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仮面ライダーBLACK SUNの感想と私評──この作品の根底にあるものへのささやかな共感と抵抗

はじめに

 この記事はAmazon Prime Videoで10月28日に配信を開始した「仮面ライダー BLACK SUN」についてのネタバレを多分に含みますのでご留意下さい。
 未視聴、あるいは視聴中の方は一旦ブラウザのタブを閉じる・戻るボタンを押下するなどしてこのページから離れて頂き、全話視聴終了後にまだこの記事の事を覚えていて下さったらならばご笑覧頂けますと幸いです。

 作品の内容についての感想などを述べる以上どうしても避けられないため、作品内の政治的な要素・描写に関する私見を述べていますが、「右派・左派その他特定の思想を持った個人や団体を叩くために書いた記事ではない」ということを最初に表明しておきます。
 また、文中で人名を表記する際は基本的に敬称略とさせて頂いております。










前編:観終わってみて率直に感じたところ

 仮面ライダーBLACK SUNを観終わった。
大人向けに過去の名作をリブートする、という点では先年のアマゾンズと同様だが、名前とキャラクターデザインの2点で過去作をオマージュしている程度の繋がりに留まっていたアマゾンズに対し、今作は主要な登場人物を引き継ぎつつも換骨奪胎したリメイク・リブート作品であり、より深い繋がりを持っていたために様々な期待(そして不安)の声が挙がっていたように思う。
私自身期待と不安が半々くらいの割合のまま視聴を始め、観終わって最初にツイートしたのが以下の内容だった。

とにかく、出演陣の気合が凄まじい。

 ダブル主演の西島秀俊・中村倫也は言うに及ばず、脇を固める俳優陣の演技力も圧巻の一言。
本職が俳優でないバラオム役・プリティ太田や、失礼ながらお笑いタレントの印象が強い総理大臣堂波真一役・ルー大柴などの意外なキャストが光る演技を見せつけ、決して主演ふたりの役者としてのパワーや過去の名作のリブートという話題性などに頼っているだけの作品ではないぞという気概が伝わってきた。
第三の主人公とも言うべき葵役・平澤宏々路などはこの記事の執筆時点でまだ15歳、おそらく撮影時は役と同様14歳であったことを鑑みると凄まじいまでの演技力であった。
それら主要キャラクターのみならず、俊介の両親や反怪人団体のリーダー、喫茶店の店員などの端役に至るまで実に良い演技をしていたと思う。
 日曜朝に放送している方のライダーは、およそ1年という放送期間を経て段々成長していく出演陣の変化を楽しむのが醍醐味のひとつだと個人的に思っているのだが、今作のように既に演技力の出来上がった出演陣による作品というのもまた違う魅力があると思った。同じようなことを考えている方は他にもおられるようで、そういった意図のツイートも散見された。
 出演陣の演技については、間違いなく素晴らしいという評価を下せるかと思う。
 出演陣の演技以外にもブラックサンやシャドームーンらのデザイン・造型や全編に溢れるオリジナル版へのリスペクト・オマージュ、角川のスタッフが主となって製作されたが故にこれまでのシリーズと異なる映像の味わいなど、褒めたい点は多い。特に、変身ベルトを「改造手術によって体内へ埋め込まれた、怪人の力の源となる【石】の容器(制御装置?)」と設定した上で、それが露出し変形する変身シーケンスには唸らされた。そういった数々の美点を褒め称えてこの作品に高評価を付けて終わりとしたいところだが、残念ながらそう簡単に肯定的な評価を下すことは出来ない作品だったなというのが正直なところだ。



