
"よっしゃ。俺、かけるわ。"
"おい、ついでに金魚の所も、かけろよ。"
"よっしゃ。"
"あ、もしもし。東亜耐火煉瓦ですか?庶務の杉山さん、お願いします。"
"おい、おやじ、アイスウォーター。""俺にもや。"
"あ、杉か?俺や。野村。"
東亜耐火煉瓦に、切り替わる。
"あ。え?うどんの会?あ、ライオのとこか。行けたら行くよ。あ?行く行く。ああ。"
正二は、弁当を食べる。
"杉山さん。総務部長が、お呼び。"
"すぐかい?"
"ええ。"
"何か?"
"よう。飯済んだ?"
"済みました。"
"そう。ちょっと。"
"まあ、架けたまえ。どう?"
"済いません。"
"暑くなったね。"
"ああ。"
"いや、ほかでもないんだけどね、どうだろう?君に三石に、行って貰いたいんだけど。"
"転勤ですか?"
"そうなんだがね、遠くて、気の毒だけど、ああいう生産の現場を見て来るのも、君の将来のためには、いいと思うんだ。"
"はあ。"
"長くて、2、3年だろうけど。どうかね?一度、考えてみてくれないかね。"
"はあ。考えさせて、いただきます。"
"あ、どうぞ。こんな話、どっかで飯でも食いながら、すりゃ、良かったんだけれど。会社も、急いでいるもんだからね。"
"はっ。"
"なるべく早く、返事を聞かせてくれないか。"
"はっ。じゃ。"
"はあ、どうぞ。"
正二は、デスクに戻り、考え込む。

アパートの一室。 
"どうも、済みません。じゃあ、ちょっと拝借します。"
"田辺さん。箸は?"
"箸は、あるんです。どうも。"
うどんの会。
"おい、借りて来たぞ。"
"おい、美味いぞ。"
"そうかい。おい、つけろよ。" 
"俺が、作るよ。"
"そうか、ダイン、名古屋か?"
"うん。"
"名古屋のどこだい?"
"中村だよ。"
"豊臣秀吉の生まれた所か?"
"そうだよ。"
"色んな奴の生まれる所だな。ピンからキリまで。"
"お前、どこだ?"
"俺は、土佐だ。坂本龍馬の生まれた所だ。"
"そうか、土佐か。"
"龍馬も生まれりゃ、とんまも生まれるな。"
"何、言ってんだい。"
"お前、黙っときゃ、良かってん。詰まらん事言うなと、俺、思とってん。"
"何、言ってやがんだい。"
ドアがノックされる。
"おう。"
"おい、遅かったやないか。"
"ちょっと、風呂行ってたんだ。うどん、まだあるな?お、肉入ってんじゃ、ないか。"
"うちの会社の缶詰だよ。"
"おい、杉、来んのやで。"
"どうして?"
"どっか、行ったんやて。"
"ふーん、そうか。美味そうだな。"
"おい、何や?"
"パチンコで、取って来たんだ。"
"洒落てるなあ。出せよ。"
"これか?"
"お前、好きだな。パチンコ。"
"そうでもないけどな。あんな事でも、してなきゃ、やり切れないよ。"
"そうだよ。一日縛られてるだものな。"
"こうしなきゃ、牢獄だい。"
"朝も早よから、電車に揉まれてさ、会社に行きゃ、嫌な課長がいやがるしさ、サラリーは、
なかなか上がんないしな。ボーナスは、なかなか出しやがらないしさ、しょうがねえから、うどんでも、食うか。"
"黙々とな。"
"そやそや。"
ドアがノックされる。
"おい、来おったぞ。"
"おい。"
金魚が入って来る。
"遅くなっちゃった。美味しそうね。私にも、ちょうだい。"
"おう。"
"金魚。お前、杉と一緒やったんやないか?"
"私?ううん。"
"杉、どうした?"
"私、知らない。"
"ほら、美味いぞ。"
"ありがと。"
"ほら、箸だ。洋服、汚すなよ。"
"大丈夫よ。"
"誰か、買ってくれる人が、いるんだろうけれど。"
"いないわよ、そんな人。失礼ね。"
"ないのか?そうか、それは、失礼しちゃったな。"
"変な事、言わないでよ。あ、美味しい。"
"杉なんか、どや?買うてくれへんか?"
"何?"
"洋服や。"
"なんで、杉が、買ってくれるの?私に。"
"ちょっと、そんな気がしたんや。この頃、だいぶ、仲ええさかいな。"
"そうだってな?俺も、聞いてるな。"
"何をよ?"
"お前と杉の噂だ。"
"よしてよ。馬鹿にしてるわ。"
"お前、心当たりないのかよ?そんな噂の出る原因。"
"ないわよ。"
"ない事、ないでしょう。"
"何よ、ノッポ、私に、一体、何が言いたいの?何のために、ここに私を呼んだの?"
