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現代新聞表記で「芸術論覚え書」を読む<2>歴史的仮名遣い


【前回より続く】

第1段落から第5段落は、以上のように書かれています。
昭和初期の日本語の表記ルールに準じて
中原中也がこのような論考を記述したということです。

さて、ここまで読んでいかがですか? 
くたびれませんか? 
違和感ありませんか?

ざっとピックアップすれば――

脳裡(なうり)
といふ
尠(すくな)くも
とつては
云へぬ
互ひ
寧(むし)ろ
あらう
云へない
而(しか)も
笑ふ
やうな
につこり
ゐる
云へる
面白かつたら
笑ふ
一と先づ
謂(い)はば
在る
あつたら
尤(もっと)も
一層

之を
一人々々
就いて
云へば
持つてゐる

――などの古語や歴史的仮名遣いが見られますね。
これらの表記は、現代の新聞・雑誌やマスコミで見られません。

現代新聞表記にしてみると、どうなるでしょうか?
さっそく、やってみましょう。

一、「これが手だ」と、「手」という名辞を口にする前に感じている手、その手が深く感じられていればよい。

一、名辞が早く脳裏に浮かぶということは、少なくとも芸術家にとっては不幸だ。名辞が早く浮かぶということは、やはり「かせがねばならない」という、人間の二次的意識に属する。「かせがねばならない」という意識は芸術と永遠に交わらない。つまり、互いに弾きあうところのことだ。

一、そんなわけから、努力が直接詩人を豊富にするとは言えない。しかも、直接豊富にしないから、詩人は努力するべきでないとも言えない。が、「かせがねばならない」という意識にはじまる努力は、むしろ害であろう。

一、知れよ、面白いから笑うのであって、笑うから面白いのではない。面白いところでは、人はむしろニガムシをつぶしたような表情をする。やがてにっこりするのだが、ニガムシをつぶしているところが芸術世界で、笑うところはもう生活世界だといえる。

一、人が、もし無限に面白かったら、笑う暇はない。ひとまず限界に達するので人は笑うのだ。面白さが限界に達することが遅ければ遅いだけ、芸術家は豊富である。笑うという、いわば面白さの名辞に当たる現象が、早ければ早いだけ人は生活人側に属する。名辞の方が世間に通じよく、気が利いてみえればみえるだけ、芸術家は危機にある。かくてどんな点でも間抜けと見えない芸術家があったら、断じて妙なことだ。
 もっとも、注意すべきは、詩人Aと詩人Bと比べた場合に、Bの方が間抜けだからAよりもいっそう詩人だとは言えない。何故なら、Bの方はAの方より名辞以前の世界も少なければ、また名辞以後の世界も少ないのかも知れない。これを一人ひとりについて言えば、10の名辞以前に対して9の名辞を与え持っている時と、8の名辞以前に対して8の名辞を持っている時では、むろん後の場合の方が間が抜けてはいないが、しかも前の場合の方が豊富であるということになる。

このようになります。

途中ですが、今回はここまで。


最後まで読んでくれてありがとう!

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