「自転車に乗れるうち」…401日目
昔の「仲間」のひとりと再会、過去にひと区切り、未来へ
最近、10年ほど前に一緒にかなり長い時間を過ごした「仲間」のひとりと逢い、お茶をしながら、共に懐かしい昔やお互いの今、これからをぼーっと話した。逢いたい人だったし、いい時間だった。
互いの人生は違う方を向いており、時間・空間の流れは相当異なり、さいかさいか。互いの生活、家族のもとへ。過去の「仲間」とはそんなものだろう。「仲間」の他のメンバーの大半とは逢いたいとは思わない、それでいいのだ。
一抹の寂しさは否定できないが、また、ある一つの「過去」にひとつの「区切り」がついた、過去は戻らない、未来を向いていこうと思えるきっかけとなった、ありがとう、その人。
「自分に不要な、こちらの人生を邪魔する人間」は切り捨てていく
その人は自分よりかなり若いのだが、人生のある時点で目標を明確に定め、そのために動き、それなりの「成果」を手にした。それは自分がなしえなかったこと。年齢が近ければ「嫉妬」するかもしれないが、離れていて「頑張れ~」と言える立場なのは、楽だ。
人間、状況の近い人間に嫉妬して苦しみ、あるいは見下す。
その人に「嫉妬」しなくてすむのも、結局、巡り合わせなのだろう。
にしても、その人と今回会ったことで、自分はある過去の一時、ある人間を「自分にとって不要な人間」として切り捨てることができずに、時間を無駄に使ったことを思い出した。いや、その時は不要でなかったが、一般的に考えると、「無駄」であったと、振り返る今は思う。
自分は「自分に不要な人間、むしろこちらの人生を邪魔する人間」を切り捨てることがこれまでできなかった。これからは、切り捨てよう。
では、人生、この先どうするか。
決してバラ色ではない。自分でバラ色に変えていくしかない。
めんどいなあ。結局は老いていくのだ。と、つらつら思う時も少なくない。
老いていく未来の「自転車に乗れるうち」
そんな時、自転車に乗っていて、老いていくこの先の未来、「自転車に乗れるうち」というひとつの区切りたる「期間」がある、とふと思う。
最も感じる瞬間、それは、住宅街にある、歩道のない車道の左側を走行し、後方から近づく自動車のエンジン音に気づいたとき(ああ、まだ気づけるぞ)。この際はあえて首を右にねじって後ろを気にするようにし、自動車に「あなたの接近を感知してます」的合図を送っている(つもり)。
ほかにもいくつかある。
交通量の多い幹線道路で車道の左端を走行し、右側に自動車が近づくとき(怖い)。よくあるのは路上駐車への遭遇、やむを得ず自動車の右側に出て、後方から来る別の自動車にはねられないかひやひやするとき(怖い)。
交差点や脇道で、止まらずにグイッと曲がってくる自転車(電動アシストが結構多い)。無灯火の自転車、逆走行の自転車(怖い)。
自分が歩道上で自転車を走らせ(幹線道路を走るのが危険な際など)、歩行者の邪魔や危険になっているのではないかと感じるとき(反省)。
少し前までは膝の調子が悪く、上り坂は難渋した。最近は膝も良好で、平らな道を走っているから、あまり問題はないが。
健全な目、耳、足腰がそろって初めて自転車を乗りこなせるのだ。
また、対自動車・バイクでは容易に被害者となり得る無防備な身体をさらけ出していることを痛感する(逆に対人間では凶器となり得、自転車同士では互いに凶器にも)。
このため、必ず自転車用ヘルメット又は「もどき」を入れた帽子をかぶっている。髪が乱れるが、安心には変えられない。ヘルメット着用は努力義務。ヘルメットだけだと、さらした顔や首が日焼けしまくりなので、帽子(中にやや硬い頭型が入ってるタイプ)も許してくれ。
ながらスマホはしない。
とにかく自分の身を守り、相手に危害を加えないよう、行動する。
後に続く「自分の脚で歩けるうち」
……でも、そのうち、心身ともに判断能力が衰え、そんな注意も払えなくなってきたら、「自転車に乗れるうち」は終わりだ。自転車に乗っていて転倒・骨折のパターンも少なくないが、できれば、自分で「終わり」は決めたい。
その「自転車に乗れるうち」の後は「自分の脚で歩けるうち」という期間が待っている。おそらく、そうやって人生は続く、病気や不慮の事故・事件に見舞われない限り。めんどいけど、続く。
どうせ続くなら、自分でバラ色に。めんどいけど。
皆さまのご健康を。
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