"うどん、食わしてやりてえと思ってよ。"
"馬鹿にしないでよ。言いたい事があったら、はっきり、言ってよ。"
"言われると、困るんじゃないのかい?"
"何よ、何が困るのよ?"
"おい、金魚。杉には、奥さんあるんだぞ。"
"あれば、どうなのよ?"
"まあ、聞けよ。そりゃ、奥さんのある男を好きになる事もあるだろうさ。そういう気持ちは、俺には分かるさ、分かるけれどさ、そりゃ、いい事かな?"
"じゃあ、あんたたち。"
"まあ、黙って聞け。そういう奥さんのある男と、仲良くなってだよ、お前、その奥さんに悪いと思わないのかい?例えば、お前が、その奥さんの立場に、なってとしてだ、ほかに金魚が現れた場合だ、お前、果たして、どんな気持ちがすると思う?我が身をつねって、人の痛みを知れだ。恐らく、いい気持ちは、しねえと思うんだ。そこだよ、大事なとこは。つまり、反省だな。セルフ・エグザミネーションだ。それが、少しお前に、足りなくはないのかい?それがなきゃ、人間、犬猫と同じだぜ。"
"あんた、何の証拠があって、私にそんな事、言うの?わたしと杉が、どうしたって言うの?はっきり言ってちょうだい。"
"そんな事、お前自身、胸に手を当てて、よく考えてみろ。"
"何を、考えんの?"
"やましく、ねえのか?"
"ないわよ。"
"でもなあ、火のない所に、煙は立たねえって言うからな。"
"それが、どうしたって言うのよ。"
"お前、この前の晩も、日比谷んとこ、杉と歩いてたじゃ、ないか。"
"歩いてたわよ、それが、なぜ、いけないの?"
"いけなかないけど、おかしいじゃないか。"
"何が、おかしいのよ?あなたの方が、よっぽどおかしいじゃない。"
"何がだい?"
"私と杉だと、分かってて、どうして、あんた、声掛けてくれなかっのよ?どうして、知らんぷりしてたのよ?"
"見たの、俺じゃない。こいつだよ。"
"あんた、どうして黙ってたの?"
"そんなとこ、邪魔したら悪いからな。"
"何が、邪魔よ。あんたたち、勝手に、そんな風に、思い込んでんじゃない?勝手に、色眼鏡で、人、見てるじゃない。小舅の腐ったみたいに。何さ。私、誰とだって、歩くわよ。あんたとだって、あんたとだって。だからと言って、一々そんな事、変な目で見ないでよ。迷惑だわ。とっても迷惑だわ。何よ、あんたたち、男のくせに。卑怯よ。"
金魚は、飛び出す。
"俺は、さっきから、黙って聞いてたけど、お前たち、随分、意地悪いな。"
"いやあ、一遍、言ってやった方が、いいんだよ。人道上な、ヒューマニズムだよ。"
"俺たちはな、倫理的に、清潔じゃなきゃ、いけないよ。"
"でも、そうは、聞こえなかったぞ。言ってる事は、偉そうだったけど。"
"でも、ほんとかなあ?"
"何?"
"杉と金魚?"
"そりゃ、確かだよ。"
"でも、あいつもよく、頑張るよ。"
"とっぽい野郎だよ。"
"貫禄十分だよ。"
"煮ても焼いても、食えない奴だよ。"
"あの二人、どっちが先に、モーションかけよったんや?"
"そりゃ、金魚だよ。"
"いや、俺は、杉だと思っているんだ。"
"けどなあ、もしほんまやったら、杉の野郎、ちょいと、上手い事しよったんやな。"
"うん、ちょいと、羨ましいよな。"
"お前たちのヒューマニズムも、あてになんねえよ。"
"でも、上手い事しやがたなあ、杉。"
"ヒューマニズムってものは、そんな時、羨ましがたら、いけねえもんだ。そういう風に、出来てるんだ。窮屈なものなんだ。"
"ほんまやで。"

正二は、三浦を見舞う。濡れたタオルで、三浦の身体を拭く。 
"ありがとう。随分、痩せちゃったろう。毎日、寝てんの、もう飽き飽きしたよ。"
"そうだろうねえ。"
"もう、100日越しちゃったよ。ここから見える空も、寝付いた先は、鯉のぼりの矢車が、からんからん鳴ってたけど、もう入道雲が、出るようになっちゃった。ああ、こないだ、木村、来てくれたよ、君も一緒に来てくれるとこだったって。"
"ああ、あの日、急に用事が出来ちゃって、済まなかったよ。"
"いやあ、暫く会わないと、馬鹿に仲間が恋しくってねえ。"
"そうだろうねえ。"
"皆んな、丈夫で、羨ましいよ。寝てると、馬鹿な事を、考えるもんでね。朝、目覚ますと、ああ、今時分、ラッシュアワーで、混んだ電車に乗ってるな、今時分は、会社のエレベーターだ、グーっと上がって、7階で止まる。オフィスのドアを入ると、窓の向こうに、東京駅が見える。来てるのは、横井君と塩川さんだけだ。塩川さん、相変わらず早いかい?"
