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中原中也の詩「僕が知る」の狂気と現識


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「僕が知る」は
「坊や」と同じ日に制作され
「中原中也追悼号」となった
「文学界」昭和12年12月号に掲載された作品です。

死亡後の発表ということで
「生前発表詩篇」には分類されません。

詩人は
この作品を
生きているうちに
読むことはなかったのです。

僕が知る

僕には僕の狂気がある
僕の狂気は蒼ざめて硬くなる
かの馬の静脈などを思わせる

僕にも僕の狂気がある
それは張子(はりこ)のように硬いがまた
張子のように破けはしない

それは不死身の弾力に充ち
それはひょっとしたなら乾蚫(ほしあわび)であるかもれない
それを小刀で削って薄っぺらにして
さて口に入れたって唾液に反発するかも知れない

唾液には混らぬものを
恰(あた)かも唾液に混ざるような格構をして
ぐっと嚥(の)み込まなければならないのかも知れない
ぐっと嚥み込んで、扨(さて)それがどんな不協和音を奏でるかは、僕が知る

(一九三五・一・九)

「狂気」についての詩ですから
すぐさま思い出すのは
「狂気の手紙」ですが
こちらは手紙の形を借りず
直(じか)に
僕の内にある狂気、
僕という狂気を見つめます。

それは
蒼ざめて硬く
馬の静脈を思わせたり

それは
張子のように硬く
張子のようには破けない

それは
不死身の弾力があり
乾鮑(ほしあわび)みたいなものかもしれない。

小刀で削って薄くして
口に入れても唾液に溶けないかもしれない。

唾液に混ざらないものを
熱心に混ぜようと頑張っても
ぐっと飲み込まなければならないものかもしれない。

飲み込んでも、その後、体内に容易に溶け込まないで
おなかの中でゴロゴロしていることは
僕がよく知っている。

僕の狂気は
僕がよく知っていることで
あんたにゃ言われたくない! とでも
言いたかったことがあったのでしょうか。

特別な事件があったというより
詩人が
そのことを常々考えている詩そのものとか
死とか生とか
永遠とか
人間そのものとか
生身の生存とか
肉体であるとか。

ひょっとして
現識とか。
名辞以前とか。

かつて「夕照」(「山羊の歌」所収)で歌った、

かかる折しも我ありぬ
少児に踏まれし
貝の肉。
――の「貝」と同じものであるとか……。

馬の静脈
張子
乾鮑
……。

狂気の実体が例示されていますが
ほとんど了解できるようでいて
何だか分からない
抽象化すれば狂気としか言いようにない。

名辞以前や現識を
狂気と言い換えてみたのかもしれない。

簡単に分かってたまるかと
詩人は言いたかったのかもしれない

最終連、
唾液には混らぬものを
恰(あた)かも唾液に混ざるような格構をして
ぐっと嚥(の)み込まなければならないのかも知れない
ぐっと嚥み込んで、扨(さて)それがどんな不協和音を奏でるかは、僕が知る
――の4行が突き刺さってきます。

僕しか知らない、と。

今回はここまでです。


最後まで読んでくれてありがとう!

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