“もっと楽に生きたらいい”と言う呪いの言葉


言葉って使い方によっては凶器になるんですよ。って言う話は再三してるんですけど、この言葉も本当にそう。


私は23、24歳頃まで、言ってくれるうちが花だ。と言う言葉を素直に受け止めまくっていました。


けれど年齢を重ねるうちに全てがそうではないかもしれない。と気づくのです。


どう言うことかと言えば、つまりは、「あなたのためを思っていっている」は、「私から見たあなたはこうであってほしい」の願望でしかないという事。


人って見たいように見るんですよね。


例えばですけど、ヨガの先生イコール酒もタバコもしない。(出来ればそうであってほしい)みたいなね。



タイトル通りですけど、例えば誰かにもっと楽に生きていいんだよ。と言われるとします。


私は私なりに楽にやってるんで。それはあなたから見た私であって、、、、ゴニョゴニョとしたくなるわけですよ。




楽に生きていいんだよ。って何



果たして誰なのでしょう。




まあこれについて、なぜ私が若干の憤りを感じているかと言えば物事を聞いたり話したりするときのスタンスによるのではないかと思いました。



もっと分かりやすく言えば、




こちらがアドバイスを求めていないのに、アドバイスをしてくる感じ



鬱陶しいでしょそれって。



今話している内容もそうで、私自身、生きるのが辛くて仕方ない、どうやったらいいんだ。の解答が「もっと楽に生きていいんだよ。」であれば、ほう。確かに。となるかもしれません。


しかし、今楽に生きれているけれど、生きていると色々あるよね。って話をしていただけなのになぁ。



と、いう事なんです。


30歳手間になってよくわかる事なんですが、力の抜き具合がまあ上手くなったなぁと。


実際20代前は頑張れたし、頑張ることしかできなかったし、とにかく出来ることを精一杯やるしかなかった。


それが、「私」だったから。


やってない自分が許せなくて、出来てない他人も同じよう許せなかった。



でも、それでよかったのだと思うんですね。



あのときああやって踏ん張ったから今、力を抜くことができる。



緊張と弛緩です。


でまあ、話だいぶ逸れちゃったんですが、言葉の使い方、気をつけたいね。


相手のことを思っていう、ってのはもしかしたら自分が言いたいから言ってるだけかもしれない。


その言葉でもしかしたら誰かはグッと心に突き刺さってしまってるかもしれない。


その場で傷ついた、と言えずに長い時間、悩むかもしれない。


いろんな“カモ”を想定して丁寧に扱っていきたいね。



それでは良い一週間を!

あなたのサポートで私の未来が救われます。 大げさ大好きです。