"ああ、早いよ。あの人も、10月で、定年だそうだ。"
"そうかい。それまでに、俺も出られるようになるかな?時々、無闇に、会社が恋しくなるんだよ。俺が、丸ビルを見たのは、修学旅行で、初めて東京に出た時だった。夕方で、どの窓にも、灯りがついていた。秋田県の田舎の中学生の目には、まるで、外国のようだったよ。驚いたねえ。それ以来、丸ビルは、俺の憧れだった。東京の大学出てからも、あの辺を通るたび。"
"おい。あんまり、話しちゃいけないんじゃないかい?"
"いや、いいんだ。今日は、馬鹿に気持ちがいいんだ。"
"後で、疲れるといけないぞ。"
"入社試験受けて、採用通知が来て、嬉しかったなあ。早速、神田に背広、買いに行ったよ。あの日の事は、よく覚えているんだ。"
"あ、お帰んなさい。"
"まんず、遅くなりまして。"
"いいえ。"
"とっても、いいお風呂でございました。どうぞ、お一つ。"
"いいえ、もう、どうぞ。三浦君も、こんなに元気になられて。"
"あー。ほんとにお陰様で。これも、これから、よくなったら、静かな所でも借りて、暮らしたいと言ってて、そうなったら、私にも、東京に出て来いと言ってやんす。"
"そうですか?お楽しみですね。"
"それだば、まず、お嫁さん貰ってもらわなでばんす。国の方に、少しばかり、心当たりがあるんだども。"
"やかましいな、おっかさん。少し、黙ってくれないか。"
"じゃあ、そろそろ失敬するよ。"
"いいじゃないか。もう少し、いてくれないか。今日は、ほんとに気持ちがいいんだよ。"
"そうか、そりゃ、いいね。"

正二の家。正二のご飯に、布巾が掛けられている。正二が、帰って来る。
"ただ今。"
"お帰りなさい。"
"あんまり、腹減ったんで、ラーメン食って来た。"
"そう。どこ行ったの?"
"三浦のとこ、見舞いに行って来たんだよ。"
"ちょいちょい、行くわね。"
"どこへ?"
"三浦さんとこよ。" 
"行ったって、いいじゃないか。"
"そりゃ、いいけどさ、よく泊まって来なかったわね。さっき、金魚さん、来たわよ。"
"何だって?"
"何だか。会いたそうだったわよ、あんたに。泣いた後みたいな、顔してた。"
"おい、会社、転勤の話があったんだけどね。"
"なあに?"
"三石行かないかって、言われたんだ。"
"どこ?三石って。"
"姫路の先だよ。岡山県だ。"
"そう。"
"まあ、一応、考えさせてくれと、言ったんだがね。"
"そう。で、どうする積もり?"
"どうしようかと、思ってんだ。"
"行きゃいいじゃないの。私、行くわよ。平気よ。"
"大変な山の中だぜ。"
"いいじゃないの。東京で、くさくさしているよりは、よっぽどいいわ。"
"あんた、どうなの?"
"何が?"
"行きたくないの?"
"うん。"
"どうして?東京の方が面白い?"
"そんな事もないけど。"
"いい事、あんじゃない?こっちの方が。"
"何言ってんだい?"
"ううん、聞いてるだけよ。"
"変じゃないか?"
"何が?ちっとも変じゃないじゃない。"
"いいよ、言いたい事は、分かっているよ。"
"そう、どんな事?"
"だから、詰まらない事、言うな。"
"こんばんわ、ごめんください。"
"金魚さんよ。"
"何だい?何か用かい?"
"ええ。ちょっと出られない?"
"急な用か?"
"ええ。"
"何だい?こんなに遅く。"
"先程は、どうも。"
"いいえ。あなた、行ってらっしゃいよ。"
"明日じゃいけないのかい?"
"悪いわ、そんな事。何度も来て貰って。"
"しょうがねえな。"
"どうも、済いません。"
"いいえ。"
"ちょっと行って来る。"
二人は、夜の川べりを歩く。
"だから、私、どこまでも頑張ったの。だけど、あの人たち、とてもしつっこく、色んな事言うの。悲しくなっちゃった。あんたにだって、何言うか、分からない。奥さんの身になって考えろと言うの。奥さんに悪いと思わないかって、言うの。ねえ、私、どうしたらいいの?ねえ、どうしたらいいのよ。"
"まあ、落ち着けよ。今日、君は興奮してるんだ。"
"だって、だって、どうすりゃいいのか、分からなくなった。"
"もう、遅いんだし、帰ってお休みよ。"
"いや。いや、帰ったって、寝られやしない。ねえ。"
"お休み、明日、また早いんだ。さ、帰ろう。"
"いや。"
"帰るんだよ。"
"ねえ、待って。もう少し、一緒に歩いてよ。お願い。"
"帰るんだよ。"
正二は、歩き出す。正二は、家に上がる。 
"おい、寝ちゃったのか?"
