過去、様々な個性のバイクを乗り継ぎ、いよいよ大型を所持することになった。昔から「ナナハン」という愛称が何故だか好きだったのだが、その好きを手に入れることが叶った。1992年式、型式RC42のHONDAのバイク、CB750だ。 世を見渡せば、もっともっと最新式のバイクもある、今風のスタイルのバイクもある、大きな排気量のビックバイクもある、でも私自身に問うてみたところそれらが好みというわけではなかった。この昭和的なスタンダードネイキッドというベーシックなスタイルと、意のままに
振り返ればすでに遠い昔、若き日の私が初めてコンピューターにできることを前にしたとき、その魔法のような存在に心を奪われたことを覚えている。しかし、時は流れ数十年、今や私たちの生活は技術に囲まれ、その恩恵を受けることが常態化している。便利な世の中だ。だがここでふと考えることがしばしば。 「技術進歩はし続けなければならないのだろうか」 近年、AI技術の進化は目覚ましい。私たちの生活の利便性は高まっている。自動運転車、スマートホーム、AIアシスタントなど、あげたらキリがないほ
情報公開法は、日本の最高法規である憲法の21条1項における表現の自由の受け手側の権利、すなわち「知る権利」を具体化するための成文法として制定されたものです。しかし、近年、この法律が有名無実化しているとの声が高まっていることも事実です。では、なぜ情報公開法は実質的に有名無実化してしまっているのか、考察してみることにしました。 私が考えるに、以下の4つの理由が挙げられます。 1、例外規定の存在 情報公開法は政府や行政文書の原則公開をうたっていますが、例外として外交・防衛や犯
寒いけど、穏やかな気候。 心が穏やかになる。
店が混む前に、滑り込み。 後輩の手打ちそば屋でランチ。 あ〜、美味かった。 美味かった、美味かった。 満足。 幸せだ。
今日はSRのバッテリーチャージの為、20キロほど流し。 Ape100に乗ったからこそ、改めてSRの単車感を感じた日になった。 大きさ、厚み、重さ、鼓動、全てが心地よく、好きなバイクだと再認識した。 似て非なるものを体感するからわかる気づき。 写真は忘れたので以前のものを。
SRは振動が強いので搭載出来なかったスマホホルダーをつけてみて。 道の正誤を心配しないこの感覚。 なんてストレスフリーなんだ。 小さいけど大きな発見。 一般道だけでどこまでも行きたくなった40後半の夜。
新しい原付二種の相棒が納車。 ようこそ、Ape100 Special。 CB750F(K0)カラーのタンクがお気に入り。
バイクでどこかに日帰りソロツー(ひとりでツーリング)。ふと気が付けば、趣味のない私のリフレッシュタイムになっている。いや、これを趣味と世間は呼ぶのかもしれない。 現在の相棒は2003年、黒のYAMAHA SR400。単気筒のトコトコ感がお気に入り。これからも共に旅する時間を大切にしていきたい相棒である。 そこに後日、原付二種の新しい相棒が加わるのだ。 その相棒は、2008年、CB750FカラーのApe100 Specialだ。SRと同じなのは、単気筒であり昔なが
年初の野暮用にバイクの初乗り。あまりの寒さに身体は震え、鼻水も滴る。でも、後悔はない。 そんな乗り物であるバイクが私は好きなのだ。 暑い時には暑く、寒い時には寒く、心地よい時には心地よく。風を感じ、匂いを感じる乗り物、決して快適だけとは言えない乗り物、でもそんな感性を剥き出しにできる乗り物、移動だけの手段にはならない乗り物。 そんな五感を研ぎ澄ませることができる「バイクという乗り物」が、私は好きなのだ。 季節や空間を五感で感じられるこの乗り物と共に、また色
本日、文房具屋にいってボールペンを買った。但し三軒目に。同じものを売ってはいるのだが、どこで買うのかは別物なのだ。 店だから商品を売ることには変わりはないのだが「そこに愛はあるんか」が私には大切なのである。商品の陳列、店内の整頓具合をみるだけでも、それは感じ取れてしまうのだ。 決定的に違いが出てくるのは商品説明。「自らが販売している商品を愛せているかどうか」が滲み出てくるものである。自分が大切だと思っているものを説明している言葉や態度には、余りある説得力がある。残念な
どうにもこうにも、理解不能な者がいる。とても身近に。それは自分という者である。自分探しというのはことのほか難しいものだと常々思うのである。 自分という者が何者で、未来に向かってどのように一歩を踏み出していけば良いのか、気がつけば自問自答を繰り返している。 しかしこれがまたなかなかに手強い。この歳になって更にその難易度はあがっているようだ。 そんな時は決まって頭に浮かぶ着想がある。見知らぬ場所に行けば、見知らぬ何かに出会うかもしれない。そこで何かの気づきがあるのかも
立派な肩書き。きっと学歴もいいのだろう。勉強はできるのだろう。偏差値も高いのだろう。ただ、人として大切にすべき心の何かが欠けてしまっているのか。 不正を許さない信念・心があってこそ務まる任務であろう。たとえ妬まれ疎まれるといった心に病むことがあっても、税金という結果的に国民の生活を守り・豊かにするために使われるべき公金を徴収するといった、ある種の使命感を持って目指すべき職業とも言えるのかもしれない。 憲法15条2項、公務員の本質に全体の奉仕者論というものが存在する。