第二章:戦前夜
桜の花の季節も終わり、夏の訪れが感じられるようになった頃合いであった。
一つの知らせが、柳原家にもたらされた。
「柳原家当主を、鎌倉の北に位置する田畑一円の地頭に任ずる」
これには明記の父はもちろん、一族郎党が諸手を挙げて喜んだ。
父は宴を開き、その場でこう、子供たちに告げた。
「父はこれより地頭となるが、父が治める土地は、ゆくゆくは子供たち皆で分けることとなる。皆、仲良く健やかに育て」
この酒宴の席には、当然のように銘信も参列していたが、この時銘信の脳裏には、お菊と夫婦となることも先々の思いとしては浮かんでいた。
口に出してこそ皆言わなかったが、お菊と銘信の仲は、それは親密なものだったのである。
ところが、この二人の間を割く出来事が起こる。
きっかけは、銘信の見事な舞の噂が、時の権力者である北条義時の耳に入ったことだった。
義時は、その噂を耳にするや、ぜひとも一目見てみたい、とこぼした。
その命はすぐさま家臣に伝わり、そのうちの一人が、銘信の元へと赴いた。
銘信は柳原家に厄介になっている身であるから、話はまず柳原家当主の元へともたらされた。
明記の父は、話を聞くなり、「これは、よい話じゃ」と膝を打った。
そうして銘信に支度をさせ、ついでに、娘のお菊を小奇麗に飾り、義時が催す酒の席へと参らせたのだった。
父の算段はこうだった。
時の権力者である北条義時が、酒の席で偶然にも銘信の側に付き従っているお菊を見初める。
義時と血縁関係にでもなれば、柳原家の格は大いに上がる。
そのための、仕込みであった。
果たして、小奇麗に着飾ったお菊のことを綺麗だとは思うもののそれ以上に頭の働かない銘信に至っては、義時の前で一世一代の舞を披露したのであった。
「これは、見事」
義時は大いに喜んだ。
下々の者にまで酒をすすめ、城内で酔わぬ者はいなかった。
そんな中で、義時の近臣に、武田信光という者がいた。
筋骨隆々の肉体を誇る武闘派で、家臣団の中でも出世頭であった。
その信光が、お菊に目を止めたのである。
「やぁやぁ、今宵は酒の力もあって、女子との縁も良いらしい」
そう言って信光は、お菊を傍に呼び寄せた。
気が気でない銘信は、しかし舞手の身であるため何もできない。
「あ、いや、おやめくださいませ」
お菊も身をよじって拒むが、信光の誘いは強引であった。
やがて信光の指先にまで酒がまわり、その手はお菊の胸元にまで届いた。
「信光様、いや」
お菊は突っぱねたが、信光の手は、お菊の胸を力強く揉みしだいたのであった。
信光の手は、さらにお菊の奥にまで届く。
その時であった。
「それでは、これにて下がらせていただきます」
銘信が場内で声高に告げた。
銘信は、衣服の乱れたお菊の手を取って足早に義時の館を後にした。
「痛い、離して」
ぎゅっとつかまれた腕を振りほどき、お菊はその場に立ち止まった。
月の光が足元の草の影までくっきりと形を浮かび上がらせる、そんな夜であった。
「なんじゃ、信光様にまんざらでもない顔をしおって」
乱れた胸元をかき合わせているお菊に向かって、銘信は振り向きざまに言った。
「なんですって、私が望んであの場にいたとでもおっしゃるの」
お菊の目が、きっと銘信をにらむ。
「信光さまが今宵のことを明日まで覚えておられたら、お前はどうする」
銘信はそう言って眉をつり上げた。
「そんなこと、分かりません。私には、拒むことはできないのですから」
お菊は声を張り上げる。
足元からあがってくる湿気が、夏の訪れを知らせている。
「お前がそんな気弱でどうする。こう、御父上にすがってみるなどしてはどうか」
「父上にそのような話などすれば、満面の笑みを見せて喜ぶに決まっています」
お菊は涙声である。
「もしや、殿様が」
銘信は、明記の父の算段に今更ながら気が付いた。
「お、お前の気持ちはどうなのだ」
銘信は、いまいちどお菊の手をとって乞うように言う。
「私の気持ちなぞ――」
そうまで言って、お菊は袖を顔にやり泣き出してしまった。
それから二人は何も言わず語らず、柳原家の屋敷まで無言で帰ったのであった。
さて、この頃、北条義時は東日本を牛耳る新たな権力者として、全国の武士をまとめつつあった。
それを面白く思わなかったのは、朝廷の頂点に立ち権勢を誇る、後鳥羽上皇であった。
そのうち巷では、後鳥羽上皇が義時討伐の院宣(命令)を下したとの噂が立った。
その噂はやがて、現実のものとなった。
夏の日差しがいたく照り付ける頃となって、北条義時は、かねてより捕らえていた後鳥羽上皇の家来に対し、宣戦布告の文を持たせて京へ帰らせた。
ここに、後の世に言う「承久の乱」が勃発したのである。
戦が始まる――それも、天下分け目の大戦である。
知らせはすぐに鎌倉中に広まった。
父からその知らせを聞いた明記は、その席でこう言ってみせた。
「父上、ここで武功をあげれば、我が家の格が更に上がりますな」
そうして明記はその日のうちに鎧兜を揃え、武芸の訓練に更なる精を出し始めた。
そんな息子の姿を、父は、目を細めて頼もし気に見やるのであった。
戦が始まった。
関東一円の武士団には、何月何日にどの場所にどれほどの兵を率いて集まるようにと逐一命が下った。
武田信光にも、出陣の命が下っていた。
ここへきて、信光は、これまでにないほど猛っていた。
戦に赴くのは初めてではなかったが、今回は朝廷の長を相手として日本を二分する大戦である。
信光は、猛々しい気勢そのままに、出陣前夜、柳原の館に忍び入り、強引にお菊を抱いた。
その夜も、月明りの鮮やかな夜であった。
銘信は館の片隅で何やら物音が激しく聞こえるのに気が付いて、そちらの方へ足を向けた。
果たして、銘信がその場で見知ったものは、お菊が武田信光に組み敷かれている場面であった。
銘信は恐れおののいた。
そうしてその場をそっと抜け出て、元いた自分の部屋へと戻ると、縁側から庭に降りて、素足のまま土の上で舞を舞い始めたのだった。
寄る辺なきこの心を、どうにか鎮めたいとの願いをこめた、銘信渾身の舞であった。
その舞を見る者は月以外に何もなく、叫ぶお菊の声を聞きかけつける者も、もはやいないのであった。