東京という概念への憧れ

幼い頃、電車の車窓から見える高層のビル群が好きでした。

電車が大きな駅に近づいていくにつれて、建物の高さは大きくなり、ネオンの看板の色はカラフルになっていきます。わたしはこの光景が何よりも好きでした。幼い頃のわたしはこれを「都会」と呼んでいました。「都会」という言葉から感じる印象は人それぞれですが、幼い頃のわたしにとって「都会」という言葉は至上の概念でした。大自然が作り出した雄大な景色を両親や親戚が見せてくれることもありましたが、幼い頃のわたしにとっては消費者金融の品のないネオンの看板の方がご褒美でした。周りの子たちが動物やヒーローの絵を描く中、わたしは無数の窓があるビルの絵や食品メーカーの大きな看板のついた建物の絵などを描いていました。わたしにとっては「都会」こそがヒーローだったのかもしれません。

都会という概念になぜそんなに惹かれていたのか、詳しいことは思い出せません。憧れが一番強かったのは福岡県に住んでいた時でした。週末になるとよく家族と電車で家から小倉駅まで行きました。わたしは小倉が好きでした。おそらく、小倉で色々買い物をしたり、本屋で立ち読みをしたり、ご飯を食べたりといった楽しいことの記憶が、風景と結びついたことで、「都会」という概念が好きになったのではないかと推測しています。

幼い頃のわたしにとっての真理は、「その地区を束ねる中心となる駅の前が1番の都会である」というものでした。広島においては広島県を束ねる中心である広島駅の前がいちばんの都会であり、岡山においては岡山県を束ねる中心である岡山駅の前が1番の都会である、ということです。小倉は確かに都会ですが、博多の方がもっと広い範囲を支配しているため、小倉駅前と比べると博多駅前の方がもっと都会です。広島駅や岡山駅よりも、大阪駅の方がもっと都会です。この真理に基づいて、日本で1番の都会は「東京駅の駅前」である、と幼い頃のわたしは確信していました。東京駅こそが都会の中の都会、王の中の王として、この日本に君臨していると考えていました。いつか東京駅の駅前に立って、壮大に屹立したビル群を見てみたい…!そう考えていたとき、父が仕事の都合で小倉支部から東京本社に呼び戻されることになったのです。

東京へ向かう新幹線の中から、わたしは身をのり出さんばかりの勢いで車窓を眺めました。多摩川を渡ると、どんどんと建物の大きさが大きくなっていきます。新幹線のアナウンスの声が、複雑な乗り換えのアナウンスをし始めます。ああ…これは間違いなく大きな駅だ…胸が高鳴ります。

そしてたどり着いた初めての東京駅は、まさしく王の中の王!…と言いたいところだったのですが、ホームが高い壁で覆われていて、よく見えませんでした。ただ、わたしはがっかりしませんでした。いつか必ず、東京駅に降り立ち、都会の中の都会、「大都会」を目に焼き付けるのだ…そんな野望を抱き続けることになるのでした。

それからというもの、わたしはいろいろな大人に遠くに見えるビル群を指して「あれは東京?」と聞く子供になりました。当時のわたしは「八重洲」とか「丸の内」という概念を知らなかったので、そんな疑問文を発していたのですが、周囲の大人からすると「なんでこいつはこんな粒度の荒い質問をするんだ??」とさぞ不思議だったろうと思います。初台のオペラシティをさしても、渋谷のセルリアンタワーをさしても、池袋のサンシャイン60をさしても「あれは東京だよ」という大人を信用しなくなって、わたしはいつしかこの質問をやめました。

それから数年後、わたしはついに東京駅に降り立ちました。初めて見た東京駅は、確かに「都会」だったのですが、すでに渋谷新宿池袋を見てきた自分の中でハードルがあまりにも上がっていて、「こんなものではないんじゃないか?まだわたしは東京駅周辺の全貌をつかめていないのではないか?」と考えるようになりました。そしてわたしは「また東京に来よう。次こそは東京を見るのだ」とさらなる野望を抱くことになるのです。

大人になった今でも、東京駅周辺に行くときに覚える謎の漠然とした畏怖の気持ちは薄れていません。もうなんども東京駅の周辺には足を運んでいて、「こんなもんだ」ということがわかっているはずなのに、です。わたしはまだ幼い頃に思い浮かべていた、あの「東京駅」を、今でも求め続けているのかもしれません。

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