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終章:落命

武田信光の五万騎の軍勢は、大井戸という地で朝廷側の兵とかち合った。
信光の下に位置する家臣団の一つを任されていた明記の父は、息子である明記と共に今か今かと刃を交えるその時を待っていた。
「大将首は私が取ります故、父上は引っ込んでいてくだされ」
明記は馬上で、そう父に言い放った。
足元では弥助が、かっかと笑っていた。
それから何日過ぎたであろうか、そんな明記の意気もしぼみかけていた頃のことであった。
明記たちのいる軍団の先頭の方が、にわかに騒がしくなった。
雨の上がった明け方、まだ日の登らない、そんな時分のことである。
霞たなびく陣営の内にあって、父は明記を叩き起こした。
「明記、大将首を取って参れ」
馬に飛び乗るや、父はそう明記に言い渡した。
「はっ」
明記は弥助を引き連れ、軍勢の中へ消えていった。
それから間もなく、戦場は敵味方入り乱れての打ち合いへと発展した。
明記は弥助と共に大将首を狙い、明記の父は、その後方支援に回っていた。
そんなところへ、誰が射ったか、頭上から矢が飛んできた。
それに気づいたものは、明記の他に数名しかいなかった。
飛んできた方向は敵方。
明記は嫌な予感がして背後を振り返った。
すると、五馬身ほど離れた場所にいた父の首元に、一本の矢が突き刺さっていたのであった。
「父上!」
明記は馬を返し父親の元へと駆け寄った。
そんな明記に気づき、弥助が後を追う。
明記が父親の元へとたどり着く間に、父は馬上から落ちてぬかるみに半身を沈めていた。
その顔色は青白く、呼吸は肩を大きくはずませるほどである。
明記は馬から降りて泥の着いた父の身を抱きかかえた。
「父上!しっかりなさいませ」
そう言うと明記は、刀を取り出し父の胸に刺さっている矢を途中から切って捨てた。
反動で父がうめく。
「父上!」
傷口からは生暖かい血潮が噴き出して、地面に血だまりを作っている。
「馬鹿者」
父は言った。
「戦場で敵に背を向ける奴があるか」
そう言いながら、父は目を見開いて明記の両目を見やった。
「よいか、我が屋敷と授かった土地を、くれぐれも、頼んだぞ」
父はそう言うとその場でのけぞり、白目を向いて血を吐いた。
「父上!!」
明記には、もはやどうすることも叶わなかった。
「若、参りませぬと!」
傍らで敵を防いでいた弥助が背中越しに叫ぶのが聞こえた。
「若が今立たねば、誰が立ちましょう」
弥助は喉から声を振り絞っていた。
戦場で交わされるつばぜり合いや怒声に混じって聞こえた弥助の声に、明記ははじかれるようにしてその場に立った。
「ようし、父はここへ置いてゆく。今から大将首を取りに行くぞ」
明記は刀を握り、弥助の肩を叩いた。
「そうです、それでこそ若」
弥助は泥で汚れたくしゃくしゃの笑みを明記に向けた。
「年寄は引っ込んでおればよいものを」
弥助にそう言い放つと、明記は再び馬上へと戻り、敵陣深く攻め入って行った。
明け方に始まったこの戦は日中ずっと続き、夜になって互いの陣地に引き上げた。
両陣営では、当番の者が飯を炊き、寝ずの番をして過ごしていた。
月明りの鮮やかな、そんな夏の夜であった。
少し眠った明記は目を覚まし、月を見上げていた。
脳裏に浮かぶのは、今日、命を落とした父のこと、そしてその父が言い残した、家のことであった。
「姉上は今頃何をしているであろうな、弥助」
返事のないことを予想して、明記は傍で寝入っている弥助にそうぽつりと語り掛けていた。
辺り一面、虫の声が響き、傷口や汗の匂い、飯の匂いの入り混じる混沌とした叢の中で、明記はぼんやりと真ん丸の月を見上げた。

