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つよがり

 夜風の匂いをかいでいる。
思い返せば、君と僕はずっと友達だった。

 君から連絡が来たのは、7月もあとわずかいう朝の7時ちょうどだった。6月の慌ただしさを越えて、ようやく休みがとれた僕は普段よりも少し遅く起きた。スマートフォンでラジオを聴きながら音の出ない掃除をしていた。朝は得意だった。

「おはよう。いま、いい?なにしてたの?」
「おはよう。劇落ちくんで洗面所擦ってたよ。」
「起きてると思ってた!劇落ちくんいいよね〜!」
「いいんっすよ、これが。まじで気持ちいい。」
「かっかっか。」
「やめろよなその笑い方。なにしてるの?」
「いまね、実家。たまたま仕事でこっち来ててね、一泊だけさせてもらってたの。久しぶりに会える?」
「あー、大丈夫だけど。」
「じゃあ、あそこでいっか。おばけの出る公衆電話の近くの、」
「ファミレスね。」
「そうそう。うち、朝はきっちり和食の家だからなんか辛くて。」
「あら、いいじゃないの。僕なんていつもコーヒーとヨーグルトだよ。」
「ぼく、」
「僕でいいでしょうが。かわいいでしょうが!」
「じゃあ30分後!くらい!」
「くらいな!OK!」

 突然の電話だというのに、あまりにも自然なやりとりに思わず笑ってしまう。洗面所の鏡に目をやると、34歳の男の顔が映る。髭の剃り跡から喉のあたりを指でなぞる。この辺が真っ白な頃に出会ったんだよなぁ。そしてスカートから伸びる君の足は、細くて、化粧をしない顔は夏だというのにいつも白く発光しているみたいだった。目も鼻も口も大きくて、強気な顔をしていた。

 普段はスーツなのだが、私服は彼女曰く、“滑らないスケーター”。なので小さなウエストバッグを背負い込み、靴を履いた。渡すものがあったのを思い出し、「あ」と、ひとりの部屋で声を出す。小さな包みを持って外に出た。エレベーターに乗ろうとすると、ちょうど女性が乗るところだったので手をパッと開いて「どぞどぞ」と声を出さずに譲る。そうすると良いのだ、女の人はたすかる、と教えてくれたのも君だった。

 通称、“おばけの出る公衆電話”の傍を通る時、息を止める。絶対にそちらを見ずに早足になる。朝だというのに。子どもの頃からの癖とは恐ろしいものだ。ファミレスに着いて、「後からもう一人来ます」と告げる。コーヒーを淹れ、外に目をやると、青白い顔をして、だるそうに歩いてくる君が見えた。相変わらずきれいだなと思ってしまう。

「おはよう。」
「おはよう。息止めてきた?」
「止めるわけないよ。もうおばけ怖くないんだから。」
「へー、大人だね〜。」
「もうおばさんだからね。」
「そしたら僕はおじさんだね。それにしてもずいぶんきれいなおばさんだよ。顔白いね。ちゃんと食ってんのか。」
ごく軽く肩にパンチを受け、その決まりきったやりとりに救われる。これまで何十回、何百回も繰り返してきた、幼い戯れだから。

 君は真剣にメニューを見ている。
「私、これにしよ。」
「ん、なに?」
「エック、」
「たまご?」
「エック、」
「早く言いなさいよ。エッグだろ。eggってgだろ。ほんとに教師?」
「えっぐべねぢくと」
滑舌の悪い君が不器用にその名前を言うので、カ行が苦手なんだよな、と言いながら笑ってしまう。
「高校の時さあ…」
「アーッ、言わないで!あれでしょ、」
「英語のおじいちゃん先生…」
「そう!そうそうそう!」
「さんてぐ…」
「さんてぐッ」
「てぐじゅ」
「てぐじゆぺり…はヒコウキ乗りだったんだねえ!でしょ?」
「一回で言えねーのかよ…ってよく真似したよな。」
「すごく失礼だけどね、めちゃくちゃ笑った。優しくていい先生だったからみんな好きだったし。」
「そうそうそう、」
「生きてんのかなー。」
「たぶんね。」
「私たちだって、もう3年?3年ぶりくらいじゃない?会うの。」
「いや、その間に一回きみんとこのおばさんにお届けものしてるからね。その時会ってるから、約1年だね。」
「大差ないでしょ、とにかく久しぶりだよね。」

 僕は3年前も、今も変わらず、のんびり一人で暮らしてる。君は今、一人だけど、実際は一人じゃないよね。心の中にはちゃんと旦那さんがいるもんな。

「 ときにKちゃんよ、これさぁ。」
「なに?」
「めちゃくちゃ…おいしかった…。」
「めちゃくちゃ食べ方汚いけどね」
「きれいじゃん。どこが汚いのよ。たまごがお皿についちゃってるだけじゃん。」
「コーヒーのおかわりは?」
「もらう。なんでおばけ怖くないのって聞かないの?」
「ハーイ、もってくる。聞かないよ。別に聞きたくないし。怖いし。」
「ふぅん。臆病だもんね、 Kは、」
「いいね、その冷たい目!美人にののしられると嬉しくなっちゃうなぁ。」
「ばかじゃないの。うるさいよ。生徒の親に見られたらどうすんのよ。」
お互い慣れた軽口と冗談で笑い合う。

 さっきは、なんで公衆電話の話したんだよ、と自分のことを呪った。でもまあ、子どもの頃からよく通ってきた場所だし。ふざけ合ってるこの空気が好きだから、離れられないんだよな。

