ゲーム音楽におけるメロディの力(1/3)
メロディは日本のゲーム音楽の象徴であり魂であり歴史そのものです。名作と言われるゲームのプレイ体験は印象的なメロディと共に記憶されていることがほとんどではないでしょうか。オリンピックの開会式では日本のゲーマーだけではなく多くの海外のプレイヤーもとても興奮したことでしょう。
一方で最近の北米やヨーロッパ圏のゲームをプレイしたり映画を見ていて「メロディが印象に残らないなあ」と思った経験のある方、結構いらっしゃるんじゃないかと思います。この記事ではSNSでも度々話題になるゲームにおける劇伴、BGMにおけるメロディの扱い、メロディと没入感の関係性について僕が個人的に今後より大事になっていくと思うところをまとめていきます。あくまで思うところのため、文末が「思います」で終わることが多いです。
作曲家同士で改まってこういった話をする機会は意外と少ないので皆どんな風に考えてるのか興味がありますし、楽曲制作を依頼する立場の方にとっても何か気づきに繋がれば嬉しいです。
この章のまとめ
ゲーム音楽におけるメロディはゲーム体験を鮮烈に印象付ける力を持ったツールですが、その強力さ故にゲームへの没入を阻害し得るので気をつけたいという話です。
メロディがもたらすもの
メロディはそれ自体がハーモニーを示唆したりリズムの要素を持っており、ハーモニーやリズムと比較した時により強く耳(集中)を引っ張る力があると僕は考えています。言い換えると、音楽が鳴っていると認識させる力、フックを強く持っています。
人間は耳から入ってくる情報をあまり多く同時に処理できないため、メロディの主張が強ければ強いほどその他の音の情報への感度は相対的に下がっていき、台詞や効果音は頭に入ってきづらくなります。音楽制作において目立たせるパートを3つも4つも作れないのと全く同じ原理です。
メロディの強弱
メロディと一言に言ってもそこには強弱が存在します。音数が多かったり跳躍の幅が広かったり、中高域に音符が集中していたり他の2要素(ハーモニー、リズム)の変化と結びついた時にメロディの強度は上がっていきます。分かり易く言い換えるとキャッチーになっていきます。キャッチーさが高ければ高いほど上述の耳を引っ張る力は上がっていくと考えて差し支えないでしょう。
没入感とは何か
没入感とは読んで字の如く、ゲームなり映像作品なりに没頭しのめり込んでいる感覚を表す言葉です。没入感を実現するための要素については僕がその分野に詳しくないため深く言及するのは避けますが、一つ重要なファクターとして「演出に違和感が無いこと」が挙げられると思います。
音以外の分も含めてゲームで没入感を削ぐものの例を挙げると、
・キャラクターのモーションが不自然
・舞台に生息していないはずの生物の鳴き声がする
・キャラクターのセリフの掛け合いが噛み合っていない
・画面UIの配置と視線誘導が不適切
・画面遷移のルールに一貫性が無い、UIの階層が深過ぎる
・本筋と関係ないこと(道中のアイテムを拾う等)のための操作が煩雑
などでしょうか。こうした要素があるとゲームの世界と自分(現実世界)の間に一枚壁が出来てしまいのめり込むことが出来ません。
メロディは没入を阻害しうる
上記の要素を鑑みた時、実はメロディも没入を阻害する要素であることに気付くと思います。ここで重要なことは2つあります。
・没入はメロディによって意図的に阻害しても構わない
・ただし四六時中没入を阻害するような音楽は演出のバランスを崩す
僕はそこまで没入至上主義というわけではなく、また人間の没入、集中は数時間も続くものではないため、ちょうどよいタイミングでメロディでユーザーの没入を切ってあげることはゲーム体験全体のメリハリを考えてもとても重要なことだと考えています。
ただし効果的にメロディで没入を切るためにはBGMの有無やBGMの音数、演奏の強弱にかなり注意を払う必要があり、常時フルアレンジのBGMが鳴っている状態にいくらメロディを足しても没入を切るのは難しいでしょう。いや、そんな状況ではそもそもユーザーが没入してすらいないかもしれません。その場合ゲーム全体のラウドネスの分布も一様になり効果音やボイスに抑揚をつけるのも難しいため、音演出全体のバランスが崩れるか単調なものになってしまいます。
若干誇張したイメージ図を出すとこんな感じです。
次章について
メロディがゲーム音楽で重視されるようになった背景について考察しつつ、メロディを使わないゲーム音楽はどうしているのか、メロディが強すぎるとユーザーにどのように受け取られるのかについて触れていきます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?