明記の姉、お菊もまた、真ん丸の月の下で、ぼんやりと夜空を見上げていた。
武田信光に手籠めにされて以来、お菊の心の中で恐れていたことがあった。
――子が、できたのではないか。
この一抹の不安は、薬師の見立てにより現実となった。
弟は戦場におり、子の父である武田信光も同じく戦場にいる。
お菊はひとり月を見上げながら、今、ひとかたならぬ心細さを感じていた。
そこへ、お菊を尋ねる男がいた。
部屋の片隅でたった物音に気が付いたお菊は、そちらを振り返ると己でも驚くほどの落ち着きをもった声で言った。
「どなた様でございましょう。殿方であればお断りいたします」
「銘信でございます。今ひとたび、お言葉を交わしたく思い、参りました」
月明かりの下、部屋の中へと差し込む光を半身に浴びながら、銘信はひそやかに言った。
「まぁ、銘信様」
お菊は、身をひるがえして影の中に立つ銘信をひたと見つめた。
「お菊殿、お会いしたく思っておりました」
銘信が一歩、にじり寄る。
「いけませぬ。銘信様、いけませぬ」
お菊は我が身を抱いて身を震わせる。
「何がいけないというのだ。こうして二人でここにおる。それ以上に何の問題があろうか」
銘信はそう言うと、一息にお菊を両の腕で抱いた。
「子が――。武田信光の子が、おなかにおりますれば」
はた、と銘信の動きが止まる。
お菊は、身を固くして拒んでいる。
銘信はそれを全身で感じていた。
「それは、まことか」
しばしの沈黙の後、お菊は小さな声で答えた。
「はい、薬師の確かな見立てでございます」
そう耳にした途端、銘信の足先から手の先、頭のてっぺんまで、一気に血が逆流した。
気が付けば、銘信はお菊の首元に両手を絡めていた。
お菊は小さく言った。
「殺して」
銘信は目を見開いた。
その白目に血の筋が無数にはっていたのをお菊もまた、見開いた目で見ていた。
もはやお菊の言葉はなく、ただぎりぎりとお菊の首を絞めつける銘信の両手が震えるだけであった。
銘信は今、全身全霊でお菊をくびり殺していた。
銘信の頬を伝う涙を、音もなく月明りが照らした。
やがて物言わぬ木偶となり力なく腕を垂らすお菊から、銘信はそっと力をほどいた。
「ふ……う……う……うっ……」
銘信はお菊の亡骸の傍で、力なく肩を震わせた。
ふいに、十代の頃に好いた、そして殺された女子のことが思い起こされた。
銘信は、お菊の上にふわりと覆いかぶさると、そっとその頬に触れた。
「申し訳ございませぬ」
そう言うと銘信は、そっとお菊の唇に口を合わせた。
涙でぬれた銘信の頬から、その湿り気がお菊の頬へと移った。
「お菊、お菊」
銘信はささやくように呼びかけた。
このように辛いのであれば、もう恋などしたくはない――。
銘信は心にそう定めて、そっとその場から姿を消した。
ただ空には、真ん丸のお月様だけがぽっかりと浮かんでいるのであった。

一夜明け、戦場ではまた方々で小競り合いが始まっていた。
明記は朝餉を取ると弥助と手勢を連れて大将めがけて切り込んでいった。
虚をつかれた敵方大将は、多少の抵抗を見せたものの、あっけなく首を取られた。
大将首を掲げ意気揚々と馬を走らせ帰ってきた明記を、武田信光は自ら出迎えた。
首を確かめた後で、武田信光は明記に向かって言った。
「いやいや、未来の弟がこのような手柄を立てて、儂も嬉しいぞ」
と。
明記はそう言われたことで、今、この先長く続くであろう我が家の春を思った。
儂の手柄で、我が家は更に格を高くする。
見ていてくだされ、父上――。
泥の中に沈んだ父に、晴れ渡った空に、銘信はそう誓うのであった。

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