"眩しいわね、消してよ。何の用だったの?"
"いやあ、何でもないんだい。"
"何でもないにしては、長かったわね。"
"おかしな奴だよ、あいつは。"
"何が?"
"おい、どうしたんだい?俺のとこ、敷けよ。"
"床敷けたのか?じゃあ、寝るか。暑いな。"
"待ってよ。ちょいと、話があんの。"
"何だい?"
"座ってよ。"
"何だい?"
"あんた、この頃、色んな事、私に隠すわね。"
"何を?"
"私、ぼんやりしてるようでも、ちゃんと、分かっているのよ。"
"だから、どういう事だい?"
"あんた、あの人とどういう関係なの?"
"あの人って?"
"金魚さんよ。"
"毎日、電車で通う仲間じゃないか?"
"それだけ?"
"それだけさ。"
"じゃあ、こんなに遅く、何の話があるの?何の話で来たの?何でもない話なら、明日、電車の中で、できるじゃない。"
"そんな事、俺知るもんかい、金魚に聞けよ。"
"誤魔化さないでよ。どうしたの?今、着てたワイシャツ。あ、それ、取ってよ。どうして、こんなとこ、紅付いてるの?何でもない話だったら、どうして、こんなとこに、紅付くの?こないだ泊まって来た晩も、そうじゃないの。ハンケチに紅付いてたわ、これと同じ紅。一体、どういう事なの?ちゃんと分かってんのよ。私が邪魔だったら、いつでも、どいてあげるわよ。"
"何言うんだい。そんな事じゃ、ないじゃないか?"
"馬鹿にしないでよ。あたし、嫌いなの。そんなの嫌なの。あんた、随分、昔と変わったわね。坊やの事なんか、すっかり忘れてる。"
正二は二階で、昌子は、一階で、考え込む。
▶︎昌子の出奔
翌朝。目覚めた正二は、階段を下り、昌子を探すが、その姿はない。
"おい。おい。おい。" 
"お早うございます。"
"ああ。"
"奥さんね、急なご用で、五反田のお宅に行って来るって、早く出かけられましたよ。" 
"そうですか。"
"鍵、お預かりしてますね。はい、これ。"
"いや、どうも。"
"今日もまた、暑くなりせそうですわね。"
"ああ。"
"じゃあ、ごめんください。" 

正二のオフィス。
"よお。"
"ちょっと遅れまして。"
"おい、三浦死んだぞ。"
"いつ?"
"今朝。明け方。"
"おかしいな。夕べ、元気だったぜ、俺、見舞いに行ったんだ。"
"睡眠剤、飲んでたんで、たんが切れなかったんだ。"
"そうか。夜、よく眠れなくて、困るって言ってたよ。そう、死んだかい。"
"おい、ちょいと。"
"俺、ちょいと、今朝、聞いたんだけど、総務部長から、転勤の話があったんだって?"
"ああ。"
"どうするんだい?"
"やあ。"
"気が進まないなら、断れよ。行く事、ないよ。"
"そんな事、会社が一方的に決めるべき事では、ないよ。"
"当然、組合に相談があって、然るべき事だ。各自、家庭の事情もあるしな。"
"うん、まだ返事していないんだ。"
"よく考えて、返事した方が、いいぞ。"
"三浦、可哀想な事、しちゃったな。"
"うん。いい奴だったよな。"
"32か3で死んでしまったら、詰まらないよな。ま、その話、よく考えろよ。"
"うん。ありがとう。"

三浦の通夜。正二は、焼香する。
"よく、来てくださいました。これ、祐三の姉の亭主でございます。"
"どうも、この度は。"
"杉山さんは、祐三と同じ時に、会社に入った方でござんす。"
"そうかね。"
"お母さん、さぞかし、お力落としで。"
"はあ、今んとこ、気が張ってなんすが、何とも、夕べは、祐三も心から、貴方様とお話できて。"
"は。ほんとに急な事で。"
"はあ。あれの兄も、マニラで戦死してしまいました。これで、男の子は、一人もいなきなってしまいました。もう、誰も、私に文句言ってくれる人は、ありません。"
"じゃあ、また後ほど。"
"ありがとうございました。"
"ご苦労さん。"
"やあ。"
"こんばんわ。"
"やあ。"
正二は、河合の隣に座る。
"三浦も、気の毒な事、したね。"
"夕べ、会ったばかりなんです。こんな事になると、思いませんでした。"
"うん。しかしまあ、あいつも会社員生活の嫌な面を知らずに、逝ってしまった。幸せだったかも知れないよ。"
"ええ。"
"あいつくらい、無邪気に丸ビルの会社に勤めるのを喜んでいた奴はないからね。"
"そうでしたね。"
"まあ、そのうち、飽きただろうけどね。"
"いやあ、あいつは飽きませんよ。"
"そうかね?そうかも知れないね。それだけに、可哀想な気がするんだが。しかし、独り身のうちで、良かったよ。女房持って、子どもが出来て、いつまでもサラリーマンをありがたがってはいられないからね。子どもが増えるほど、給料は、増えないからね。いやあ、三浦は幸せだったかも知れないよ。まあ、お互いに生きているが、幸せとは、言えないからね。"
"ああ。"
"うん。"

アパート。昌子が調理する。
"ただ今。"
"お帰り。"
"まだ、いたわね。"
"そう、邪魔にしないでよ。"
"ううん。いて貰った方が、便利で、私はいいのよ。はい、ハンバーグ、それから、佃煮。うち何?"
