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一人勝手に回顧シリーズ#ヴィム・ヴェンダース編(15)#ベルリンのリュミエール/映画の発明

【映画のプロット】
▶︎フィルムが届く
少女ルーシーが語る。
1895年のベルリン。ベルリンでも、自動車は、まだ普及していない。
父の名は、マックス・スクラダノウスキー。縁日で、子ども相手に、"幻燈"を上映して、生計を立てている。語り手は、オイゲンおじさん。
操作は、エミールおじさん。一番の楽しみは、上映後の曲芸だった。
家は、家というより、工房だった。
パパは、"ビオスコープ"の研究をしていた。
何か違うなと、ルーシーは、感じた。
金がなく、ジャガイモ続きだったが、その日は、パパも叔父さんも、食事をとらなかった。
3人は、慎重に話し出し、オイゲンおじさんは、明日からサーカス団に加わると言った。
"私"は、反対して、冷静に話し合うこととした。
郵便が届く。待ち焦がれていたロールフィルムが届く。これで、おじさんを箱の中に入れて、ビオスコープで、動かすという。
パパは、屋上に上がって、おじさんを撮影する。
二回目は、オイゲンおじさんだけ。
オイゲンおじさんの旅立ちの時。"私"は、行かないでと、引き留めた。パパは、おじさんはカメラの中にいると、なだめた。
ルーシーは、勝手にカメラを開けて、フィルムをダメにする。しかし、もう一本残っていた。
おじさんは、からくりの中で、同じ動きしかせず、納得しなかった。
パパも分かっていた。おじさんの写真を手に、考えた。そして、写真の束をパラパラめくることを考え付いた。
"私''は、おじさんは、こんなに小さくないし、もっと色々の動きをすると、また話し合った。
スパイが、上の窓から覗き込んでいる。"私"は、スパイを見つけ、おじさんが追う。
パパは、改良を重ね、完成させる。寝ている"私"とエミールおじさんに向けて、画像を上映する。二人は、起きて、完成を喜ぶ。エミールおじさんは、"世紀の発明"と、興奮する。また、スパイが、窓から覗き、様子を書き留める。
▶︎現代へ
現代のベルリン、ブランデンブルク門の近く。
スパイの男が、"ビオスコープ発明者スクラダノウスキー旧宅に、梯子をかけて中を覗く。
年をとったルーシーが、撮影班に語りかけている。
パパは、パラパラ写真のタイトルを作り、何万部と売り、映画以上の売上を上げた。姉は、コンソメスープの広告のパラパラに採用された、世界初の子役スターである。
部屋に子役のルーシーが現れる。画面が、モノクロになる。
パパは、頼まれてよく学校で、幻燈を上映したが、初期のそれは、クオリティが低いもので、ガラスに一枚、一枚手書きで、絵を描いたものだった。
1892年に、映画の構想が産まれる。
ヴェンダースが"お父さんは、撮影した映画を、長く上映することができなかった"と、言葉をはさむ。老いたルーシーは、"ビオスコープ"が一台しかなかったからと、答える。2枚の写真の一枚がダメになる。これを、"間歇機構"と呼んでいた。
フィルムがない時代には、イギリス🇬🇧からセルロイドの板を取り寄せ、使った。
フィルムもそのままでは切れるので、ハトメを打った。
"ヴィンターガルテン"の演目は、直前に?と、ヴェンダースが聞く。ビアガーデンに、ダンスホールがあり、すぐに許可をくれた。当時は、電気がなく、照明はとても高価だった。撮影には、ある程度の光が必要。6月、7月が、ベストのシーズンだった。出演者は、宣伝になるので、無報酬だった。
古いアルバムのルーシーが、パパに話しかける。宣伝になるから、むかしの話をと、うながす。アルバムのスクラダノウスキーが、語りかける。
1895年は、映画が産まれた年。多くの発明家が目標と置いた。我々は、グランカフェで、リュミエール兄妹のシネマトグラフを見た。一歩及ばなかった。
