「大人」のエヴァンゲリオン~シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 感想

「大人」のエヴァンゲリオン


エヴァンゲリオンが、終わった。
観終わった直後に思うことはさまざまあったのだけれど、しばらくして落ち着いて思うことは、これは「大人」のエヴァンゲリオンだ、ということだ。

一般的に、大人のもの、アダルトというと、エロやグロを思い浮かべないだろうか。けれどここでのそれは、そういう意味ではない。
むしろ、エロやグロだと旧劇場版(新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に:以下、『旧劇』)の方が遥かにすごい。アラサーになろうかという今でも、旧劇はまともに観られない自信がある

では、どういう意味で私が大人のエヴァンゲリオンだと思ったのか、それをつらつらと書いていこうと思う。特にオチはありません。

キャラクターたちの成長を目の当たりにした

ずばり、「大人」というのは、登場するキャラクターたちがみんな「大人になったな」と思わせてくれたということだ。

アニメシリーズや旧劇、いわゆる『旧世紀版』では、キャラクターたちは皆子供だったと思う。主人公たちチルドレンは言わずもがな、「大人」としての立ち位置にいるはずのミサトやリツコ、ゲンドウまでもが、どこか欠けたまま成長したような、子供としての歪みを消しきれないままに大人になったように見えた

リアルの世界において「大人」と呼ばれるようになってしまった自分を省みても、「成長していないな」「子供のままだな」と思える部分は山ほどあって、それはきっと自分だけではないのだろうと思って生きているわけだが、エヴァの世界でもそれはきっと普通のことなのだろうと思う。
「セカンドインパクト」という理不尽な神の手による災いを浴びて、まっとうな大人になれる方が不自然なのかもしれない。

そして、それは『旧世紀版』を踏襲していた新劇場版の「序」「破」でも基本的には同じだったと思う。細かく見ると、父との対話を図ろうとするシンジや、加持に依存しないアスカなど、やや子供から脱却しつつある気配はあったのだけれど、結局はそれらも彼らが大人として育っていくことへの糧にはならなかったように見える。


「Q」ではどうだったのか


では、それまでとは大きく流れを変えた「Q」ではどうだったのか。
「Q」は、14年間眠ったままだったシンジ以外、それ以外の生き残ったキャラクターたちは皆、ミサトやリツコ、姿が変わらないアスカまでも、実際には14年の年月を経ているわけだ。「シン」の冒頭でシンジが再開するトウジやケンスケまでも(もう大人になったかつての同級生と並んで歩く14歳のシンジの姿はどこか不自然で、いびつで、「エヴァの呪縛」の気持ち悪さを感じる気がした)。

しかし、「Q」でシンジが再会した「大人」たち、ヴィレとネルフの面々は、精神的にはやはり大人ではなかった(視聴者からはそうは見えなかった)と思う。

14年間眠り続け、自分のしたことも分かっていない、したがって罪悪感も持ちようがないシンジに対して、ただ冷たく当たるだけのヴィレ。14年経っても自分の胸の内は微塵も明かさずにシンジを利用し続けるゲンドウ。

これはもう何回見てもしんどくなる内容で、本当に頭が痛くなる。
同じ時間にも第3村にはちゃんとした大人であるトウジやヒカリ、ケンスケがいたわけで、シンジはつくづく運が悪かったんだなと、縁が無かったんだなと思わざるを得ない(ヴィレやゲンドウが100%悪人な訳では無いが、目覚めてすぐにあう人選としては最悪すぎる)。

いたんだね、ちゃんとした大人

そんなこんなで、どうしようもない大人たちとシンジ自身の暴走のせいで(シンジを責めている訳では無い)完全にバッドエンドとなってしまった「Q」であるが、その続編である「シン」ではどうだったか。

まず目に入ってくるのは、シンジを導きつつも罵倒し続けるアスカ(28)。ああしんどいなあと思って見ていると登場する謎の防護服の男。誰だと思う間もなく声が発せられて、我々はその正体を知る。

ケンスケである。……ごめんね、「Q」のあれこれで正直忘れてたわ。シンジが「鈴原」の制服着てたからトウジもろともニアサー(ニアサードインパクトの略。アラサーみたいで笑いそうになっちゃった。すみません)で死んじゃったと思ってたし。

ケンスケに連れられて「第3村」を訪れたシンジは、トウジやヒカリと会うわけだが、これがもう、「大人」なんですよ。
みんなめちゃくちゃできた人たちで、「大人」像を体現しているわけです。懐が深く、優しくて、至らないところを見守りながらも導いてくれる。

