ゴッキンゲルゲル・ゴキ博士の知らんけど日記 その10:回顧録Ⅰ「固定電話」

 今は皆、携帯電話やスマホを持っているが、それらが出現する以前は固定電話であった。固定電話は、私が幼少の頃より徐々に普及し始めた。電話を使えば離れた人と話しができる。糸電話で遊んでいた頃も楽しかった。魔法のようだった。理科大好き少年だった私は、理屈は一応わかってはいたが、理屈がわかったからと言って不思議さが減じるわけではない。「共時性」について知っていても、実際にそれが起こるとドキッとする。似たようなものだ。
 固定電話に戻ると、遠方の親戚と話ができたりする。これがもう不思議で楽しくて。だけど、当時は電話料金がすごく高かったので、親によく叱られた。今もその不思議さは、キチンと残っており、日々不思議と喜びと楽しさを味わいつつ、今は携帯電話を使っている。私は電話魔。相手はいやがっているだろうが、電話を一度もかけない日はあまりない。

 固定電話の時代は窮屈であった。何しろ会話の内容を家族に知られてしまう。大昔にさかのぼり、私が高校生だった時のある日、勇気を振り絞って意中の女の子に電話した。お母さんが出た。「○○さんはいますか?」○○さんに取り次いでくれた。「今度の日曜日、映画を見に行かん?」とひっくり返った声を頭のてっぺんから出した。もうその一言だけで、いっぱい、いっぱい。返ってきた答えは「その日は、おばあちゃんのお葬式だから・・・」。よりによって葬式?!こんな間の悪いことが起こり得るのか。呪われていたに違いない。あまりの運の悪さに、心はガラガラと崩れ落ちた。それなら、「じゃあ、その次の日曜日は?」とかと、話をつなげばよさそうなものだが、何しろ呼吸困難な状態なので、頭がまわらず、そのまま電話は終了となった。その子の声の調子からして脈はあった、知らんけど。まあ、アホなのだろう。いくらアップアップとは言え、その程度の機転もきかぬとは。今思い出しても悔しい。おまけに、そのやり取りを家族に聞かれている。ほとんど喜劇。

 時は過ぎて数十年後。朝起きると妻が「昨夜10時頃、河合先生から電話があったよ」。私はギョッとして「どんな電話だ」と聞くと、「知らない。主人はもう休んでおります、と答えた」とのこと。血の気が引いた。確かに私は睡眠を大切にする。電話も取り次ぐなとは言っていた。だが、時と場合によるだろう。河合隼雄先生を私がどれだけ尊敬しているか妻はよく知っている。河合先生に、電話とは言え、門前払いを喰らわすとは、私の想像を超えたバカだ。まだ夜の10時、私をたたき起こすべきであったことは明白だ。
話は変わるが、それにさかのぼること数年前、妻を同伴し河合先生とお会いした。河合先生が冗談をおっしゃったとき、「やだ、先生」とか言って、あろうことか河合隼雄をたたいた!仰天した。河合先生をたたく?正確には、はたいただけなのだが、私の心理的現実として「どついた」ように見えた。こんな女だから、何をしでかしても驚く方が悪い。よく言っても悪く言っても物事に動じない。だから何を言っても無駄である。そこのあたりを巡って、飽きもせず喧嘩を何十年も続けている。

 先ほどの電話の話に戻る。私は、内面が妻と違いかなり繊細。朝の7時に河合先生がまた電話をくださるとのことだったので、電話の前で正座をして待っていると、7時を少し過ぎた頃に電話が鳴った。受話器に飛びついて「昨夜は、大変大変失礼いたしました!」と深々と頭を下げながら謝ると、先生は少し冗談を言われた後、用件を伝えてくださった。先生がそんなことで怒るような小物でないことは重々承知しているが、こちらは小心者。今思い出しても冷や汗が出る。

 劇作家で演出家の平田オリザ先生が「携帯電話ができてから、フィックションをつくりづらくなった」旨のことをおっしゃっていたが、さもありなん。固定電話の時の方が「物語」が生まれやすかった。電話以前の時代には、もっともっと「物語」が豊かに存在していたのかも知れない。世の中が便利になってくれるのは有り難いことであるが、「物語」がその分、萎(しぼ)んでしまったのではないか。だから、われわれは、それでも新たに産み出される「物語」を大切に扱わなければならない。「物語」受難のこの時代をどのようにしてわれわれは生きていくべきか。過去には、味わいきれぬほどの物語群がある。それらを味わうだけでも、人生が百あっても足りない。それだけわれわれは物語に恵まれているとも言える。が、しかし、リアルタイムで産み出される物語への渇望は根強くある。新しい物語を常に人は欲している。

 例えば、『ハケンの品格』(2020)の最終回で、大前春子(篠原涼子)が、社内でいきなり唐突に「ドーン!」と大声で叫んだ。

東海林武(大泉洋):「ドーンって、なんなんだよ、おまえは、いっつもよ」
大前:「どんよりした空気を一掃しただけですが、何か」
東海林:「殺す気か、心臓止まるわ」
東海林の胸にそっと手を当てる大前春子。
大前:「ちゃんと動いてるんですね。チッ(舌打ち)」
東海林:「おまえな、人の心臓が動いてること確認して舌打ちしてんじゃねえよ」

 私も、「主人は休んでおります」の時も、河合先生を「どついた」時も、心臓が止まるかと思った。東海林さんの気分。こんな感じだった。
 この「ドーン!」は新しい。新鮮だった。最終回は、なかなか秀逸なできであった。このシーンが本当に新しいかどうか、すべての物語に目を通しているわけではないので知らんけど、少なくとも私にとっては楽しかった。笑えた。笑えること、笑ってもらえること以上のことはそうそうない。


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