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成田悠輔著書 『22世紀の民主主義〜選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる〜』

7月初旬の発売日に本屋さんへ訪れて、
途中本文にて紹介されていたいくつかの映画なども視聴しつつゆるりと本日7/30読了。

ピケティの"21世紀の資本"は重かったので映画化していただいて有り難かったけどw、この本はボリューム的にもお財布にも軽くて本当に有難かった。成田さんファンとしては是非映画にもしていただきたい^ ^

見ての通りこの本は民主主義について書かれており、
裏表紙にはこんなことが。。↓↓↓↓↓

更にこんな断言を↓↓↓↓↓

...

本を手にしてからすぐに、安倍元首相の事件があったりで、政治と宗教、そして選挙とお金の"闇"が浮き彫りになってきて正に今、このテーマについて考える時なんだと、あーだこーだとわたしなりに考えてみた。

そもそも民主主義に対して自分がどう思っているのかというと、これっぽっちも期待は無い。数万人規模の企業に勤めるサラリーマンという立ち位置からみても、社員の意見を吸い上げます的な問いに関しては、あたかも社員に寄り添っているかに見せかけつつ、愚衆の反乱を起こさず如何に経営陣の思惑通りの方向にもっていくかに過ぎないひとつの作業に感じるほどで、

そんな時は正に諦めと皮肉という器の中でボケーっと過ごす時間である。

そんな諦めと皮肉の器でボケーっと過ごしていようが、大企業なりの社会保障と成果に対する報酬は確保されており、ありったけの有給休暇をとろうが成果さえあげていれば給与が守られているのは有難い。企業側にとっても何も言わずやることだけやってくれるマシンがいれば有難いはずだ。そして辞めたければいつでも辞めれる自由な世界である。

話しは戻して、
選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるかというテーマですが、、、

個人的には選挙や政治になんの期待もしてないとは言え、こんなにも平和な国でボーッと生活できることには多くの先人達に感謝しかない。ところがボーッとしているのは実は意識を失っていたのかも!?と、読了してブックカバーを外したら見えた表紙(汗)↓↓↓↓↓


民主主義が意識を失っている間に
手綱を失った資本主義は加速しているー
私たちはどこを目指せばいいのか?
人類は世の初めから気づいていた。
人の能力や運や資源はおぞましく不平等なこと。
...

確かに生温い世界で意識を失っているという技術を身につけボケーッとしておりました。。

目覚めて考えてギュッとまとめると、
"持ちつ持たれつ"
ってところかなと←目覚めてそれかーいw

でもホントに、
国も
地域も
人種も
大人も子供も老人も
男も女もLGBTも
資産家も労働者も

みんなそれぞれな訳で、たまたま資源に恵まれていたらそれはラッキーなだけであって、一年中暑くても寒くても生産性落ちるわ。って思うし、大半が砂漠なんかだと食糧源も本当に少ないなかでどうにかしなくてはならないし、

たまたま生まれながらにして資産家も労働者も、
役割が全く違う訳であり、お互いに持ちつ持たれつな関係なのにも関わらず、強調して言うならば資本を持っている側は使えないなーと偉ぶるし、労働する側はもっと与えてと文句垂れるし、人は時として今あるコップの水にいつしか有り難みを感じず傲慢に変化してしまう酷い生き物なのだ。

私たちはどこを目指せばいいのか?

東日本大震災後、よくレジリエンスという言葉を耳にしたが、確かに日本人の持つ復元する力は強いのかもしれない。そして私もそんな性質で復元力はハンパなく、自分の唯一の強みを挙げるなら何があっても寝れる力だと断言できる。学生時代あっちこっち故障をしたものの、スーパー回復力で早期復帰を常に果たしていた。どうやら寝ている時はとてつもない熱を発しているらしく、体内に核反応炉のようなメカニズムを持っているゴジラのよう。そして身体の故障も精神的なダメージも寝る事で必ず復元する。つまり今もずっと子供みたいなw

レジリエンスねたと言えば東京タワーもそんな風に思う。日本が敗戦してから間も無くたった1年半の期間で建てられたのも、全国から鳶職人達が集まってやり切ったのはレジリエンスなエネルギーの集結なのだろう。そして高さは当時世界でNo. 1だったエッフェル塔より少しだけ高く、世界トップに。

"勝利"という文脈や、"負けない"という文脈が人を強くするのだろうか。確かに私も20代の頃は肩書きが命みたいな感覚で自身を走らせていた。会社の代表になり、港区に住み、経営者とばかり交流し、どこかで必ず他人と比較して勝ち負けのゲームという闘争を繰り返していた。だけどそんな邪念だらけの経営は長くも続かず、それでも人からどう見られるのかだけは手放せなかった私は、人前では何事もない様に振る舞い続け、、、そして肩書きとか本当にどうでもいいよね。と、しがみついていた自分を初めて客観的に見たとき、自分のアホらしさと自分にとって本当に大切なものが見えた。そして晴れて資本主義ゲームから離脱。逃走だ。

.....

22世紀の民主主義で、いくつか挙げられている構想は実際にそうなっていくのだと思う。ただここで書かれているのはあくまでもやり方の話しで、在り方ではない。時間をかけてやり方をシフトしていくのと、みんなの在り方がシフトされるのとを比較したら在り方シフトの方が短い期間でやれる可能性はあると思う。70年前と今とでは個人が目指したい人生のゴールは多様化しているけど、もしかしてそのゴールなんて取ってつけたようなゴールにすぎなかったとしたら、はたまた何かに牛耳られた執着からくるゴールに翻弄されているだけだったとしたら、そんな文脈からふと出てみたら、私たちは既にゴール達成のど真ん中にいて、皆んなでおめでとうを言いあっても良い気がするのだ。あーなったら幸せ。こーなったら幸せ。といつも何かが足りないと言い続けている在り方から、既に満足。既に満たされているという文脈にシフトする。

世界との競争、隣人同士の競争からとっとと離脱して、見えない鎖から解放し、麻痺した自由さを取り戻し、幸せを先ずは分かち合おうじゃないか。それでもやっぱり未来の政治家はネコで警察官はイヌで、困った人達はワンワンにゃニャンと言ってるかもしれないけど驚くことじゃない。





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