いたんですね、エヴァ世界に、こんな大人。

「ニアサーも悪いことばかりじゃない」とか、そんなこと言ってくれる人、「Q」のどこにもいなかったぞ。

もちろん彼らも彼らなりに色々なことを抱えている様子はあるが、それでも大人として子供(シンジやアヤナミレイ(仮称)、以下黒波)を見守ってくれる。特にそれまでネルフでしか育ってこなかった黒波が人間の様々な情緒や情動を知っていく過程は、ベタながらもこの映画で私が大好きなシーンだ。

「え、あと2時間で完結するんだよね?このペースでやって後半大丈夫?」と一部の視聴者(私)を不安にさせた面はあるけれども、この尺の割き方は贅沢で、素晴らしかったと思う。そして今思うと、子供が育っていくようなもので、大人が見てこそ感動するものだったかもしれない。これも「大人のエヴァ」と言えるのかもしれないですね(今思いついた)。

大人たちに導かれて

そんな大人たちに触れて、見守られて、彼らにどんな変化が起きるか。
最初に黒波が目覚めていく。自分の中に芽生えた感情と向き合って、自分を知っていく。自分は何を望むのか、何をしたいのか。
「クローン」「すべてはプログラムされている」と突きつけられてなお自分をしっかりと保ち続けるさまは、さっきまで子供だった存在とはとても思えない。成長スピードでいうと本作で随一だと思う。

そしてそんな黒波、あえてシンジが呼んだ「綾波」と書くが、その「綾波」の感情と心に触れてシンジもまた急激に成長する。
「綾波」の涙、そこからのシンジへの告白のシーンは一番ヤバかった。個人的なこの映画の山場はあそこかもしれない。あそこを観るためにもう一回観に行くことも全くやぶさかではない。

そんな「綾波」の思いに触れて、シンジはいよいよ立ち直り始める(ここで一気に立ち直るのではなく徐々に、というのがエヴァっぽくてよい)。

ここまで、つまり黒波が綾波になるまでシンジの命を繋いでくれたのはアスカだが、真理は突いていたものの、やり方が28歳とは思えないほどあまりにも過激すぎて、シンジを立ち直らせたのはあくまで綾波だと、私は思っています。

そしてここからいよいよ、「大人」エヴァが始まるのです。

ヴィレが視聴者の側に立った瞬間

第3村の人々と、そして綾波のおかげで立ち直ったシンジ。「自分が何をしても誰のためにもならない」という精神状態から、「自分や自分の親が世界にしてしまったことに対して、今は何ができるか」という前向きな心構えに変化している。

シンジの覚醒というと、テレビシリーズのゼルエル戦、「破」の第10の使徒戦がお馴染みであるが、それとはまた少し違っている。
自分の願望を実現するためだけではなく、自分の外の世界へと視点を広げ、そのうえで自分の意志・願望をしっかりと固めた、実に大人な選択をしているのだ。

シンジ自身に難色を示す人間もいるが、こうなったシンジは誰にどう見られるかをあまり重視していない、どう思われてもなすべきことをなすという、強い人間へと変貌を遂げている

そうして、決意を固めたシンジはヴィレに合流する。いかに「Q」が正義のヴィレVS悪のネルフっぽい構図になっていたからと言って、視聴者の視点はあくまで主人公、シンジ君にあるわけだから、これまでヴィレは別に正義の組織という認識が(少なくとも私は)あったわけではなかった
だから、「Q」冒頭のヴンダー起動・発進の場面とか、盛り上がるであろう場面でも、主人公側のシンジ君が置いてけぼりで冷たくあしらわれているため、「普通だったらアツいんだろうな」程度のかなり冷めた目で見てしまっていた

しかし、ここでシンジがやりたいことが定まり、その所属をヴィレとすることによって、ヴィレが正式に視聴者の側に立ってくれる。

「ヴィレがんばれ!」
「ヴンダー負けるな!」
「2番艦以降が強すぎるやろ!」


と、熱い気持ちで心からの応援ができるようになったのだ。

ヴィレクルー、特にミサトについてもここで掘り下げが行われ、シンジに冷たく当たっていたのも「ニアサーのときにシンジをたきつけた責任を取る」「自分一人が落とし前を付ける」という決意の表れなのだということが分かる。
個人的には、にしても「Q」のアレはもっと言い方あったやろ、とか、本当のことなんだろうけど後付けっぽく見えるな、とか思ってしまったわけだが、なんにせよミサトさんもシンジと志を一つにしてインパクト阻止に立ち向かう同志に戻ったわけだ。これは流石に激アツである。

