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あじさい


「お昼頃に着く予定です。小雨が降っているから、濡れないところで待っていてくださいね。こぬか雨っていうのかな、こういうの。」
 黄緑色の画面が目に眩しく映る。こぬか雨。と口の中でつぶやいてみる。小糠とはあの糠のことだろうか。普段は使わない言葉も、好きな友人が語りかけてくる、と思うと身体へ浸透するのがなんとなく早いような気がする。
 あの人。この、人。今は小さな画面の中にいて、小さく光っている。大人になってからの友だち。

「了解です。今日は暑くも寒くもなくてとても気持ちがいいですね。なんとなく緊張してきました(笑)」

「あはは。たしかに。ずっとおしゃべりしてきたけど、あ、ほんとに実体があったんだな〜と。」

「実体、ありますよ。あ、今日はスタンドバイミーのゴーディみたいなボーダーのシャツに三つ編みしてます。」

「おー三つ編み」

「へへ、もういい歳なんですけれどもね(笑)」

私たちのラジオスターであるWの言い方を思わず真似て茶化す。6月も終わりだというのにとても涼しく、湿度を優しく感じる日だった。現地集合で、Sというオーストラリアの画家の企画展を観ようということになっているのだった。元はと言えば彼の作品を日本語に翻訳している翻訳家がとてもユニークで好きだった。そして、Sの絵も好きになった。動物や、異形のものたちが多く登場する彼の作品は寓話のようであり、またいつ目の前に現れてもおかしくはないほど、現実の世界に溶け込んでいるのだった。床からヌッと顔を出して喋るオウム。画面いっぱいの蝶の大群。光を放つ丸々と太った魚を抱く人の絵。

友人はすぐに現れた。実体があったんだ、と私もあらためて思う。
木製のカウンターの受付でチケットを購入して、企画展への階段を登る。ロングスカートを履いているので足さばきが悪い。
「うおおお、ごめんなさい。こけそうだ。」
「いえ、気をつけて。ゆっくり。三つ編みかわいいね。」
「ひええ、サブリミナル的に言うのやめてよ。年齢的にアウトかなって思ったけど、まあいいよね。」
「いいです。」

 ただひたすらに、胸が痛い。変な感じにならないように努める。変な感じ、というのはつまり目の奥を見過ぎない、とか、腕が触れないようにする、とかそういう小さなことだ。お互いに十分大人で、異性の友人なのだから。この人と自分が長く友人でいるためには不断の努力が必要なのだ。おもに、私の方の。

 小さな美術館はいい。注目されている画家だから集客はそれなりにあるのだが、みな落ち着いた雰囲気を保っている。
 落ち合った瞬間の緊張感は次第に薄れ、この絵がいい感じだの、これすごくかっこいいな〜、なんでこんなに光って見えるの?などと、お互い興奮しながら眺める。

「なにかを観るっていうのはいいね。」
「うん、観るのは、いい。」

常設展では美術館の名のとおりの画家であり、絵本作家であるCの作品を観た。

「思い出したけど、子どもの頃家族と来たことがありました。」
「比較的、ご実家から近いですもんね。」
「近いからこそ普段は足が向かないってあるよね。」
「それはありますね。」
「また来ようかな、この雰囲気ならちょっと落ち着きたい時とか良さそう。」
「いいなあ、近くの人は。」
「また来てくださいよ。」
「うん。」

目の奥がじんわりと滲むような熱っぽい感じになり、絵を観ているのかなんなのかわからない瞬間が増えてきた。これではいけない。そう思ううち、一つの絵の前で立ち止まる。

「ウワッ!これ!」
「んー?」
「これは、すごく好きなお話の、絵です。絵があるのはじめて知った。しびれるなあ。」
「ほお。」
「すごく暗い話です。」
「ほお。」
「でもすごく好きな話です。目の見えない弟くんと、美しい姉が出てくる物語なんだけど。この世界と並行して、もう一つの世界があってね、それで…。あっ、なんかこういう話ドラえもんにもありますよね?」
「あるある。あと、ロロの舞台にも。」
「そうでしたそうでした。好きなものはみんな繋がっているからやっぱり好きになっちゃうんだ。」
「うんうん。」
「喋り過ぎましたね。」
「全然大丈夫です。」
「大丈夫かなあ。」

おなかがすいたので、何か食べようということになり、静かな住宅街をゆっくりと歩いた。気温は先ほどよりもやや上がり、沿道のあじさいの露に陽が当たってひどくきらめいている。ああ、だめだと思う。今日はあまりに美しいものが用意されすぎていて、逃れられないような予感がしていた。古いけれどもよく磨かれている洋食店で昼食をとる。水がおいしい。何を食べてもおいしかった。天井から無理矢理に木と紐で伸ばされた棚の上にはテレビがあり、モヤさまが放送されていた。食べながらひどく笑う。

