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再会

母がピアノの先生をしていたので、ピアノは主に母から習った。

自分から習いたいと言った覚えはない。4歳くらいのある雨の日、何の前触れもなく連れて行かれた高齢の男の先生のお宅でピアノのおけいこが始まった。ただただ怖かった。

それほど長く通うことはなく、その後は自宅で母から習うことになった。怖い男の先生から解放されたことに満足して、ピアノを習うことそのものには無自覚なままピアノの前に座った。

12歳でピアノをやめるまで、身近に師がいることのありがたみに全く気づくことなく、真正面からピアノに向き合うことなく、ただただ時間が過ぎていった。

そんな調子だから、たいして弾けるようにはならなかった。ソナチネに進んだあたりで、もう楽譜を読むのが億劫で仕方なかった。耳だけはよかったから、先に耳で覚えたらあとは楽譜はろくに見ずに弾いていた。

自宅に通ってくる生徒さんも、学校の友達も、自分の周りには上手に弾ける子たちが何人もいた。悔しいなと思う反面、練習していない自分がかなうはずもなく、別に弾けるようにならなくてもいいのではないかと拗ねていた。

どこかしら母に申し訳ない気持ちはあったけれど、そんな気持ちをうまく言葉にできるはずもなく、親子で師弟関係なんてない方が気楽だと思ってピアノはやめた。母にピアノはもうやりたくないと告げることがつらくて、ずるずると続けてきてしまったけれど、もうごまかせなくなった。

ピアノの音色も、ピアノの曲も、大好きだけれど、自分とピアノの関係にはあまりいい思い出はない。


そんなピアノと、ほぼ30年ぶりの再会。

近所に住む姪(5歳)が音楽教室に通いはじめたのをきっかけにピアノを買ってもらった。空いているときはいつでも使っていいよ、という。文字通り、再び出会った。

ピアノはすました現代風の顔をして目の前に現れ、かつての軋轢など何も知らないふうで、そこにすとんと腰を下ろした。

身近にピアノがあるのは見慣れた光景だ。つややかな鍵盤に振れればなつかしい重みと、透き通ったりくぐもったりする音。

もう一度やり直せるかもしれない。
くったくもなく音が鳴る様子に、心が踊った。


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