取り調べ可視化、一部で義務化の司法改革は不公正ではないか?

 少し前に以下の記事をクリップした時、日本の取り調べもこれで少しは進んだというものかと思えたものだったが、取り調べに弁護士が同席できるでもなく、いきなり「司法取引」に進んじゃうのはどうなんだろう、という疑問はあった。気になった部分を少し自分の中で解決しておくことにした。

 NHK記事は直ぐに削除されるので以下にコピペした。

取り調べの録音・録画 義務化の法案決定(参照
3月13日 10時32分
取り調べの録音・録画 義務化の法案決定
政府は13日の閣議で、取り調べの録音・録画を裁判員裁判の対象事件や検察の独自捜査事件で義務化するとともに、新たな捜査手法として、いわゆる司法取引を導入するなどとした刑事司法制度改革の関連法案を決定しました。
刑事司法制度の見直しは、厚生労働省の村木厚子さんが郵便の割引制度を巡って、うその証明書を作成した罪に問われて無罪が確定した事件で、密室での取り調べで検察が描いた構図どおりに村木さんの部下の調書が作られたことや、大阪地検特捜部による証拠の改ざんが明らかになったことなどをきっかけに議論が始まり、政府は13日の閣議で関連する法律の改正案を決定しました。
このうち、刑事訴訟法の改正案では取り調べの録音・録画について、裁判員裁判の事件と検察の独自捜査事件を対象にすべての過程で行い、3年がたった段階で対象の拡大も含め制度の見直しを検討することを義務づけるとしています。
また、新たな捜査手法として、一部の経済事件や薬物事件などを対象にいわゆる「司法取引」を導入し、容疑者や被告が他人の犯罪を明らかにする供述をしたり証拠を提出したりして捜査に協力した場合、見返りとして検察が起訴を見送ったりすることができるなどとしています。
さらに、検察が被告に有利な証拠を隠したりしないよう、公判前整理手続きで被告側が請求した場合検察は原則としてすべての証拠の一覧表を開示することや、国が弁護士の費用を負担する国選弁護人制度の対象について、懲役3年以上の罰則がある事件に限られていたのを、容疑者の身柄が拘束されるすべての事件に拡大することも盛り込まれています。
一方、捜査機関に電話やメールなどの傍受を認める通信傍受法の改正案では、薬物犯罪などの4つの類型の犯罪に限られていた通信傍受の対象に、振り込め詐欺や組織的に行われる窃盗や誘拐なども新たに加えるとしています。政府は刑事司法制度改革の関連法案を今の国会に提出し、早期に成立させたいとしています。

 この改革で導入されるのは、「司法取引」と「通信傍受の対象拡大、その手続きの簡素化」で、その対価として「取調べの一部可視化」が義務づけられることになる。これだけだと「司法取引と取調べ可視化のバーター」なので、公平とも感じられた部分だが、よく考えると、とんでもなく警察と検察の権限と裁量が拡大されるんじゃないかと疑問に思った。その部分を引き出してみる。

 まず、可視化されるのは裁判員裁判と検察独自捜査の事件に限られている。それがどういう意味かというと、そもそも刑事事件全体の3%以下なので、被疑者の人権が担保される部分はごくわずかになる。そうは言っても、現実に通信技術の進歩に伴う犯罪や組織的な犯罪の複雑化は、捜査手法の転換の必要性も問われるし、おそらく法改正も必要になるのは理解できる。だが、問題は、これにともなった条件が整備されないことだと思う。

 これまで散々書いてきた通り日本の三権分立は未成熟で、特に行政の従属下に置かれているため、司法の独立性が保たれていない。

 行政である捜査当局から捜査令状や逮捕令状の請求が出れば、裁判所は、ほぼ100%受諾している。市民としては当たり前にこの様子を「容疑者逮捕」と報じられるまま理解してきたわけだが、今まで数多くの冤罪や誤認逮捕があったように、これを当局に任せていることが大きな問題だと、認識も変化してきた。本来なら、人権の保護や捜査当局の行き過ぎに対するチェックは裁判所に任されるべき機能だと思うが、そこを改革せずに通信傍受の対象だけを拡大するということは、警察に市民を監視する権限を付与する事になる。米国ではスノーデンが暴露したように、極当たり前に、治安維持を目的として国が市民を監視している。が、市民の権利を担保する裁判所がこの正統性を判断する点で、日本は遅れている。米国と同じではない。

 条件を整えるとしたら取調べ可視化を全件に適用し通信傍受の適正チェックの強化、弁護人と被疑者の接見自由化などが上がる。結果的に保釈率は向上すると思う。「保釈率の向上」は、警察や検察の汚名でもなんでもない。そういうタブー視がまだ日本には残っているかに思われてならない。

 人権保証が手付かず状態で不十分にも関わらず、通信傍受の対象だけを拡大し、傍受の関係事業者だけが同席できるなどという現ルールをさらに緩和するような法案だと、私は見ている。

 当初、この法案によって改革(民主主義)が少し進むと勘違いした理由は何だろうか?自分の迂闊さが計り知れない。まったく。報道のせいにしているわけではないが、この暢気さというか、まったく。

 戦後の日本にもたらされたデモクラシーや自由、権利は、自ら勝ち取ったものではないことに起因しているんだろうか。GHQによってもたらされた物が失われていくだけにすぎないのだろうか。もともと無かったというか。

 因みに、ブラジルの反政府デモがものすごい勢いだ。思えば、あのような渦に自分を投じたこともなく、熱くなったこともないなあ。心からこみ上げてくる物がどうも違うんじゃないだろうか。

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