「Q」でのミサトさんを見ていると、40代になったとは思えないほど大人げない姿と対応をしていたのだけど、その裏ではあまりにも大人すぎるほどの悲壮な覚悟と決断をしていたのだと感じることができた(加持さんの件を含めて…)。

そこからの最終決戦、この文章の主題からはズレるので詳しくは書かないけれど、エヴァを見ているとは思えない感覚にはなる場面はありながらも、感情移入して楽しく見ることができた(この「感情移入して楽しく見る」というのが自分にとってはそもそもエヴァっぽくない)。

アスカの覚悟前回の戦い方に涙し、マリが量産型っぽい全身コアシリーズを食べまくるのを見て笑ってしまった。

関係ないですが、銃で撃たれて負傷した艦長が戦艦と運命を共にする、というのは同じ庵野監督の「ふしぎの海のナディア」を思い出しました。まああっちは蜂の巣のレベルだったけども。あのアニメも好きだったなあ……

人のままの補完

そして、マイナス宇宙(何それ)へと突入したシンジは、ゲンドウとの決戦、もとい対話へと移ります。

この「今まで何考えてっか全然わかんなかったし世界をめちゃくちゃにしようとしてるけど、父親のことをもっと知りたい、話したい」というシンジの意志が、もう信じられないくらいの成長を感じました。
「破」でも父親に近づいてみたい、話してみたい、という情動は見受けられたので、この世界のシンジはそういう気持ちが割とある方なんだな、とは思っていたのですが。

それでも参号機の件とかインパクトとかで溝が埋まらなくなっても不思議ではないんだけど、それでも「親の落とし前を付ける」というガンギマリの覚悟で会話へと臨むシーンは激アツでした。
大人になったな、シンジ…(フライング)


そしてここから、シンジ先生による怒涛のカウンセリング講座が始まります。
いつもの電車でゲンドウの方が学生に退行したシーンでは、予想外すぎてちょっと笑ってしまいました
ゲンドウの内面については、シンジはともかく視聴者(私のようなライト層)も「ユイにどうしても会いたいおじさん」くらいの認識しかなく、生きて成長していく中で何を抱え、どうしてこうなってしまったのかというのは明かされていませんでした。そんな、(一般的にもそうですが)ゲンドウが明かしたくなかったであろう、秘めた人間性をさらけ出していくこのシーン。それを踏まえてシンジとゲンドウが歩み寄っていく。これこそ「補完」ではないですか。

「人は分かり合えない」「一つの単一な生命に進化しなければならない」
というのはいかにも極端で、他人とのコミュニケーションを取れない子供の考え、という感じである。ゼーレとかは長く生きすぎたために、何周も何周も考えを巡らせてこんな結論になってしまったのかもしれないけれど。

だからそういう意味でも、長く生きすぎたゼーレでもなく、子供のまま大人になってしまったゲンドウでもなく、他人との交流と成長を経て大人になったシンジが果たそうとしたこの会話こそが、本当の「補完」ではないかと思ったわけです。本当の、というよりは、現代を生きる大人に刺さる補完ではないか、という考えですが。

これはやっぱり旧劇をはじめとする旧世紀版ではできなかったことだと思います。「破」の終わりから、インパクトのカギになるシンジが封印されたためにインパクトを迎えず14年の時を経てキャラクターたちが大人になったからこそ可能になったエンディングだと思う。
皆が大人になったからこそシンジを導くことができて、シンジも大きく成長して世界に向き合うことができたのだと。

旧世紀版では「自分が世界に存在してもいい」「他者がいるから自分が存在できる」というメッセージがあって(もっとあると思うけれど、自分の中ではこれがメインというイメージ)、それも大事なのだと思うが、世界や社会に対する入口のようなメッセージだと思う。

それを踏まえ世界や社会の中で居場所を見つけたうえで、他者と心を交わし、補い合うシンジの姿に、「大人」としてのあるべき姿を見た気がした
私も社会人となって、大人と呼ばれるようになってもまだたどり着けていない、いつの間にかその境地へと至ったシンジ君に追い抜かれてしまいました。