"さつま汁。ビールも冷えてる。"
"そう。"
"今日、暑かったわよ。うちの社、3階だけど、近所のビルが高いでしょ、ちっとも風、入んないの。息が詰まりそう。"
"ここ、割と風あったわよ。思ったより、涼しいかも。"
"ちょっと、あんた。思い出してんじゃない?"
"なあに?"
"旦那様の事。"
"どうして。"
"さぞ、飯かまど熱かろうって。"
"何言ってんの。"
"新聞屋、お金取りに来たわよ。"
"そう。"
"はい。"
"お宅の旦那、転勤どうしたろう?"
"どうしたか?"
"もし、行っちゃったら、どうする?"
"さばさばするわ。"
"嘘。" 
"ううん、ほんと。でも、行きっこないわよ。今、あの人、東京離れられない気持ちよ。"
"そうね。やっと、うるさい奥さん、誤魔化して、いい人出来たんだもんね。"
"そう、面白いから、私、わざとからかってやったの。行こう、行こうって。"
"分かる、分かる。割に、心理複雑ね。"
"そう。"
"ほんとは、どんな気持ち?"
"そりゃ、面白くないわよ。"
"それ、私も、そうだった。昔よ。"
"あ、そうそう。あったわね、あんたのとこでも。"
"うん。だから、亭主の帰りが、ちょいちょい遅くなるようだったら、もう、警戒警報よ。詩は、夜、作られる。"
"ほんと。油断できないわよね。"
"あんた、帰るの、よしなさい。"
"うん。帰んない。"
"偉い、偉い。"
"ほんとは、今日、ここに電話かかって来たのよ。"
"よく分かったわねえ。ここ。"
"五反田の家に行って、聞いたんでしょう。"
"なんてってたの?旦那様。"
"出たら、あの人の声なんで、すぐ、切っちゃった。"
"ほんとかな?"
"ほんとよ。"
"偉い、偉い。うんと懲らしめてやらなきゃ、ダメよ。きっとつけ上がっている。私、それで、大失敗。だから、あんたが知ってる事件、あれ、2度目よ。"
"2度目?そう。"
"死んじゃったから、3度目は、ないけど。何でも、初めが肝心よ。だから、あんたも、迂闊に帰ったら、ダメよ。経験者は、語った。"
正二の家。正二は、荷造りをする。
"おい、杉。いるかい?"
"おう、ノン公かい?上がれよ。"
"何だ、もう荷物こさえてんのか。"
"ああ。"
"いつ、行くんだい?"
"明後日、月曜の晩、立とうとしているんだ。"
"奥さん、どうしたんだ?"
"ちょいと、里に行ってんだ。"
"俺、今朝、ラインに聞いたんだけど。"
"ああ。あいつ、昨日の晩、来たよ。"
"どうして、そんな事になったんだ?"
"この辺で、一遍、東京離れて、山ん中で、ゆっくり、考えてみたくなったんだ。"
"いや、そうじゃない。奥さんだよ。"
"ちょいと、喧嘩したんだ。"
"そりゃいけねえじゃねえか。俺が、貰いに行ってやろうか?"
"いいよ。"
"喧嘩しちゃいけねえな。"
"お前だってするじゃないか。"
"うん。俺もするけどさ。手伝ってやろうか。"
"うん。あ、それ、もう要らないんだ。"
"これ、みんなもう要らないのか?"
"うん。"
"じゃあ、結わえとこうか?" 
"うん。"
"なあ、おい、杉。俺の友だちのかみさんでな、腹でかくなった奴がいるんだよ。月給安いしな、子ども出来たら、困るって言ってんだ。可哀想だな。"
"うん。"
"そん時、どうすりゃいいのかな?お前ん時、どうだった?"
"何が?"
"赤ん坊だよ。奥さん、腹でかくなった時、どんな気がした?" 
"そうだな、別段、嬉しくはなかったな。"
"そうか、やっぱりな。"
"何だい?"
"いや、実は、俺の所なんだよ。かみさん、これなんだ。"
"そうか。そりゃ、おめでたいじゃねえか。"
"おめでたくはないな。どうしようかと思ってんだ。"
"それは、出来ちゃったら、考える所ないよ。"
"でも、育てられなかったら、どうすんだ?"
"それは、おれも考えたけど、赤ん坊の一人くらい、どうにでも、なるもんだよ。"
"そうかなあ?"
