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オサリオ55世(17才) の幼少期

新年あけましておめでとうございます🎍オサリオ55世です。お久しぶりっこのnote投稿になりますがフォロワーがそこそこいることが驚きです。変わった人たちですね。昨年新型コロナで入院したことを書いたこともあり知らないお医者さん達も僕のフォロワーだったりします。

先月新たな17歳の誕生日を迎えたので、これを機に一度幼少期について書き留めておきます。

あなたは何者なの?

齋藤修と申します。僕の苗字を知らない人も多く皆にオサムちゃんと呼ばれています。2021年1月現在 Repro株式会社(リプロです。レプロではありません)でCOOをしています。※COOはちょっと おちゃめな お兄さんの略称

Reproは所謂デジタルマーケティングツールやソリューションの提供を展開する企業です。Reproが打ち出すカスタマーエンゲージメントを分かりやすく言うと「企業と消費者の相思相愛」関係です。つまりReproは相思相愛を生み出す為のツール、ノウハウとサポートを提供するデジタル時代の縁結びの神の様な存在です。神さまありがとう。僕に友達をくれて♪

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出生から幼稚園(天才としての覚醒)

僕は高度経済成長期の真っただ中に福岡県で生まれました。ザ・昭和生まれですね。今働いているReproはナウでヤングな企業なので平成生まれが主流だったりするんですが僕はバリバリの昭和生まれです。17才だけれども。

○出生

僕が産まれた病院では僕の泣き声が響き渡り、看護婦さんたちに「スズキのオートバイ」と呼ばれていたそうです。うぉんうぉんと爆音で泣いていたそうです。生まれた時点の住処(アパート)は今の福岡国際空港の近隣の福岡市板付というところですがここは全く記憶にありません。


○看護婦さんごっこと怪しい粉薬

記憶にあるのは志免町というところの剥き出し木造2K一階建ての田んぼの脇のぼろやに住んでいたところからです。隣の家のお姉ちゃんのジュンちゃん、ユミちゃんの二人に毎日おままごとで遊んでもらってました。

看護婦さんと患者さんごっこがお姉ちゃんたちのブームで田んぼとの仕切りのブロック塀でお煎餅を削った粉薬をよく飲まされていました。白いはずの粉薬に緑が混ざっていたのは今考えると苔ですね、うん。

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お煎餅を削って粉末にするには最高のブロック塀

○大水害

志免町では4才の頃に大雨による河川反乱がありました。夜中に雨水が床上まで流れ込み、寝ているところをたたき起こされ慌てて大家さん宅の2階に避難した記憶があります。父親にだっこされて移動したのですが身長180cmを超える親父のヘソ上まで水だったのを覚えています。調べると死者・行方不明者26人。被災者24,826人という大きな水害だったようです。 


○仮面ライダー自転車

自転車でどぶ川に落ちて近所のおばさんに助けられたこともありました。おばさんが通りかかるとどぶ川の中の泥がうごめいていて、それが僕だったそうです。全身泥水まみれで家に送ってもらった僕を母は水をかけるまで僕と認識できず、一緒に救出された仮面ライダー自転車で多分我が子かも!?って(笑) 水に縁のある子供だったんでしょうか。

今度実家で当時の家の前で撮った仮面ライダー自転車との写真を入手する

因みに郷ひろみさんは公称で福岡市出身になってますが本当は志免町出身です。郷ひろみさんと僕のゆかりはここからスタートしていたんですね。


○幼稚園ライフ(天才の覚醒)

最初の幼稚園はみそら幼稚園、お寺の中にある幼稚園でした。クリスマスにサンダーバード2号のおもちゃを貰ったのが嬉しかったのと週にに一度の焼きそばパンが美味しかったのがやたらと記憶に残ってます。

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そこから年少の時に転園。吉塚幼稚園に通いました。入園テストの時に薄いおもちゃ用のプラスチックプレートを見せられ「これは何色?」という質問に答える試験がありました。「赤」「青」「緑」などと答える中、最後のプレートで「オレンジ」って答えたときに女性の園長先生に「凄い!天才ね!英語出来るんだ!」と言われて自分が天才であることに気づきました。