初恋

ラストシーン。
この映画で一番「大人だな」と思ったのはここです。

私はずっと、シンジはアスカと結ばれると思っていたんです。旧劇のラストも二人だった、というのもあるかもしれません。
自分は綾波派なんですが、綾波はやっぱり悲恋というか、憧れと恋の間をゆらゆらしているようなイメージで、だから今作の綾波の最期も美しいと感じました。だから、シンジと結ばれるのはアスカだという認識があった。

しかし、今作はそうではなかった。なぜか。
彼らが悲しいほどに「大人」になってしまったからです。

「あの頃は好きだったのかもしれない」
「僕も好きだったよ」

これで14歳の恋を終わらせる。どんだけ大人なんだ。
シンジに至っては、14歳から全然時間経ってない
んですよ。寝てたから。

寝て起きたら好きだった人にガラス越しにぶん殴られてそれ以降は「ガキ」「バカガキ」と罵倒され続けてましたけど。それでも好きだった人なのに。その人を「好きだったよ」と見送るんです。これすごすぎる。
(全然関係ないですが、あの会話シーンでシンジとアスカがいる浜?のことを、一緒に観に行った友人が「首絞め渚」と呼んでいて笑いました)

そして、アスカの心を埋める、補完する人は自分ではなくて、別にいる。そしてそれは、自分の知らない14年でアスカが得た人で、そこに自分が入り込む隙間はもうなくて……
シンジにはそれが分かっていたのかもしれません。

14歳の頃の幼い恋を今になっても追いかけているのは、もはや視聴者である私(達)しかいなかったのです。シンジもアスカも大人になって、過去の恋を、頬を赤らめながらも懐かしい気持ちで振り返るようになった。これぞ「大人」ですよ。

何かで読んだのですが、結婚できない男性の特徴に、「初恋の思い出」「学生時代に自分に優しくしてくれた人の記憶」などを忘れられない、捨てられないというのがあるんだそうです。自分もそのきらいがあるので、身に染みて実感しているのですが、同じことをシンジにも知らず知らずのうちに当てはめていたのかもしれないと思いました。

「シンジ君はアスカと結ばれて欲しい」
「あの頃の恋のような何かが実ってほしい」

それは初恋に縛られている私の意見であって、シンジたちが大人として現実の人生を歩んでいくには選ぶべきものではなかったのかもしれません。
そう、大事なのは、「現実」の「大人」としての人生な訳です。「エヴァに乗らない人生」を選択したわけですから。

そうして現実の人生を歩んでいくためにシンジが選んだのはマリでした。
これ、初見時には本当に頭がモヤモヤしっぱなしだったんですが、エヴァ世界から一度抜け出して、現実の大人として見たときに、マリを選ぶというのはすごく自然なことなのではと思うようになってきました。

「破」でシンジの持つSDAT(ゲンドウのおさがりの音楽プレーヤー)のトラックが、『旧世紀版』を示す「26」曲目から「27」曲目へ進んだのは有名な話ですが、それをしてくれたのはマリでした。
旧世紀版で破綻と絶望を辿ったシンジの運命を変えてくれるのは実はマリであるというのは、思い返すと既に示されていたわけです。

本作の最後、父への落とし前を付けるために一人旅立ったシンジを見送り、迎えてくれたのもアスカではなくマリでした。自分を迎えてくれる人のもとに帰る。初恋と父へのわだかまりから抜け出したシンジが戻るべきと認識するのは、確かにマリ以外になかったのかもしれません。

最後に

ということで、映画を観て感じた「大人」というワードをもとに、感想を整理してみました。

3時間近い映画ということもあり、まだまだ語るべきところはありそうですが、ひとまずこのあたりで。自分の感想は文字に、形にできたので、これからは色々な人の色々な感想を見てみたいと思っています。


自分も大人になったこともあり、子供が大人を見る憧れの視線というよりは、眩しさというか、自分との差を感じるような見方になりました。
しかし、これが後ろ向きに感じることではないというのもまた学んだことです。シンジも逃げと挫折と失敗を、文字通り世界スケールで繰り返しましたが、それでも誰かと触れあって交流していれば、成長して大人へと変わっていけるということを(文字にすると陳腐ではありますが)、彼の人生を目の当たりにすることで、胸に沁みて感じることができました

自分もこれからの人生で、少しでも「大人」に近づければ、誰かを導けるような人間になれればと思うことができるようにさせてくれた映画でした。
ありがとう、エヴァンゲリオン。


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