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君は、生まれ変わったら何になりたいというのだ




8月、粗品氏の電池の切れかけた蟹23に当選したので急遽東京一人旅が決定した。


見たい展示、映画、ポップアップなどたくさんあったので昨年の東京旅同様、えげつない移動をする3日間となった。
長い上に稚拙な文章という、半ば拷問に近いブログなんで、休日に手足の爪を切る予定しかないようなしょうもない暇人だけ読んでもらえたらと思います。

東京では、行方不明展、NN4444、ほんとうにあった怖い話を鑑賞しました。


まず、三越前福島ビルで開催されていた「行方不明展」に行った。
大森時生さん、梨さん、ホラーカンパニー株式会社闇による展示だそう。

ネット販売?のチケットは売り切れてたので当日券で入場できるのかドキドキしながら行くと、人こそたくさんいたものの問題なく入場できた。

タイトルやキービジュアルだけ見ると、ホラーっぽい不穏な雰囲気があるが、そういう類のものではない。



まずマグリットの作品のような、正体不明、アンノウン感が好きな私にとっては、このキービジュアルは刺さる。



本展で紹介した行方不明者を捜索する必要はありません。


会場内は大きく4つに分かれていて、
・身元不明(ひと)
・所在不明(場所)
・出所不明(もの)
・真偽不明(記憶)
という順番で展示されていた。

ちなみに全てフィクション。完全フィクション。
完全フィクションや言うてるのに、「これ本当なのかな?」という声がちらほら。
「ちゃうで〜」と思いつつ、彼女らがそう思ってしまうのも頷けるほどにリアルで生々しかった。
フィクションに対する感想をつらつら垂れてるだけなので、これ以降、語弊を生む表現があったらすんません。


まず入場したら真っ先に出迎えてくれるのは両サイドの壁一面の捜索ポスター。

どれもようわろてる



こんな枚数、よく作ったなと思う。そりゃノンフィクションと勘違いする人もおるわな。


子供の頃、行方不明者の情報を募る番組や捜索するポスターを見るのが苦手だった。
なんか目が合ってる気がして不気味だったのと、漠然と、「死ぬこと」や「殺されること」が怖かったんだと思う。


大人になった今、なぜ行方不明者を捜索するポスターを見て、黙りこくってしまうのか考えた結果、「時が止まり続けてる気がすること」と「別の世界で生きられているのかもしれないと期待できること」の二つにたどり着いた。

どちらも、勝手すぎる解釈である。
時は止まらないし、事件性もあるのに呑気なことは言ってられない。


ただ、何年も見つからない場合、いつまで経っても居なくなった当時の写真しかないことになんとも言えない気持ちになるのだ。一度いなくなったら次見つかる時点まで、ずっと当時の彼が最新の彼のような振る舞いをしているのが、時が止まっているように思えるという。当たり前なのだけど。


そして、別の世界で生きられているかもと期待できるというのは、さらに細分化できる。
劣悪な環境から逃げ出し、新しい土地で違う人生として再スタートしている場合や、パラレルワールドに行けちゃってる場合などもあるのかということ。脳お花畑すぎるか。

前者に関しては、↓のポスターを見て感じたこと。

あなたが反省することを許可します。



どこかへ逃げることができて、どこかで生きることができているなら、何もいうことない。


ポスターで探されている人物を、ポスターを見た瞬間に初めて対面する。残されたメモや靴を見る。それだけを頼りに、会ったこともない人間とそいつの生い立ちを頭の中で想像する。自分と無関係な人間の輪郭が少しづつ頭の中で形成されていくのは、非常にヒリヒリする(治りかけの火傷っぽい感じ)。


ここじゃないどこかへ行きたいと思うこと、自分のことを誰も知らない街へ行きたいと思うことが年々増えてきた。
別にこの展示を見たからそう思うようになったわけではない。


子供の頃にはそのような感情がなかったので、「行方不明」という字面を見ると犯罪の香りしかしなくてただただ怖いと思っていた。


大人になって、ある程度の人間と関わってきて、いろんな場所で働いてみて、25年間この人格で生きてみた結果、全て捨ててどこかへ行きたくなる瞬間がどうしてもあるのだ。それも頻繁に。
そう思う人間の気持ちが分かれば分かるほど、「不明」という言葉の先に、「自由」や「解放」があるのではないかと想像するようになり、頭ごなしに否定できなくなった。