後編:率直に褒められないのは何故か

 何故そのような結論に至ってしまったのか?端的に言って、シナリオに問題が多すぎるのだ。
 「悪とは、何だ。悪とは、誰だ。」というキャッチコピーを掲げ、怪人が差別に苦しむ世界観でブラックサンとシャドームーンはどのようなヒーローとして活躍するのか。それを期待していた私の前に出されたものは、作中の政治家や活動家を通してモチーフとなった現実のそれらを左右の区別無くまとめて否定する、閉塞感とニヒリズムに満ちたドラマであった。
 あからさまに安倍晋三をモデルにした総理大臣・堂波真一の細かい描写の数々や、これまた岸信介がモデルであろうその祖父・堂波道之助が怪人という存在を生み出した元凶という設定、無辜の人々を捕らえてヘブンの材料とするおぞましい行為などを見ると「ああ、また安倍政治を許さない系のアレかよ」と思ってしまうかもしれないが、決してそれだけに終わる作品ではないのがまた反応に困るのだ。
 今作では現実における外国人・異人種を怪人という存在に仮託して差別対象としている描写が多々見られるのだが、そのひとつとして挙げられるのが在特会をモチーフとしたと思しき反怪人団体だろう。拡声器越しにやかましく叫び回り、怪人や貧困層の住まうエリアを土足で踏み躙り、果ては怪人をリンチして殺害にまで至る。そのような彼らの醜悪な姿を通して現実における極右活動家を否定しているようでもある。
 そこまでの内容だけであれば「面倒な左派が政権と右派を叩くために作ったドラマかよ」と思ってしまうかもしれない。だが、この作品は左派のことも肯定していない。
 露骨に戦後の新左翼をモチーフにした五流護六は分裂した末に内ゲバでの殺し合いに発展する。現代に復活した信彦が怪人の権利獲得という題目を唱えて集めた人々は、創世王殺害という彼の目的のための捨て駒とされる。
 言論による反差別活動を行う葵は差別意識を持つ人間に対し平気で「死ね」と言い放つ上に心の底では自らも怪人への嫌悪感と差別意識を抱えており、最終的には「悪い奴が生まれる限り戦うよ」と嘯く過激派テロリストと化してしまう。最終話の描写を見て「この作品はこんな奴らを肯定するのか」と思う人も居るかもしれないが、集めた同志がノミ怪人とクジラ怪人を除き皆年端も行かない子供たちであること、木人の首を執拗に狙う訓練模様を強調したカメラワークや爆弾製造などの描写はとても葵の行動を肯定しているようには見えなかった。というか子供を洗脳して走狗とする現実の過激派組織を直球で揶揄しているとしか思えない。若年でありながら国連でのスピーチを行うなど、葵の行動はグレタ・トゥーンベリを連想させられたが、制作陣が彼女のような若い層の行動力に対する希望を抱いているとは到底思えない。
 ふらふらと行動に一貫性が無く、死の間際には自ら粛清したバラオムやダロム、かつての五流護六の仲間たちを懐かしんで嘆く信彦。2話冒頭で五流護六に入る時からずーっとゆかりという女に流され続けているだけで、結局怪人の権利獲得という思想にも暴力革命にも興味が無く、ただ好きな女や仲間とバカやってるのが楽しかっただけにしか見えない彼の姿は、「大層なこと言ってるけど新左翼なんて結局こんな奴らだろ」という皮肉が込められているように思えた。
 また、怪人の正体が堂波道之助によって作られた生物兵器であり、言わば旧陸軍とその流れを汲む科学者達の被害者とその子孫であるという特大のスキャンダルが明らかになったというのに作中では大きな政変は起きていない。もはや怪人の人権を認めるどうこうのレベルではなく、彼らの救済のために国家を相手どった訴訟などといった事態へと発展して然るべきだがそんな様子も無い。堂波が推し進め、作中で「戦争法案」と揶揄されていた法案は彼の死と共に廃案となるどころか、国民投票の発議という段階へと進んでいる。作中におけるマスコミはワイドショーや国会中継で政権に否定的なテロップを出しているだけであり、「マスコミは政権を漫然と批判しているだけで、真に問題とすべきことについての報道からは逃げている」とでも言わんばかりである…と言うと少々牽強付会が過ぎるか。
 少々話が逸れたが、作中の野党政治家はただ原稿を読み上げてのらりくらりと批判を躱す総理および閣僚の言葉尻を叩くことで精一杯存在をアピールしているだけの不甲斐ない存在である。怪人についての社会的な扱いが大きく変わって然るべきであろう大スキャンダルを以てしても、政権交代どころか与党の政策を曲げさせることすら出来ていない。こういった描写からも、制作陣が現実の政治家達に抱く感情の一端が垣間見える。そしてこれらの描写が否定的に描いているのは野党政治家だけではない。こんな大事になっても民衆はどうせ与党に票を投じ続けるのだろうという諦念も感じ取れた。
 与野党どちらの政治家も肯定せず、暴力的な活動家も肯定せず、かといって現実を見て妥協を選んだダロムのような存在に救いがあったかと言えばそんなこともない。過激派団体とは関係の無さそうな一般人ですら差別意識を隠さず大っぴらに排斥を叫び、人々の良識に対する希望もない。融和しようとする俊介の両親のような人物はただただ踏み躙られるだけである。
 終いには、差別される側である怪人もただ虐げられるだけではないという描写すら散見される。2話の冒頭ではリンチ殺人を行う怪人達の姿が直接描かれたし、2022年の反怪人団体が掲げたプラカードには怪人によって身内を殺された人々の悲痛な叫びが書かれたものもあった。後者については差別主義者の書くことだし全てが真実ではないだろうとしても、そういった事件が皆無というわけでは無いのだろう。
 現代の世相を反映したかのような、あらゆる方向への否定と閉塞感。重く苦しいメインストーリーを芯に据えながらもどこかバブル期の浮かれ具合が漏れ出していたオリジナル版との違いはこんなところにも現れていると思った。そんな感覚は現実で嫌というほど覚えているのだから、たとえ陳腐でももっと希望を持たせてくれる終わり方にしてほしかったという意見については全くもってその通りだとも思う。思うのだが、そんな閉塞感の中でもがく人々の姿は強烈に印象に残り、肯定的な評価を軽々に下せないのと同様、めたくそにこき下ろして全否定することもまたし難いという不思議な思いが私の胸に去来した。
 現実のそれをカリカチュアライズしたかのような作中の勢力を通して、現代社会の息詰まる閉塞感と希望の無さを描く、ニヒリズムに満ちた作品。それが仮面ライダーBLACK SUNというドラマを全話通して観た、私の感想および総評である。
 以下にめんどくさいオタクたる私による作品の様々な箇所を自分なりに解釈しつつツッコミを入れながら所感を述べているが、それらはあくまで蛇足として本編についての感想および総評については以上を持って結びとしたい。