天才覚醒の瞬間ですね。橙(だいだい)色の方が圧倒的に難しいけどそんな大人のテクニックを知らんかった僕は勝手に覚醒してしまいました。


○太宰府天満宮

年長になるタイミングで親が太宰府天満宮の近くに一戸建てを買ったのに伴い二度目の転園。太宰府天満宮の傍らにある太宰府天満宮幼稚園です。日々やんちゃな友達に砂場で砂かけられて泣いていましたが菅原道真公に見守られ、ここでもとても幸せな幼稚園生活でした。初恋のふみこちゃんとはたまにおてて繋いで(貰って)登園してました。

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大変お世話になった菅原道真公を祀る太宰府天満宮。この写真の左に幼稚園はあります。高校の通学時にもいつもこの写真の場所を通っており自転車を降りて 「 出来るだけ楽して志望大学に受かりますように 」ってお祈りしてました。 大変無礼であったこと反省します。まもなく大学受験の長男と高校受験の次男をよろしくお願い申し上げます。


小学校時代(トトロの世界)


○100年校舎
小学校は1874年開校の古い木造校舎の𠮷木(よしき)小学校に通いました。学校へは田んぼが一面に広がり、はる川という長閑(のどか)な小川流れる自然の中を1.5キロ歩いて通いました。

小学校1年、2年の時の担任の吉嗣先生や幼稚園、小学校の友達とは未だにお付き合い頂いていて福岡に行くと飲んだりしてます。45年の時を経ても時など流れていないかのように大笑いしながらお酒飲めるのは本当に幸せな事です。

吉嗣先生は今でも「修くん泣き虫やったねー」というので恥ずかしくて泣きたくなります。でも泣いちゃった僕を抱きしめてくれていた先生は今の僕からするととっても小さくて、きっと太ももを抱きしめるのが精いっぱいの筈なので僕はもう泣きません。

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もう実家はないのですが、福岡に行くと七才、八才の頃の担任の先生や幼少の頃の友人たちと今でも一緒にワイワイお酒が飲める僕はとても幸せ者です。

𠮷木小学校はとても長閑でした。校庭にある大きなくすのきの洞の中にはフクロウがいましたし、首に蛇を巻き付けて登校する上級生もいました。クラスでワニを飼う話が出ましたがある親の反対によりリスを飼うことになりました。しかし餌やりの一瞬の隙をついてリスはあっさり逃げ出し、その後数日は大きなくすのきの枝を駆け回るのを見かけましたがいつのまにか姿が見えなくなってしまいました。フクロウくんが犯人じゃないことを祈ります。校庭内には小川が流れ休み時間にはサワガニをたくさん捕まえてはリリースしてました。

○床が抜ける廊下

小学校6年の時どろけをしていて僕が理科室の前の廊下を走って逃げていると木の床が「みしっ」となったのを感じました。その直後、僕を追っかけていた学校で一番大きな和田勝人君( ↓ の中学編のキーマン)の悲鳴!「みしっ」ってなった床を突き破って廊下に足が突き刺さりました。あー笑った!みんなで大笑い!それほどの歴史ある木造建築だったのです。和田君が怪我しなくてホントに良かった。もちろん先生には「廊下走るからたい!」って怒られました。笑いながら怒ってましたけど(笑)

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トトロの世界のような小学校でした。大きく育った樹の植え込みは子供たちが昔から追いかけっこで中を抜けて走るため樹木のトンネルになっていました。

○怪物 王貞治
そんな小学三年生の時、王貞治さんに憧れていた僕は親にも言わず小学校に唯一ある「𠮷木オリオールズ」というチームに入り土曜日の放課後真っ暗になってから帰宅しました。親はとても心配しており、暗い時間に、しかも田舎道で外灯もあまりない中1.5キロ子供が歩いて帰るのは危ないと父親が近隣の同級生の親御さん達に声をかけてくれチームを作ってくれました。

○宮の森サニーズ

「宮の森サニーズ」の誕生です。太宰府天満宮のお宮の森にある住宅地の少年たちが一斉に参加してとても活発なチームになりました。毎週土曜日の放課後と日曜日は白球を追いかける日々。王貞治さんに憧れていたので一塁手をしていましたが大会になるとダブルヘッダー、トリプルヘッダー当たり前だったのでたまにエースの古西健君の代わりにピッチャーもやりました。王さんもプロに入るまではピッチャーでしたし。
先日ライバルチームの「阿志岐ジャガース」から中学野球部の先輩になった憧れの馬渡先輩と飲んだ時に「修のピッチャーの印象すごい残ってる」と言われコッパカバーナ並みにコッパズカシカッタです。もっと剛球投げれるようにトレーニングしとくべきだった。