"俺も、子どもなんか、要らないって、思ったんだよ。でも、生まれてみたら、段々可愛くなってきて、可愛い盛りに、疫痢であっという間に死なれてしまったんだよ。泣くに泣ききれないぞ。"
"そうか。そう言うもんかなあ。"
"後、欲しいと思っても、それっきりできないしなあ。まあ、出来たもんなら、産ませるんだな。"
"うん。でも、どんな奴か、分からないしな。"
"そりゃあ、誰にも分かりやしないよ。でも、その中から、太閤さんが生まれたり、マルクスが出たりするんだ。第一、そんな事、生まれない先に、頭の中で、いくら考えても、分かりっこないよ。生まれてみて、育ててみて、初めて、可愛くなってきて、いいもんだなあと思うんだよ。"
"そうかな?じゃあ、産ませちゃおうか。"
"ああ、そうしろよ。"
"でも、大丈夫かな?" 
"何が?"
"こないだ、俺、六郷の突堤に連れてって、高い所から、飛ばしちゃったんだよ。そしたら、三段目に、どすんと尻餅ついちゃったんだよ。大丈夫だい、な?大丈夫だよな?" 
"俺、そんな事に責任持たないぜ。俺ん時は、大丈夫だったけど。"
"じゃあ、俺の方も、大丈夫だい。それでダメになるガキなら、しょうがないよな。要らねえや。"
"こんちわ。"
"金魚じゃねえか?金魚か?上がれよ。"
"こんちわ。ノンちゃん、来てたの?"
"ああ。俺、もう帰るんだ。"
"まだ、いいじゃないの。"
"そうは行かねえんだ。心配事あんだ。"
"何?"
"人には、言えねえんだ。じゃ、杉。俺、帰るよ。"
"うん。それからな、ラインが送別会するって言ってたぞ。"
"もういいんだよ、そんな事は。"
"金魚、お前も出るよな?"
"うん。"
"さよなら。"
"さよなら。"
"さよなら。"
"あんた、転勤するんだって?なぜ、私に黙ってるの?なぜ、言ってくれないの?黙って、行っちゃう積もりだったの?"
"いや、言おうと思っていたんだ。"
"嘘。あんた、私から、逃げ出す積もりだったのね?分かってるわ。"
"いや、そうじゃない。行く前に、一度逢いたいと思っていたんだ。"
"嘘。嘘。"
"いや、それはほんとなんだ。逢って、謝りたいと思っていたんだ。"
"何を謝んの?何を、あんたが私に謝るの?ちっとも謝る事など、ないじゃないの。間違いなら、間違いだって、いいわよ。なぜ、黙ってんの?なぜ、黙って、逃げんのよ。"
"いや、逃げはしないよ。"
"逃げてんじゃないの、こないだから、逃げてんじゃないの。あんたが、私と離れて、遠くに行く気持ち、ちゃんと分かってんのよ。私が嫌なら、嫌だって、いいのよ。無理に好きになってくれって、言いやしないのよ。どうして、そういう事が、はっきり言えないの?"
"だから、俺は、君を。"
"誤魔化したって、ダメよ。"
金魚は、数回、正二を叩く。
"何さ。"
金魚は、家を飛び出す。 

昌子の母の店。
"おばさん、ここへ置いたよ。"
"はい、ありがと。毎度、どうも。"
"ご馳走さん。"
正二が、訪れる。 
"いらっしゃい。"
"こんばんわ。"
"昌子、どうしました?帰りましたか?"
"いいえ。まだ。"
"そうですか。まだ、帰んないの?"
"ええ。兎に角、明後日の晩、立つ事にしました。後、そのままにして、行きますけど。"
"ええ、ええ。そりゃいいけど。どうしたんだろうね、昌子。康一、康一。あのね、お前ね、ちょいと、目白のアパート行ってね。"
"いや、お母さん、いいです。これから行ってみますから。"
"そう?そりゃその方がいいがね。"
"じゃあ。"
"行ってらっしゃい。"
康一が、下りてくる。
"何だよ?おっかさん。"
"あ。姉ちゃんね、まだ蒲田に帰ってないんだってさ。"
"ふーん。"
"今、杉山さんが来てね、迎えに行ったよ。"
"だらしがねえの。のこのこ迎えに行くから、なお姉ちゃん、つけ上がっちゃうんだよ。"
"そうかと言って、ほっとく訳、いかないわね。杉山さん、明後日、行っちゃうんだってさ。"
"何でまた、喧嘩なんかしたんだ?"
"色々、あるんだろ。杉山さん、男がいいからね。"
"焼き餅喧嘩かい?"
"まあ、そんなとこだ。うちのおとっつあんなんか、もっと、癖悪かったよ。あたしがお嫁に来た晩、お友だちと一緒に、吉原行っちゃったんだもん。"
"それで、おっかさん、どうしたんだい?" 