夏に、ビアガーデンの庭で、撮影を開始した。兄弟に、カンガルー🦘の着ぐるみを着せて、ボクシングをさせた。当時の芸能人は、芸能を撮るなら、無報酬で応じてくれた。
カメラの前に立ったエミールは、女性に人気だった。
我々は、上映に踏み切ることとしたが、その前に、"ヴィンターガルテン"の支配人のドルン氏とバロン氏の来訪を受ける。
両氏は、壁に映る"動く写真"に驚嘆し、その場で契約を交わした。
両氏にスパイが話しかけている。エミールは、両氏の後をつける。
スパイは、両氏に、足漕ぎ式の映写機を実演してみせるが、映写機が、火を噴く。
ベルリン中にビオスコープを宣伝して、回る。電柱に広告を貼るときに目についたのが、フラー嬢の"蛇の踊り"だった。ロンドンとパリで人気を博していた。
"蛇の踊り"をカメラに収め、上映の準備を進めた。オイゲンは、曲を書き、エミールは、写真を正確に、貼り合わせた。
フィルムには、コマ送り用の穴が開いていない。自分たちで、ハトメで穴を開けた。
"女に近づくな"という警告を、エミールは、守れなかった。女に見せようとして、"蛇の踊り"のフィルムを燃やしてしまう。
エミールは、早朝に、こっそり"蛇の踊り"を撮り直す。
ヴィンターガルテンにビオスコープ登場。11月1日を迎える。
踊り子たちが、カンカンを躍る。
我々の前座の"美女切断"の舞台が進む。
老いたルーシーが言う。"『曲芸師』、カンガルーのボクシング🥊、ダンス2本"。
だが、指が震えて、フィルムを入れられない。電球が切れ、電気がつかない。
オイゲンが場つなぎに、舞台で曲芸を披露する。ドルン氏とバロン氏は、激怒する。どうにか上映を開始する。しかし、カンガルー🦘のボクシングは、使わないカンガルー🦘が逃げるシーンが差し込まれている。
上映は、成功を収める。
2か月後に、パリでの公演が予定されていたが、上映前にキャンセルになった。リュミエール兄弟のシネマトグラフは、画像は鮮明で、映写機もスムーズに動いた。
初演は、8週間早かった。富と名声は、他人のものになったが、第一号という事実は変わらない。
パパの社名の由来は、ガラス絵をスクリーンに写したことから。pia=万人のための映像。ルーシーも1本に24枚の絵に、着色した。
上映のための台本朗読会があった。一枚の絵当たり10行から12行の文章がつき、文章はパパが書いた。
パパは、立体画像も研究した。緑と赤のメガネで覗く方式。パパは写真集を販売し、緑と赤のメガネを付けた。
写真から、オイゲンが部屋にこぼれて来る。"私"は、美術学校に通い、服飾デザインと広告デザインを学んだ。
パパは、黄、赤、青の3色で撮った写真を重ね合わせると自然な色になる写真の感光剤で、特許を取った。
▶︎未知なるものへ
パパは、ガンにかかり、この家で、息を引き取った。
二人のおじ、エミールとは、祖父の遺産を巡って対立し、オイゲンは道楽者で、よく競馬に行っていた。彼は芸人で、短編映画にも出ていると言い、写真を見ながら、映画のタイトルを上げる。
幼いルーシーとオイゲンは、部屋を抜ける。
梯子をかけ、プレートを外そうとしている男を追い払う。
家の前に車が止まる。オイゲンが、杖を一振りすると馬に変わる。もう一振りすると、馬車に変わる。二人は、馬車に乗り、消える。
二人は、現代のベルリンの街を行く。
【感想】
映画が発明される創成期、リュミエール兄弟より先に上映を実現した発明家がいた事実に驚く。いま、気軽に映画を観れるのも、先人の努力があってのもの。
映画が、誕生して、130年足らず。この事実を銘記して、まだ観ぬ映画に巡り会いたい。

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