母との究極の話

 noteに書くのも久しぶりになる。あえて書かなかった。個人的なことだからこそここに書いてきたはずなのに、これ以上は書きたくないという気持ちになっていた。どうしてネット上の場所で書こうという時、自分にそういった線引ができてしまうのか、そのことを整理していると今日、せっかく書こうと思っていることが書けそうになくなる。まあ、それで大概のことは書かないで終わる。

 さて、母が久しぶりに諏訪にやってきた。今年の11月で90歳になるというのに、一人でデイパックを背負って電車でやってくる。迎えに行くからと言っても、自分で行くから大丈夫と言う。今回は、グリーン指定の券売所が大勢の乗車客でごった返していて、順番待ちできず、とうとう乗りたい電車の時間ギリギリになってしまい、入場券で電車にとりあえず乗ったとのこと。乗った先の指定席車両から自由席車両へ、電車が発車してからフラフラ歩いて移動したらしい。自由席車両も満員で、人がところどころに立っていたらしい。空き席を探すのを諦めて立っていたところへ、どこまで行くのか尋ねられ、「上諏訪まで」と言うと、その人は、茅野までだという。すると席を譲ってくれ、ずっと座って来たのだそうだ。その話を聞いている私達家族は皆「親切な人がいてよかったね」と、ニコニコで、母が無事に快適に諏訪までこれたことを素直に喜んだ。

 二泊する中、大好きな峠のラーメンを食べに行き、念願だった子供たちの奉納相撲を観覧し、お祭りに繰り出してビールを飲むなど、老人の一人暮らしでは味わえない夏の一時を過ごせたようだった。私が諏訪に住み、娘家族と一緒に過ごす中、四世代家族の醍醐味というか、格差で露呈する様々な笑えることなどが満喫できたのは良かったと思う。で、この調子なら来年もまたお相撲を見に来るといい出すのかと思ったら、来年は、人に迷惑をかけるから来ない、ときっぱり言い切った。ここが母の思考のわからないところではある。

 理由を聞くと、前段の電車のことだった。他人から席を譲ってもらって助かったその御礼に、北海道から取り寄せて孫達のお土産にと持っていたハスカップのビスケットサンドを差し上げてきたとも言いながら、その御仁には感謝の気持ちを示したはず。確かに他人に気を使わせて席を譲ってもらったし、それを「迷惑をかけた」と言うならそうだと思うが、だからといって、母の行動が年齢に相応しくなかったとは思えない。日本社会は老人社会と言われ、老人に配慮する人もいれば、しない人もいて、後者の場合、年相応の体力でどこまで何ができるか、推し量りながら進めていくというもの。そういう取り組みの中で、少しずつ外れていくことが増え、次第に家に籠もる様になり、臨終を迎えるというものだろう。

 母のこの気遣いは何だろう?他人に遠慮して自らの身を引くということなんだが、親切をありがたく受け取っていたら、もう少し図々しく、誰かが席を譲っってくれるかもしれないという軽い気持ちで出かけたって良さそうなものだ。席を譲ってくれた人に感謝の気持ちを示しながら実際は、その人の前で座り心地の悪い、心は言葉とは裏腹に、自分が他者に席を譲らせるほど老人になったことへの抵抗があったのと違うか?その心地悪さを何度も経験したくない母なのだと思う。母は、そういう人。変に気丈。私に言わせると、プライドが高く、老人だからといって親切にされたりすのを受け入れるのがとても苦手な人。譲ってもらった席で座りながらそういう思いがあったに違いない。「来年はもう来ない」と、電車の中でそう決めたのだろう。孫達へのお土産のハスカップのビスケットサンドをおもむろにバッグから出しながら、ここの文頭の話が、到着後間もなく始まったというわけだ。

 実は、これがこのnoteの本題ではない。これに関連して、母がいよいよ介護福祉サービスのお世話になるという判断を下す時の話が本題だ。

 「私がいよいよという判断をしたら、清水の施設だから」というのである。清水の施設というのは、父の腰の圧迫骨折後の療養とリハビリを兼ねて、母の妹の長男が経営するクリニックと介護福祉施設のことだ。父が約一年、お世話になったため、もちろん母がそこへ行きたいというのであれば問題はない。が、父のときのように月に一回、従兄弟たちもよ呼んで一緒に食事をするための準備をし、清水へ面会に行くなど、同じようにはできなくなっている。私のパン屋が順調に顧客を増やしているため、それに答えるべく、毎日、忙しく釜を焼いている。やっと自分の老後の暮らしがリズムに乗り始めているため、清水まで足を運べないことは母にもわかっていた。ではどうするか?母に諏訪の施設に入所してもらえば良い話だ。簡単にそれをオーケーするはずもないとは思いつつ、言ってみた。しばらく考え、父のときのことを思うと、私の都合に配慮してくれればいつでも必要な時には出向くし、孫達は、きっとその頃は自転車で面会に行くだろう。それが一番助かる。が、母はというと、「あんた、私のことが嫌いでしょ」と、聞いてきた。「はあ」実は、母への思いはここでずっと書いてきた通り、好き嫌いの問題と言うよりは、感性が違うためか、全く合わない。というより、母の感性について、私はよくわからない。電車の一件でも分かる通り、嬉しいと喜んでいる人が実は素直に喜んでもいないし、人に親切にする母ではあるが、一から頼まれ、拝まれても、嫌なものは嫌だと首を縦に振らない人。情に絆されるタイプではなく、べき事を在り方としてこなす人なのである。だから、気持ちが読めないのもあるが、母の言葉をそのまま信じるとひどい目にも合う。悪気はないようだけど、こちらとしては非常に傷つく。

 話を戻すと、嫌いだったら、だったら何?の件だが、母曰く「嫌われている人に老後の面倒を見てもらうのは嫌だ」「また、いざこざがあると嫌な思いをするハメになる」というのだ。自分の親をここまでとは知らなかった。言い換えると、自分を好いてくれる人ならその人の面倒になるって話になるけど、他人のことなら一肌でも二肌でも脱ごうと言う人(母)が、自分のこととなると、一肌脱ぎましょうと言う人の世話にはなりたくないと。自分に対する敬意もない人の世話には成りたくないということだわな。

 呆れたけど、父の時と私自身の状況が違うので、折れる折れないの話ではないし、諏訪の施設に来てもらえれば母の言う「迷惑」は最低限になると言うのにだ。究極、自分の死をどこでどのように迎えるかという話になって初めて母の自我が目覚めたというか、とんでもないことを思う人だと感じた。90歳になるまで自我に向き合わず、在り方と表面の良さ、犠牲的精神、欺瞞で人と接してきた結果、死を迎える時は私の勝手だからということだろう。私の長男に間貸しを頼んでも突っぱね、一人で気楽にいるという姿に転じたのも皆、自らの死期を感じる歳になってからのことなのだろう。哀れといえば哀れな姿である。老人が豹変するという話で、脳が萎縮して堪え性がなくなったからということがあるが、このように変わってきたのも一理あるのだろうか。

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