蛇足:めんどくさいオタクによる今作へのツッコミ──主に作品の抱えた問題点について

 これ以降はとりとめの無い内容がダラダラと続きます。付け加えるなら尻切れトンボな内容でもあります。

 ひとつ目の問題点として、主役ふたりのヒーローとしての活躍の乏しさがまず挙げられる。
まあ正直なところ、白石和彌を監督に据えて大人向けを謳い諸報で不穏極まる空気の映像を出された時点でそうなるだろうとは覚悟していたが、案の定そうだったなといったところか。
 ブラックサンが撃破して命を奪うまでに至った相手が1話のクモ怪人と最終話のシャドームーンだけというのは如何なものか。
 シャドームーンも内ゲバで殺したバラオムを除けば2話のアネモネ怪人しか倒せていない。完全体=仮面ライダーSHADOWMOONへの初変身の戦果は反怪人団体の男、ただの人間である。とはいえこの場面自体はここまで散々その醜悪さを描写された彼らに鉄槌を下すという点で、悪を挫くヒーローの活躍と言えなくもないのがまたなんとも評価に困るのだが…
 極めつけにはブラックサンが迎える末路がアレなあたり、そもそもヒーローものとして作るつもりがあったのか?という疑問すら湧いてくる。
 「悪とは、何だ。悪とは、誰だ。」というキャッチコピーの通り、仮面ライダーBLACK SUNはどこまでも「悪」を描く作品だったのかもしれない。
 最後の最後まで引っ張り、たった一度ずつだけ放たれたライダーキックとライダーパンチが打ち砕いたものは無二の親友であり、その末に光太郎が得たものは何も無いという結末には前述した政治描写も相まって制作陣の抱えたニヒリズムを感じざるを得なかった。

 ふたつ目の問題点としては、これはひとつめと矛盾するようだがオリジナル版をリスペクトした要素が完全に浮いていることが挙げられる。
 サタンサーベル、キングストーン、バトルホッパーとロードセクター、周囲の変身を封じるアネモネ怪人の特殊能力、何の説明も無く浜辺の洞窟で光太郎を蘇生させるクジラ怪人、怪人態に変身しても顔が出ているビルゲニア、BLACK SUNの胸に刻まれるゴルゴムマーク、極めつけは最終話のオープニング。
 現実でも差別対象となっている外国人・異人種を怪人という存在に仮託した社会派ドラマという趣になっている本作において、これらのヒーローもの特撮番組要素が調和しているとは言い難い。いや、調和させようとしている要素と、そうではなく「うるせぇ!俺はこれがやりてえんだ!」とばかりにぶち込まれた要素が混在していると言った方がいいか。
 今作はオリジナル版とは比べるべくもないほど怪人が弱く、ブラックサンやシャドームーンは自らもぎ取って武器にした副腕(副脚?)がそれ以降再生しないくらい(そのせいで仮面ライダーSHADOWMOONが完全な状態で登場することは一度も無い…)。怪人達の頂点に立つ創世王ですらちょっとした念動力を持っている程度。そんな世界観で急に変身を封じる結界を張りだすアネモネ怪人、何?別に幹部級とかですらない2話の敵だぞ、こいつは。
 クジラ怪人がサザエの貝殻に入れた謎の汁で変身したままの光太郎の脚を繋ぎ、蘇生させるのもオリジナル版を知らない人はぽかーんとすること必至。というか知ってても説明が一切無いのでもはや笑ってしまった。
 ビルゲニアは…本作の怪人は変身シーンや俊介の遺体の描写の通り、人間としての体を覆うように怪人としての体表部が生じるようになっているようなので(クモ怪人だけは例外のようで額に目玉が浮き上がったりしていたが。あいつなんなんだ)「顔だけ覆われないタイプの怪人」と解釈することもまあ出来なくはない。ないのだが、同じような怪人が他に居ないのでやっぱり浮きっぷりが凄い。「オリジナル版でそうだから」という以外にああいうデザインになっている理由も無さそうだし、なあ…
 最終話のオープニングはもう驚きと感心と笑いとその他いろいろな感情が混じり合って評価し難い。胸のマークとあの演出を以て光太郎はようやくヒーローとしての「仮面ライダーBLACK SUN」となったのだ!…というわけでも無かったしなあ。