"どうもしやしないよ。そんなものと思っていたから。しょうがないやね。女は、三界に家なしだから。"
"ちぇっ、古いなおっかさん。やになっちゃうな。"
"古くたってね、人間に変わりないよ。おんなじだよ。"
昌子が、やって来る。 
"おや、お前、そこで、杉山さんに遭わなかったかい?アパート行くって、出て行ったんだよ。"
"そう。"
"おっかさん、腰巻き下がってますよ。"
"分かってますよ。変な事、気にして、やな子だね。"
"どうしたのさ。"
"浴衣、取りに来たのよ。"
"そうじゃないよ。どうする積もりさ?杉山さん、明後日、立っちゃうんだってよ。いい加減、もう蒲田にお帰り。焼き餅も大概にしときよ。"
"焼き餅じゃないわよ。"
"じゃあ、何さ?杉山さん、一人で、気の毒じゃないか。"
"いいじゃないの。"
"よかないよ。お帰りよ。"
"帰んないわよ。"
"行っちゃうんだよ、杉山さん。"
"いいわよ。ほっといてよ。"
"だけどさ、夫婦って、そんなものじゃないよ。杉山さんだって、重々悪いと、思ってんだもの。折るべき時に、折れないとね。取り返しのつかない事になりますよ。"
"おっかさん、お客さんだよ。"
"あいよ。いいのかい?おっかさん、ほんとに知らないよ。"
昌子は、窓辺で考え込む。

バー。正二ともう一人の男性客。
"奥さん。これ、もう一つ。"
"よろしいんですか?そんなに上がって。"
"いや、いい気持ちだ。もう一つください。" 
河合が挨拶する。
"いらっしゃい。"
"や。" 
"よお。"
"こんばんわ。"
"いらっしゃい。"
"杉山さん、明後日、お立ちになるんですって。"
"そう?よく行く気になったねえ。酷いとこだよ。山ん中で。"
"そうですってね。行くと、当分、お目にかかれないんで。"
"そう、それはどうも、わざわざ。"
"途中、小野寺さんにもお目にかかって行こうと、思うんですが。"
"ああ、そりゃよろしく言ってください。そう。いよいよ行くの?"
"はあ。"
"三浦は死ぬし、君は遠く行っちゃうし、淋しくなるなあ。"
"あんた、どっかにご転任ですか?"
"ええ。"
"この人は、私がいた会社の後輩なんですがね。"
"そうですか。ご栄転ですか?"
"いえ。"
"ああ。結構ですな。私は、こういう会社にいるんですが。"
"はっ、どうも。"
"いやあ、ご存知ないだろう。ちっぽけな会社だから。"
"しかし、服部さんは、なかなか勤勉だなあ。"
"はあ、勤勉かどうか。私も、来年で、いよいよ定年でさあ。"
"そうですか。何年くらいお勤めだったんです?"
"ちょうど、31年になりまさあ。くたびれましたよ。"
"じゃあ、退職金も相当ありますな。"
"いやあ、それがね、私は、昔から、定年になったら、どこか小学校の近くで、文房具屋でもやって、子ども相手に、のんびり暮らしたいと思っていたんだが、なかなかそんなにゃ、よこしませんよ。税金も引かれますしな。まあ、我々サラリーマンの行く末は、退職金を前にして、淋しがるのが、関の山でさ。31年勤めて、考えてみりゃ、はかないもんだ。"
"そういや、だいぶ前の話だけど、町内の商工会の連中と、箱根に出掛けたんですがね、大磯で、バスが、故障しちゃって、ちょうどそれが、池田さんのお屋敷の前だったんで、覗いてみたんですが。"
"池田さんと言うと?あの、大蔵大臣をされた。"
"ええ。商工大臣も、されましたな。池田誠心。あの方のお屋敷なんですがね、亡くなられて、まだいく年にもならないのに、芝生が掘り返されて、畑になってるし、梅の枝は、伸び放題に伸びてるし、草がぼうぼうに生えていて、ただ、サンテラスのブーゲンビリアの花だけが、いたずらに赤く咲き乱れていてね。"
"ほお、それは、どんな花ですか?"
"イカダカズラって言う、熱帯植物なんですがね、何だか侘しかったなあ。池田誠心先生と言えば、三井財閥の大番頭で、文字どおり清廉潔白な、いわば、日本一のサラリーマンだった人だ。その先生にして、既にそうなんだから。"
"いやあ、全くね。"
"よしんば、間に戦争があったとしてもですよ。"
"左様。" 
"全くあなたのおっしゃるように、はかないもんだ。" 
"いやあ、私もね。倅だけは、サラリーマンにしたくないと思っていたんだが、どこがいいんだか、背広着て、カバン提げて、毎日、会社に通ってますわ。蛙の子は、やっぱり蛙ですわ。"
"よお、失敬、失敬。どう?一つ。"
"はあ。"
"まあ、お別れだ。元気で行って来たまえ。"
"ご健康をお祈りしますよ。"
"はっ、ありがとうございます。"
"じゃあ。"
3人は乾杯する。

アパートで、正二の送別会。皆は、"蛍の光"を合唱する。
"杉、元気でね。"
"ああ。"
"身体だけは、大事にしろよな。"
"うん。ありがとう。"
"時々、東京に出て来るんだろう?"