どこかへ行っただけで幸せになれるわけもなく、自分ごと変わらないと何も変わらないのに、しんどい時ほど自分以外に期待してどこかへ行きたくなる。全部やめて、全部捨てて、知らない町の花屋などで働き、毎日店の前を散歩するワンコと挨拶することだけが唯一の楽しみと思えるような人間になれたら。


耳栓を忘れてしまい鑑賞中は終始ノイズが入りまくりだったので、他人の会話を盗み聞きしていた。
私は視野が激狭なので、「どこかへ行きたい」という感情は全員にあるものだと思っていた。
なのに、すれ違う人、後ろを歩いてる人は「うーん、なんかムズい」、「わからん笑、なんか怖い」と申してる人が多かったので、「あ〜そういう感じ〜?」と衝撃を受け、ただでさえ孤独なのにもっと孤独に近づいた。


幸せな人間を集めたらそれは幸せな集団になるが、孤独な人間を何人集めても孤独が薄まることはないし集団になることもない。ただただ孤独である。幸せは掛け算できるけど、孤独は足し算しかできないみたいな、そういう、超ニュアンス的な話。


自分の近くを歩いていたコギャルには響いてなかったのかもしれないが、この行方不明展に行って、自分が抱えていた感情は人間らしいものなのかもと思えた。そっと遠くから見守ってくれる生暖かい場所に思いを馳せながら、多分これからも生きるんだろうな。


行方不明展、行ってよかったです。


それから下北で「NN4444」という映画を観て、池袋で「ほんとうにあった怖い話 変な間取り」を観た。
ほんとうにあった怖い話は3つのエピソードで構成されていて、その中の「話し相手」というお話にマユリカ阪本さんが出てるということで観に行ったのだけど、それがとても良かった。


シモキタエキマエシネマK2
池袋シネマロサ


「話し相手」という存在の大切さを、ここ数ヶ月で痛感している。
些細なことを話す相手がいないって、思ってるより、めっちゃやばいで。
嫌々でもバイトに行っていた時の方が良い気晴らしになっていたのかもしれない。

だから、この話は他人事じゃないという見方をしてしまって違う意味で怖かった。

6月に仕事を辞めて、家でできる仕事をメインにしたことをきっかけに人と話すことが激減した。話したいこと、共有したいこと、聞きたいことがまあ増える増える。

会いたい人はいるし聞いてもらいたい話があるのに、いざ会ったら話したいことのうち1割くらいしか話さず、楽しく楽しく1日を終えてしまう。大体誰といてもそう、それ自体に後悔は微塵もないのだが、解消されないまま残ったそれらは1人で居る時に重くのしかかる。いやいや。悩み相談は人にするもんじゃない、女子は好きピなどの話をするのが1番楽しいと相場は決まっている。そう洗脳する。


今日、近所のスーパーに行くと、おばあちゃん客がレジの人とたくさんお話をしていた。
自分の祖父が亡くなって話し相手がいなくなってからというものの、祖母の家に行くと祖母のマシンガントークをかまされていたことがあったのでなんとなく重ねてしまって勝手に胸が苦しくなった。
この歳にして、そのおばあちゃんの気持ちが少しわかって辛い。
いや、勝手に悲観してしまったらおばあちゃんに申し訳ない。
そして自分の祖母にももっと会いに行かないと。


私ももうAIと話そうかな。
生身の人間ほどグロいものはないもんな。


はい、てな感じで最近は調子悪いです。眉間に皺よってもーて胃がムカムカして常時吐き気です。終わりです。
制作物がある時は具合悪くなるくらい搾り出して作り上げ、仕事が終われば解放されて楽になれたかと思いきや仕事がないのも不安で具合悪くなるんよ。終わりです。

今まで大好きだったご飯も食べられへんし、ゲームも服も機材も手放してしまった。

腹は減るが食えば太るし、休まないと心が終わるが休めば仕事が進まない、泣けばスッキリするけど翌朝の瞼が心配で憚られる、悪口を言われると寂しいが関心を持たれなくなる方がもっと寂しい、孤独は感じるが集団にいると帰りたくなるし、金髪にしたら黒髪にしたくなるし、嫌なことは寝ても忘れない。食べて休んで孤独に慣れて、ヒカルみたいに黒髪と金髪にして寝ずに過ごすくらいが、気難しい私にはええんかもしれんな。


みんな健やか意識してこ

まあ、お前が言うなって話やけども


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