 旧い友人たちの間では甘えん坊みたいな役回りになってるけど、職場では中堅。そこそこ評価もあるんだぜ、なんて冗談めかして言うと、「わかってる。ちゃんとわかってるよ Kちゃん。」なんて言う。子どもの頃からずっとそんなだからさ。調子が狂う。

彼女は高校の社会科の教員だ。今日だって、仕事で帰って来てたわけじゃないんだろう?働き方改革、とか言って有休の取りやすい日におばさんとこに帰ってきて。それから、理科の教員だった旦那さんの実家に寄って、それから……全部わかってるんだよ。

 3年前、通夜の席で気丈に振る舞う君のこと、とても見ていられなかったよ。僕はすごく泣いたけど、お前がそんなに泣いてどうするんだよってみんなに言わせて、すっかり痩せた君のこと誰にも見られたくなかったな。

 おばさんとこに届けものをしたとき、交わした会話はこんなものだった。
「ほんと、色々とありがとね。何聞いてもいいんだよ。気にすることないじゃん。いやそっちが気にしちゃうか。」
「写真が趣味だったんだよな。旦那さん。」
「うん、そう。」
「本当に残念だったね。何もしてやれないけど、帰ってきたら連絡くれよな。」
「んーまあ、あの日も撮影の帰り道、だったんだけどね〜。年の瀬で、路面が凍結してたんだよね。あ、そうだ、天文台にその日の写真、飾ってあるから、今度みてみてよ。ね。」
「わかった。見る。」

 学校の先生同士の結婚って結構あるんだろ?よく聞くし、君たちもそうだったから。はじめ、知らせを聞いた時は驚いたよ。こんなに早く誰かのものになっちゃうなんて思ってなかったし。いや、誰かのものなんて言ってるの聞かれたら、君に叱られちゃうよな。ちゃんと、自立した一人の人間同士がするものなんだよ、なんて。君はいつも強気だけど、本当は知ってる誰よりも優しい女の子なんだ。今朝だってどうせ眠れなくてずっと起きてたくせに、7時過ぎてからやっと僕に連絡できると思ったんだろ。

 お互い、恋とかそういうものを知りはじめた時は頭がおかしくなってたから、部屋でこそこそ話したりキスしたりもしたよな。僕らはずっと、友達のままで。ゲラゲラ笑ったりして。

あの時、笑わないでいたら。真剣になれたら何か変わっていたのかな。もしも、とか、あの時こうしていたら、みたいなのってずるいよな。

 早めの朝食をとったあと、2人で天文台に行った。
 壁には、暗い海辺に灯りが散らばった写真があった。それから星も映っていたようだった。君は目がすごく悪い。目を細めるというよりも、なかば睨むような顔でじっと写真を見ていた。
「タイトルはね、月、金星の接近と灯浮標。」
 声色を変えてなにかを読み上げているようだった。
「12月の末、展望台に月と金星の接近を撮影に行きました。到着したときはよく見えましたが、すぐ雲がかかり、薄雲を通しての撮影です。筏の向こうに小さな灯りがいくつも見えました。航路を示す灯浮標でした。2019.12.29 18:19 D810A  24-85mm f5.6 85mm ISO1500  」
「ほう。」
「キャプションに、そう書いてある」
「これは誰が書いたの?」
「だんなさん。」
「そりゃそうか。どこに残してたの?」
「野帳。」
「やちょーって小さいメモみたいなやつか。」
「そう。これにいろんなこと記録するのよ。カメラと、あったかいお茶の水筒と、鞄に入ってた野帳にこの撮影の記録。それだけ。」
「うん。」
「それしか残してくれなかったんだよね。死ぬとは思わないじゃない、誰でも。しかたないんだけどね。うん。しかたない。でも搬送された時、私が淹れたお茶がまだ温かくて、中身が少し減ってた。飲んでたんだよね、きっと。」
 キャプションの小さな字を見つめる君から涙なのか洟なのかわからない水が流れていく。僕は、ああ、早く受け止めないと君がまた減ってしまうな、どんどん減ってしまうな、なんて思った。
「寒い中の撮影で、飲んだんだな。温かいお茶。」

 君はあんまり、夜にものを食べないというので、喫茶店で軽食だけとって駅まで歩いた。
「この後、うちにくる?」
 僕は自分でも驚くような言葉を口にした。
「行ってどうするの。」
「さあ?わからないけど、中学生の頃の続き、とか?」
「ばっかじゃないの。」
「えー、今日だけ〜。」
「今日だけだよ!モノポリーするだけだからね!」
「それはどうかな〜?へへへ。」

 稚拙だけど、僕ならなぐさめられると思うよ。でも、きっと、旦那さんには一生かなわないな。あまりにロマンティックで、あまりに優しい人だと思うから。

 結局、モノポリーはしなかった。家を出る時に持ったくるみっこを2人で食べて、ごく簡単に日東紅茶を飲んだ。眠る前に一度だけ抱き合ってみる?ということになって、それから軽く口づけて、君はため息をついたんだ。身体から空気が抜けていくみたいなため息だったね。

 もう、僕らは夜に会うことはない。夜は大切なものだから。なにを見ても、なにを聴いても誰かを思い出す。そういう恋を、これからもずっと、お互いしていかなければならないのだから。

「また朝食に付き合うよ〜。」
「またあれ食べる。エック、」
「まじでカ行苦手だよな。」
「そうなんだよね。」

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