この時のチームメートの天才ゴッツ(今はミュージシャン、絵画もすごい。球技も才能に溢れていた)や俊足で盗塁の達人のマサヤ君とは今でもたまにお酒が飲めてとても幸せです。

wikipedia引用「運動神経も良く少年野球の中軸選手として活躍。筑紫野市立筑紫野中学校の時に合唱コンクールの指揮者を演じた際、武藤の学生服が燕尾服に見えたと絶賛される」
とある通り、正に少年野球の中軸選手で合唱コンクールでは学生服が燕尾服に見えたゴッツ

○父

宮の森サニーズの初代総監督は僕の父親がなりました。監督とは名ばかりで礼儀は教えますが、口も出さずいつもニコニコと嬉しそうに僕らの練習や試合を見ていました。とにかく選手の子供たちの長所をほめる監督でした。昨今多い親ばか指導者とは違い自分の息子の贔屓は全くない、寧ろ他の子を試合に出すためには自分の子供をベンチに下げる本当にいい教育者でした。

宮の森サニーズは伸び伸びだけど勝負にもこだわる本当に楽しいチームでした。

今度実家で当時のサニーズ写真を入手する

親子試合や親同士の親善試合などがあると僕はいつも鼻高々。元ローマ五輪のオリンピック選手でボート(レガッタ)で世界記録も叩き出したこともある父は、打っては太宰府天満宮の鬼すべ堂の奥の山の中に消えていくホームランを連発するのですから。僕の尊敬対象は常に父と王貞治さんでした

○First Love

話は戻りますが小学校からの帰り道は常にエキサイティングでした。道をひょいと降りて「はる川」の石の下に手を突っ込めば魚が取れました。近くの大きな宝満川では大きな鯉を手づかみで捕まえました。

大きな恋だったらよかったのに

そんなこんなで恋愛などと無縁なまま、通知表は体育以外2だらけながらも小学校を幸せのうちに卒業して中学校に進学します。

○そう言えば習い事も

そういえば習い事は唯一書道をしてました。小学5年生で五段を取得しました。賞もたくさん取りました。五段を取ると同時に辞めてしまったので今や僕の文字はのたくったミミズレベルになってしまっていますが(笑)

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中学校時代(泣き虫キャプテン)


筑紫野中学に入ると迷わず野球部に入りました。寧ろ野球部に行くために中学校に通ったようなもんです。その当時は部活中に水なんか飲めません。意味もなくダイビングキャッチやヘッドスライディングをして顔を泥だらけにして顔を洗うふりして水をすする日々でした。この時代の野球部ではどこでも行われていた伝統芸ですね(笑) 

○青春の I feel Coke

部活後に同じ野球部の鬼木隆広くんと日吉直幸君と、学校から3キロ離れた田んぼの脇にある売店に寄り、500ミリ瓶ボトルのコーラやファンタグレープを夕陽を見ながら腰に手を当てて3人並んで飲むのが日々の最高のご褒美でした。ああ青春。コーラのCМに出来るわ。

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吉木から望む宝満山


○自由じゃない時代の自由

バケツに水や砂を入れてのヒヨコも今となってはいい思い出です。しかし今やったら顧問懲戒免職ですね(笑)。一方この当時にしては非常に珍しい野球部で長髪OK。寧ろリーゼントもパーマもちょっと茶髪もいました。卒業アルバムの野球部同期の写真、野球帽被ってて分かりませんが僕だけ坊主頭です(笑)

今度実家で野球部時代写真を入手する

○勝つ人とおさる

チームメイトには小学校1年生からずっと同級生で身長182センチの和田勝人君がいました。僕は当時152センチ。遺伝的に小5~中三初めまで成長が一時停止してしまうのです。

勝人君は正に文武両道、学業成績は常にトップ争い、野球ではピッチャー、キャッチャーをやりバッティングでは校庭の一番奥にあるバスケットボールのコートを超えたフェンスの先にある柔道場にホームランを打ち込むのです。全てにおいて勝つ人ですね。勝つ人君にかかるとおさむなんておさるです。