「うへえ。おなかがぱんぱん。」
「少食?」
「まさかあ。そのあたりの成人男性の倍は食べられます。」
「どうして今日は食べられないの?僕も今日はちょっと入らないけど。緊張してるのかな、はは。でも、おいしいね、ここ。」


「ほんとうは、食べ物残すの大嫌い。もったいない。ごめんなさい。でもね、これは最初からすごく盛られてますよ?あとこのワンピース、後ろで締め上げてるから苦しくて。」

友人。
友人?
あなたは、にっこりとほほえむ。
友人?だれ?この目の前にいる人は。誰なんだろう。やたら目の中の色が薄くて、姿勢の良すぎるこの男は。

「お会計、お願いします。」
「あ、別で〜。別でお願いします〜。」
財布から、お釣りの出ないちょうどの額を揃えてトレイに置こうとしたところで、手の甲を自分のものでない手で包まれる。しっとりとした、白い手で。そのまま静止し、またゆっくりと手は下に送られる。無言のまま、しまう。
「今日はいいですから。ね。」
「うう、かたじけない。ごちそうさまでした。甘いものはわたしがごちそうします。」
「いいえ。っていうかさ、甘いものも食べるの?おなかいっぱいなのに!」
「食べるぞー!というか本当はコーヒーだけでもいいくらい。おなかぱんぱん。」
「うーん、どこがいいかな。調べてみよう。いつも行ってるところはちょっと距離があるんだよね。」
「土地勘がまるでないから、お任せしちゃうけど、いいですか。」
「はい、もちろん。」
「あじさいが咲いてるね。」
「ちょうどいい季節だね。ええい、もういいや。甘いもののこともちゃんと考えながら、ぼくんちのほうに行こう。」

 ちゃんと考えながらってなんだよ、と思う。本当にちゃんと考えなさいよ。

「おや?」
「ん?」
「なんかいい匂いがする。」
「ん?なんだろう。」
「なんだろう、花のような?でもちょっとスパイシーな…」 
「あっ、これだこれだ。嗅いでみたいなって言ってたよね。袋にちょっとだけ詰めて持ってきたの。」
「ここからかあ!わざわざごめんなさい。」
「いえいえ。」
「いい匂い。すごく。」
「ぼくはこのポプリを買い続けるために仕事をしていると言ってもいいでしょうね。」
「ふふふ。それブログにも書いてましたね。」
「そう。」
「あっ、いつも読んでまあす。」
「恥ずかしいからヤメテヨ。」
「ふふふ。」

 馬鹿なので、もっと馬鹿になって笑う。
 何も考えずとも、足は勝手に歩みを進める。緩やかな坂道を転がる茶色い小瓶のように、たわいもない会話はのろのろと続いて、私たちは立ち止まることができない。
 電車の中で小さく横一列になり、揺られていると、幼い男の子を二人連れた若い父親がいた。大きなリュックを背負い、両手は子どもで塞がっている。慌てて立ち上がり、声をかけて座ってもらう。友人は出遅れ、目を細め小首を傾げている。目がとても悪いのだ。こっちこっちと手招きをする。状況に気づいた友人はヨロヨロと入り口付近のバーがある場所までやってくる。目がω(オメガ)を縦にしたような、数字の3を鏡文字にしたようになっている。(いわゆる勉三さんなのだが)私たちは横並びから、向かい合うような形になった。バーを掴む腕が白くて太い。その肘から手のひらまでのふくらみを指で強く押してみる。
「いててて。」
「何かスポーツやってた?」
「やってません。」
「なぜこんなにがっしりしているの?」
「わかりません。不器用でいつも身体に力が入ってるからじゃない?」
「そうかぁ。」

 電車が止まり、私たちは吐き出される。
 学生時代のことや、近所の愛すべき町中華の話、共通の友人夫妻の話などをしながら、歩く。ほんの少し暑さを感じ、額に汗が滲む。なぜこんなに歩くのだろう。喫茶店の話はどうなったのだろう。
「なんていうか、もう、こんな、」
手を開いて中央から大きな楕円を描く。
「ほう。」
「こーんな、」
「大きい…」
「フルーツパフェが食べたいです。」
「ヨシッッ」
「はは」
「探します!」
「お願いします!」
「その前にまだちょっと早いからうちに寄りますかね。」
「ヒョエ〜」
「へへ」
「なんだか申し訳ないですね。急に来てお邪魔するなんてことは。どんな本があるんだろう?すごく楽しみです。お家もこの匂いがしますか?」
「しますよ。本も、色々ありますよ。」
「ヒョエ〜」
「読んでも、いいですよ。」

 読んでもいいですよ、がまったく別の言葉に聞こえる。何がいいのだろうか。花のような匂いをさせて。       (続く?)






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