"いや、どうかなあ。出て来られないかも、知れないよ。"
"おい、杉。お前、それ食わないのか?"
"いや、食うよ。"
"そうか。"
"ノンちゃん、私の半分上げる。"
"ああ、くれ。"
"これで、杉がいなくなると、淋しくなるよな。"
"うん。おい、ほんとに元気でな。"
"ああ。"
"ね、も一度、皆んなで歌わない?"蛍の光"。"
"やりましょうよ。""やろう、やろう。"
金魚が入って来る。
"おう。"
"ごめんなさい。遅れちゃった。"
"よく来たな。"
"こっちに来いよ。"
"そこ?"
"うん。"
金魚は、正二の向かいに座る。
"いよいよ行くのね、杉。握手。"
"元気でね。"
"ああ、ありがと。"
一同は、"蛍の光"を歌う。正二は、黙って聞いている。

小野寺と正二。湖の船着き場で。
"うん、それは、一体、いつの話なんだい?"
"もう、10日くらい前なんです。"
"じゃあ、それっきり、奥さんに会ってないのかい?"
"行っても留守だったり、会えなかったり。"
"何だい?原因は。"
"ちょっと、僕が間違いを起こしたんです。"
"女かい?"
"ええ。"
"いや、奥さんは、大事にしてやれよ。俺も、この頃は、なかなかかみさんに、親切なんだ。やっぱり、女房が、一番あてになるんじゃないかい?いざとなると、会社なんて、冷たいもんだからなあ。俺なんか、そろそろ先が見えて来たせいか、この頃は、殊にそう思うんだけど。"
学生が、ヨットを漕ぐ。
"あの時分が、一番いい時だなあ。"
"そうですね、昔、河合さんもここで?"
"そう。あいつにも、あったんだねえ。あんな時代が。あの時分が、人生の花だね。"
"そうですね。"
"お父さん。"
"ああ。支度できたらしい。そろそろ行こうか?"
"ええ。"
"まあ、間違いは、仕方ないとして、なるべく早く、奥さんに来て貰うんだな。色んな事があって、段々ほんとの夫婦になるんだよ。ま、仲人に、あんまり心配させんなよ。"
"済いません。"

三石。工場の煙突から、黒い煙が上がる。
"暑いですなあ。"
"ええ。"
"東京と比べて、どうですか?"
"いやあ、東京も暑いですよ。"
"ここは、ぐるり山ですからな。ちょっとも風が来んのですわ。東京から来ると、退屈でしょう?こおまい町じゃし。"
汽車が通る。正二は、社宅に戻る。
"ただ今。"
部屋に昌子の手荷物と洋服があるのに、気付く。昌子が、現れる。
"こんちわ。"
"おう、いつ来たんだい?"
"お昼ちょいと前。"
"汽車、混まなかったか?"
"割と混んでた。でも、東京駅、早く行ったから、腰掛けられた。"
"手紙見たか?"
"見た。小野寺さんからも貰ったわ。"
"何て?"
"すぐ、三石に行けって。間違いは、お互い努力して、小さいうちに片付けろって。詰まらない事にこだわって、これ以上、不幸になるなって。"
"狭い町だぜ。"
"さっき、買い物に行って、見て来たわ。"
"ここで、2、3年、暮らすとなると、大変だよ。"
"そうね。でも、いいわよ。お互いに、気が変わって。"
"済まなかった。ほんとに済まないと、思っているんだ。"
"いいのよ。私も行けなかったの。もう、何も言わないで、いいの。"
"いや、悪かったよ。どうかしてたんだ。"
"もう、言わないで。下のおばさんに聞いたら、あんた、会社から帰ると、夜もずっとうちで、本読んでるんですってね。大変な違いね。"
"いやあ。ほかにする事ないからさ。でも、私、それ聞いた時、嬉しかった。やっぱり、来て良かったわ。"
"うん。俺も、このままじゃ、しょうがないと思ってんだ。も一遍、初めからやり直しだよ。"
"そ、私も。"
"やるよ。今度こそ。"
"そう。しっかりね。あ、行くわ、汽車。"
"うん。あれに乗ると、明日の朝、東京に着くんだな。"
"そうね。2、3年なんてすぐよ。すぐ、経っちゃうわ。"
"うん。"
【感想】
池辺良・淡島千景夫妻は、一粒種を、病で失い、新たに子をもうける意欲もない。二人の間には、殺伐とした、緊張感すら漂っている。特に、池辺は、通勤仲間に流されるが、金魚と過ちを犯し、また、淡島は、池辺から遠ざかるが、そこで、お互いを必要としている事に、気づく。夫婦の間の事は、犬も食わないのである。





以上、書きかけ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?