○新キャプテンは

3年生が引退した夏、大好きだった顧問の浜崎先生から新キャプテンが発表されました。

「キャプテンはおさむ」

はあ?ほへ?ほげ??? 冗談はよしこちゃんと思いましたが浜崎先生も副顧問の七俵理子先生も真顔です。だって身長もパワーも実力も頭脳も勝人君がすべて圧勝しているのに、僕なんか全敗の超「負け人」君なのになじぇ。

その晩帰宅すると両親の前でぼろぼろ泣きました。僕がキャプテンなんておかしいと、勝人君しかキャプテンにふさわしくないと。小学校時代からずっと運動会でもライバルチームでも勝人君を見てきた父も「うんうん確かに勝人君がキャプテンに相応しい。先生と話してみよう。」といって翌日中学校に来てくれて顧問の浜崎先生と3人で話しました。(今ならモンスターペアレンツとか言われる?)

職員室で顧問の浜崎先生、父と僕。父の「なんで修なんですかね?」の問いに浜崎先生は「卒部した3年生の総意です。新チームの同級生2年の意見も修君です」って。その途端わが父は一言「それなら修キャプテンやりなさい」って一瞬でスゲー変わり身(笑)おーい。とうちゃーん!

※和田勝人君は賢いからプレーに専念するためにキャプテンやらない根回ししてたらしい。(大人になって飲んだ時の後日談)

てなわけでキャプテンにされてしまったわけですがやんちゃな当時の中学生の事です、ある日僕以外のチームメイトは「練習だりー」って感じで教室で遊んでいてグランドに出てこない。僕は一人でやれることは走り込み位なんで校庭を何十周もランニング。していたらユニフォームに着替えたチームメイトがぞろぞろとグランドに出てきました。顔を真っ赤に腫らして。サンタさんのトナカイ並みに真っ赤なほっぺで。

放課後ひとりグランドで走り込みをしている僕を職員室から見た浜崎先生、脱兎のごとく職員室を飛び出し、かたっぱしから教室を見て回り見つけたチームメイト達にびんた祭りを開催したのですね。

「修をキャプテンに選んだのはお前らなのに何ばしよっとや!お前らは!」

と言われ天狗の団扇のような手で平手打ちを食らいまくったらしく、ごめんな修ってって言って一緒に走り始めました。青春ドラマやねー。スクールウォーズやねー。いい時代だねー。

○やんちゃな時代

その頃はハイティーンブギやビーバップハイスクール、そして尾崎豊の時代です。長ラン、短ラン、ボンタンの時代です。部活組と不良組にあまり境のない時代でしたね。ヤンチャな同級生の学ランの裏には竜や虎の詩集、いや刺繍です。ヤンチャ同士の抗争があれば正門の脇にバックネットがある野球部に呼びに来ます。「おい、朝倉街道のスーパーで二中の奴らと揉めとうけん加勢にこんや!」って。行きません。少なくとも僕らの代は、ですが(笑)

ヤンチャな同級生のチャリンコのサドルには喧嘩用チェーンが巻き付き、後ろには木刀が刺さっていた時代です。

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ビーバップハイスクール作者のきうちかずひろ先生は8才上で福岡市にお住まいでした。その当時の福岡のリアルですね。出てくる高校には実在モデルがあります。

○中学最後の夏

そんなこんなで迎えた最後の夏の大会。練習試合では全く歯が立たなかった他チームを和田勝人君の快投、鬼木隆広君の高速打球、へっぽこスイッチヒッター修のヒット、快速ランナー日吉直幸君の決勝生還などなどが続き、あれよあれよの快進撃で中学野球を締めくくれました。

引退試合となった最後の試合も終盤までリードしていただけに悔いはあるけど抜擢してレギュラーにした後輩たちがその負けを糧にしてまた結果出してくれたようなので嬉しいことです。

そして初戦で戦った、(練習試合では勝ったことなかった)強豪の学業院中学野球部キャプテンの松島君が同じ大学の体育会応援部に入部していて体育会仲間として再会したのも不思議な縁です。(僕らの代の応援部団長)

高校・大学編につづく。。。かな?

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