 みっつ目の問題点は、脚本や設定の練り方の甘さ
状況に流されがちではあるものの、怪人にされたことを忌まわしく思い続けていたためにゆかりに唆されて以降は創世王の打倒と怪人の緩やかな滅びを望むという点は一貫していた(50年間諦めて足を止めてはいたが)光太郎に対し、特に信彦の行動の行き当たりばったり感が酷い。いや光太郎も光太郎で創世王に負けた後ゆかりの死を間近で見てたくせに「なんでゆかりをビルゲニアから守れなかった!」って信彦を責めてる下りとかなかなか酷いのだが。
 そもそも怪人という存在についての設定もしっかりと構築されていたとは言い難い。古の昔、人間よりも前から地上に君臨していたというオリジナル版とは異なり、今作の怪人はあくまで旧陸軍の人体実験によって生み出された生物兵器、改造人間である。(どうでもいいが、「ブラックサン」と「黒い太陽七三一」を掛けた駄洒落からこの出自を思いついたんじゃなかろうな…)
 市井に存在する怪人は俊介のように片親・もしくは両親が怪人で自らも生まれながらの怪人である、という者たちがほとんどのようだ。秋月博士は2022年時点で105歳(未確認だが、腕に巻かれたバンドに記載されているらしい)だが、創世王から得られたエキスによって生み出されたいわば第一世代の怪人たちも年齢は同程度か、それより若いくらいであろう。そんな年齢なら現代の怪人達にとっては祖父・曽祖父くらいになる。彼らの中に、怪人は人間を改造することで生まれる存在であり、異種族などではないということを子や孫に語り継いでいる人物が少なからず居てもおかしくはないだろう。だというのに、少なくとも作中ではそう主張する怪人の姿はみられなかった。
 怪人の中には「怪人は500万年前から存在しており、人間よりも早くから地上に住んでいた」と主張する者も居るという話が一笑に付されていた(これ自体はオリジナル版を知る人間にだけ通じる小ネタの範疇だろう)が、怪人が元々は人間を改造して生まれるものである、というルーツがひろく知られていたならばこのような戯言は発生し得まい。改造によって生み出される怪人は堂波が海外へ売り捌くために製造していたような者達や、葵やその父のようにビルゲニアが自らの手駒とすべく生み出したような者など、いずれにせよ二度と世間に出ることが出来ないような哀れな存在らしい。
 …と、言い切ってしまいたいのだがこの論には問題がある。過激派としての闘争の際にビルゲニアや三神官らといった同郷の者達以外と接する機会があったであろう光太郎と信彦は、自分と先天的な怪人との生まれの違いを知り・語ることは無かったのか?という疑問が生じるのだ。逆にゆかりが「怪人は皆自分の【石】を持つ」と言っていたように、怪人たちが皆後天的にドライバーと石を埋め込まれて作られる存在だとするのも無理がある。自らのように差別に苦しむことがわかっていて、怪人たちがわざわざ我が子を改造するなど不自然極まりないうえに、皆が皆改造によって生み出されたのであれば、彼らは反差別を掲げるのと同時かそれより前に、自らの改造を行った者たちの正体の解明を訴えて声を挙げるはずだからだ。デモや暴力革命を行う怪人たちの中にそういった派閥のひとつも見受けられなかったあたり、市井には後天的な怪人と先天的な怪人が混在しているとするのもしっくり来ないのだから困ったものだ。五流護六の面々が特殊なだけで、改造によって生み出された後天的な怪人は皆公の場に出ることなく日陰でひっそりと生きているとするのが無難なところだろうか…ニックは怪人にしてもらうことを条件にビルゲニアに葵を売っており、怪人=改造人間ということを知っていたようだがおそらくオリバーから教えていてもらっていたのだろう。
 で、現代の怪人たちに先天的に生まれるものが居るとなると少々困ったことになる。「創世王を殺せば、怪人達が新たに生まれることは無くなる」という話が根底から覆ってしまうのだ。創世王が居なくなれば改造手術によって生まれる怪人が居なくなり、先天的な怪人たちもいずれ世代を経ることでその血が薄まって最後は人間と同化し、滅びるという意味だと解釈すれば良いのか?
