現代新聞表記で「芸術論覚え書」を読む<2>歴史的仮名遣い
【前回より続く】
第1段落から第5段落は、以上のように書かれています。
昭和初期の日本語の表記ルールに準じて
中原中也がこのような論考を記述したということです。
さて、ここまで読んでいかがですか?
くたびれませんか?
違和感ありませんか?
◇
ざっとピックアップすれば――
脳裡(なうり)
といふ
尠(すくな)くも
とつては
云へぬ
互ひ
寧(むし)ろ
あらう
云へない
而(しか)も
笑ふ
やうな
につこり
ゐる
云へる
面白かつたら
笑ふ
一と先づ
謂(い)はば
在る
あつたら
尤(もっと)も
一層
又
之を
一人々々
就いて
云へば
持つてゐる
――などの古語や歴史的仮名遣いが見られますね。
これらの表記は、現代の新聞・雑誌やマスコミで見られません。
◇
現代新聞表記にしてみると、どうなるでしょうか?
さっそく、やってみましょう。
◇
一、「これが手だ」と、「手」という名辞を口にする前に感じている手、その手が深く感じられていればよい。
一、名辞が早く脳裏に浮かぶということは、少なくとも芸術家にとっては不幸だ。名辞が早く浮かぶということは、やはり「かせがねばならない」という、人間の二次的意識に属する。「かせがねばならない」という意識は芸術と永遠に交わらない。つまり、互いに弾きあうところのことだ。
一、そんなわけから、努力が直接詩人を豊富にするとは言えない。しかも、直接豊富にしないから、詩人は努力するべきでないとも言えない。が、「かせがねばならない」という意識にはじまる努力は、むしろ害であろう。
一、知れよ、面白いから笑うのであって、笑うから面白いのではない。面白いところでは、人はむしろニガムシをつぶしたような表情をする。やがてにっこりするのだが、ニガムシをつぶしているところが芸術世界で、笑うところはもう生活世界だといえる。
一、人が、もし無限に面白かったら、笑う暇はない。ひとまず限界に達するので人は笑うのだ。面白さが限界に達することが遅ければ遅いだけ、芸術家は豊富である。笑うという、いわば面白さの名辞に当たる現象が、早ければ早いだけ人は生活人側に属する。名辞の方が世間に通じよく、気が利いてみえればみえるだけ、芸術家は危機にある。かくてどんな点でも間抜けと見えない芸術家があったら、断じて妙なことだ。
もっとも、注意すべきは、詩人Aと詩人Bと比べた場合に、Bの方が間抜けだからAよりもいっそう詩人だとは言えない。何故なら、Bの方はAの方より名辞以前の世界も少なければ、また名辞以後の世界も少ないのかも知れない。これを一人ひとりについて言えば、10の名辞以前に対して9の名辞を与え持っている時と、8の名辞以前に対して8の名辞を持っている時では、むろん後の場合の方が間が抜けてはいないが、しかも前の場合の方が豊富であるということになる。
◇
このようになります。
◇
途中ですが、今回はここまで。
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