漸近線

※本来ならお蔵入りの文章です
 なんとなく出してみます。



時々、なんだかもの凄く感覚が鋭敏になる。

それは、突如として起こる。

何にもすることが無い時、

僕は美術館に行ったり、

哲学や思想、文学の本を読んだり、

ゆーちゅうぶ見たり、アニメを見たりする。

だが、残念なことに、そんなときに、

感覚が鋭敏になったことは無い。


いや、あるかもしれない。

単に僕の頼りない

頭が、いや頭というより身体が、

そんなことがあったことを忘れてしまってい

るだけかも知れない。


やはり、あるような気もする。


それは、バイト先へ行くまでの道程、

夜の散歩、友達と遊んだ帰り道など、

何気なく、予兆なんかあるはずもなく、

唐突に起こる。


じぃぃぃっ、じぃぃぃっ


と虫の音が異様にはっきり聞こえたり、


ほそくながい草たちが風に揺れるのが


ああ、草が揺れているなと、

あまりに当たり前に、

しかしなんだか病的に、

分かる、ように思える。



「なんだか」やら「かもしれない」やら、

ここまで曖昧なことばがたくさん出てきた。

僕はこんなことばをよく使う。

もしかしたらこういう曖昧なことばが嫌いな

人もいるかもしれない。

しかし僕にとって、これらのことばは重要

で、こいつらが僕に考えることをやめさせな

いのだと勝手に思っている。


人間は(少なくとも僕は)絶えず、遅れてい

る。僕の感覚が鋭敏になってなにかが分かっ

たということはそれを知覚したのと同時に起

こることではなく見るなり聞くなり触るなり

知覚してわずか0.01秒の差であれ遅れてやっ

てくるからもう後付けでしかない。

だから僕はなにかを、

分かったつもりなっているのだ。


今より前に鋭敏な感覚で感じ取ったものを

今、思い起こして見ることもそういうことな

のだ。その瞬間の僕ではなく、今の僕の、

言ってしまえば恣意的な解釈なのだ。

この「遅れ」は人間の認識やことばにもある

ように思う。


ここまできて、「遅れ」の話はやめよう。

なんだか泥沼にはまっていく気がするから

僕の考えが熟に熟した、またの機会に。

(ほんとに未熟であほんだらだ)


ともかくも、何かを振り返るとき、思い起こ

すとき、僕は自分に何かを語り、自分なりに

答えを出す。

その自分の答えに不安を感じないことが今ま

であっただろうか。

僕は分かったつもりになっているにすぎない

から、断定的な事は言えない。

だから不安になる。

だから曖昧なことばを使う。

だとすれば、過去の嬉しい経験や悲しい経験

を、今考え直すことは無意味になってしまう

のだろうか。

だって、

分かったつもりになるだけなのだから。


そうではないと思う。

むしろ大いに意味があると思う。

それはつまり、

何度も、分かろう、とすることが出来るから

分かったつもりだって知ったら、

人は再び考えるから。

何度も、より深く、考えさせてくれる。

決してたどり着けないかもしれない。

異様に感覚が鋭敏だった刹那に。

しかし限りなく近づくことは

出来るかもしれない。

まるで漸近線のようだ。


本を読むとか、絵を眺めるとか、

その他諸々を人間がする時、

何かを感じないことはないだろう。

その度に、僕たちは考えるのだ。

「分かった」とは答えが出てしまうことで、

考えることをやめることだ。

もちろん、僕にも限界があるから、

一つの事柄について何度も、永遠に、

ストイックに考え続けることは出来ない。

そこは大いに甘えても良いだろう。

その考えに(仮)みたいなピリオドをつけ

て。


僕にとって

この「(仮)みたいなピリオド」は

実際に書くことだ。

僕はなにも真理を書いているわけではない。

ただ、何かを分かろうとしているのだ。

他者の文章を読むことも同じだ。


最近、なんでもかんでも

「分かる」や「分かった」で、

物事を切り捨てる人が増えたように感じる。

「分かろう」が増えてほしいと感じる。

こんなことを感じるのは僕だけだろうか。

世界がそんなに「分かる」でいっぱいなら

どんなに、つまらないだろうか。

あるいは逆で、楽しくスッキリするのか。


時々、なんだかもの凄く感覚が鋭敏になる。

それは、突如として起こる。

これが何なのか、考えてみることにする。

直感で、これは自分自身に関することだと思った。

おそらく外界の事物を受け取る自分のほうに

なにかしらの変化があるのだ。




こんなことを書いている自分が

急にいやになった。

構造も考えも、支離滅裂だ。

つかれた。

もうこれはおしまいにする。






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