 また、怪人は路線バスや喫茶店を利用するだけで罵声を浴びせられるなどといった差別を受けていることが度々描写されているが、一方で葵と俊介が通う中学校に反怪人団体が押し寄せてきた時の中学生達の反応は「変な奴らが来たよ」と言わんばかりに奇異の目で見るというものであり、彼らに肯定的な反応をしていたとは言いがたかった。怪人であることを理由に虐められる俊介を葵がかばうなどといった場面も無く、少なくともこの中学校においては人間と怪人が平穏に共存しているようであり、このあたりの描写の一貫性の無さも気になった。葵が言っていたように「怪人差別は考え方がシンプルに古い」のであり、若年層にはそんな意識は無い…というわけでも無いだろう。バスの中であからさまに差別的な態度を見せた男はどう見ても20歳前後だったし、反怪人団体にも若者の姿は少なからず見受けられた。葵の努力によってあの中学校だけは平等が保たれる平穏な場所になっていたと解釈しても良いかもしれないが、あの年頃の青少年は葵のような綺麗事を言う人間に対して、大人以上に冷淡で反抗的ですらあることを考えるとそんなに上手く行っていたとも思えない。
 また、下級怪人は数で勝っていれば一般人でも押さえつけられる程度のパワーしか無く、人間に対しては凶器となりえる爪や牙を取り出せるという程度の優位性しか持っていないということが描写されていた。上級怪人に分類されるであろうビルゲニアですら、武装した機動隊と戦えば死ぬ程度の存在でしかない。創世王の再現を狙って製造された最上位の怪人たるシャドームーンですら、SATのライフルからは身を隠す程度の防御力であった。
戦時中の武器を基準にしても戦車砲や機銃、爆弾や魚雷などといった火器類と正面から戦うことなど到底敵わないだろう。人間の延長線上の存在として銃火器で武装させるにせよ、数の不利や銃火器・兵器の不足を補うほどの存在には到底なるまい。「お前らに見世物以外の価値があるのか!」という堂波の台詞も頷ける。まあ怪人をそれくらいの強さにしておかないと、いくら数の不利があるとはいえ一般人にすら虐げられるような存在として描くことは出来ないだろうから今作の世界観を構築する上では仕方ないのかもしれない。が、怪人をその程度の存在として設定してしまったことで生じた問題がひとつある。前述したひとつ目の問題とも繋がるのだが、怪人同士の争い、つまり今作の戦闘が必然的に規模も小さく盛り上がりに欠けるものとなってしまったのだ。シリーズの他作品と比較した際、派手な必殺技の類が無いことを棚に上げてもなお外連味に欠けること甚だしい。5話にして初めて変身した仮面ライダーBLACK SUNがビルゲニアと戦うシーンは今作でも随一の派手な内容だったが、逆に言うとそれしか無い。
 最後になるが、創世王という存在についてもツッコミを入れたい。いや、正確には創世王の継承という行為についてだ。最終話において2つのキングストーンを手にした光太郎は、それに惹かれるかのように這いずる創世王の心臓に止めを刺さんと貫手を繰り出した末に、自らが創世王と化してしまう。…いや、なんで?創世王という存在は三神官がそうであったように、上級怪人の中でも特に優れているであろう者達ですら自ら望んでも成れないものであり、葵がそうであったようにそれ以上の資質を持っていても望まない者はそう成ることはない、ということが描写されていた。だが、全く望んでいない光太郎は2つのキングストーンという条件が整った時、創世王となってしまったのである。何故か?
 今作ではオリジナル版とは異なり「世紀王」という語句は作中では使用されていなかったが、光太郎と信彦は創世王と同じ条件の元で生み出された怪人であり、すなわち次代の創世王あるいは後継者候補だということは明らかであろう。結局のところ創世王たり得るのは彼ら2人だけであり、そこに本人の意思の介在する余地は無かったということなのか?今一つ釈然としない。

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