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抗えない

仕事帰りに痛む胃をさすりつつ見たバンコクの夕焼け。

久しぶりに飛行機に乗った。バンコクの上空で見たのは街に覆いかぶさるような雲のような霧のようなグレーのなにか。もしかしてこれがPM2.5なのかと思うとぞっとする眺めだった。本当に布団のようにそこにかぶさっていた。

2011年3月11日。その頃調理の仕事をしていたのでオーダーの入ったBLTサンドイッチ用のベーコンを焼いていた。そこは本格的なアメリカ料理の店で、鉄板の他にも大きなグリラーがあり、炭火で肉を焼いていた。基本的に動いているので小さい地震には気がつかないことが多いがその時は違った。
まずワイングラスホルダーにかけてあるワイングラスがかちゃかちゃと鳴り、フライヤーの油がこぼれそうになり、そこでやっと「地震だ」と気がついた。忙しいランチタイムが終わり、落ち着いた時間でそれほどお客さまはいなかったものの、あまりにも長く強い揺れにまずお客様に外に出ていただき、その後に調理機器の電源を消して外に出た。ベーコンが焦げないように鉄板から外して外に出たのを覚えている。

携帯電話が繋がらなくなって情報が途絶えた。生きているのはTwitterのみだった。その店は外国人の多い場所にあり、その後も閉店せずに店を開けていたために帰れない人たちが集まりお酒を飲んでいた。よくわからないが、さすがだなあと思った。こんな時にお酒を飲んでいるなんて、と思ったがもはや自分にできることはないのだからその時間を楽しく過ごした方がいいのだった。しかし、動き出した電車に乗って帰宅してテレビを見て初めてただごとではない、と悟った。

福島の原発が津波によってメルトダウンを起こし、放射性物質が放たれた。目に見えない何かをこれほどまでに怖いと思ったことはなかった。数日後には以前から予定していた福岡旅行に行った。そこで見た黒いビニールのゴミ袋を着てマスクを何重にも重ねた人の姿は忘れることができない。
通常通りに運行していた新幹線で着いた福岡は平和そのものだった。東京では買うことのできない乾電池やトイレットペーパーも普通に売っていたし人々の暮らしも平和そのものだった。避難、という名目ではないにせよ数日間東京を離れたことはいくらかの安心材料となった。

果たして、その時に東京にいた、日本にいた人がどれだけ被爆したか、もはや測ることはできない。食べて呼吸していないと死んでしまう。そのリズムに抗うことはできないように我々の体に染み込んでいるに違いない。
今回、PM2.5かもしれないなにかを上空から目の当たりにして、天災は仕方ないにせよ、コントロールできないなにかを人間がこれ以上作るのはどうなんだろう、と思った。そのツケはきっと大きい。

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