人生の節目に思う

 生きて過ぎ去ってみて振り返ると、あの時は節目というものだったなあと言えるが、実際、その時は必死でもがいていただけという印象でしかない。人によって節目というのはいろいろだと思うが、結婚、出産、子供の巣立ち、閉経というイベントを経た。女としての私の人生をこのようなイベントで見ると結構わかりやすい。反面、男性はどうだろうか。結婚前も後も、自分自身が関わったイベントは、仕事しかないとも言える。これは我が家の例ではある。男性でも、自営業となると生活に仕事を組み込むようなスタイルになるんだろうか。男性が家事をこなす家庭は多く存在すると思うが、それでも、イベントとして自分が出産して子育ての主体になるわけではなく、どこまでも脇役だと思う。

 なぜ、こんなことを唐突に思うかと言うと、父が認知症だと昨年、はっきり診断されてから急に、自分の90歳(仮に生きたとして、父の年齢との単純比較)はどうなっているかなどを思うようになった。そして、デイサービスに一日置きくらいにお世話になる父を送り出す母の暮らしぶりなどを垣間見、夫婦がどうなっていくのか、最後まで見届けることになりそうな私は、我が事として観察しているのである。

 定年まで一生懸命働いた父には趣味が沢山あり、ご本人としては、暇も潰せたし、友人もそれなりいて楽しい時間もたくさんあったはずだが、家にいるようになって、家での自分の居場所というのはそうなかったのかもしれない。その父が、母よりも早く幼児化している姿を、そうとは受け止めきれない母に取って、同居は、ストレスの原因でもあったに違いない。父がデイサービスにお世話になるようになってから、すっきりさっぱりと過ごしている。父があてにならないとなった途端の昨年暮れ、シルバー人材センターに依頼して、家の外構部をすっかりお掃除してもらっていた。

 夫婦が美しく介護する生活像などあり得ないという現実を私の両親の暮らしぶりから感じ取り、さて、私の最後はどうしたものかと考え始めた。いつ何時、何が起こるかわからないわけだが、その最悪の状態が実は、描けない。いろいろな迎え方があるし、その前段に考えうる状態がなんパターンも有り、整理できないでいる。

 その中で一番、考えつかなかったことに、自分が認知症になるというのがある。そして、夫がその世話をするという、これもまた考え及ばなかったパターンだ。毎日新聞記事だが、こんなタイトル「<介護家族>追い込まれる男たち 「仕事と同じ」過信し」(参照

介護殺人事件の約7割は男性が加害者だった。介護でつらい思いをするのは男女とも同じだが、介護現場では男性特有の悩みや苦労もあるとされる。認知症の妻に暴力をふるっていた兵庫県の80代男性が振り返る。「仕事と同じ感覚で、介護も完璧にこなせると勘違いしていた」【「介護家族」取材班】
 2007年にアルツハイマー型認知症と診断されてトイレにも行けなくなった妻を、男性は一人で介護していた。ある日、便で汚れた妻を入浴させようとしたが、暴れるように拒んだ。妻をひっぱたき、無理やりに浴室へ連れていった。他にも介護がうまくいかないと、妻に手をあげた。妻が認知症になるまでは暴力などふるったことはなかったという。
 男性は建設会社で定年まで約40年働き、現場監督として数十人の部下をまとめていた。欠陥のない仕事をし、従業員の安全も確保するため、決められた手順を厳守してきた。妻の介護でも1日の計画や手順を細かく決めた。しかし、介護は思い通りではなかった。
 朝起きると、妻がおむつから便を垂れ流し、部屋中の畳が汚れていた。深夜には突然起きて奇声を発した。降ってわいたような出来事に、男性は頭が真っ白になり、落ち込んだ。次第に妻にいらだつことが多くなり、いつの間にか手をあげた。
 男性は誰にも相談しなかったが、疲れ切った姿を見かねたケアマネジャーに強く勧められ、妻を施設に入れた。経済的に余裕があったこともあり、施設が見つかるのにそう時間はかからなかった。

 この記事を読んだ時すぐに思い浮かんだのは、長門裕之が認知症になった奥さんの南田洋子を介護して看取った後のインタビューだった。役者だし、マイクの前でも役者だったのかもしれない。長門は、涙しながら南田が良く生きた事を賞賛していた。自分の介護の大変さは一言もなかった。その後の対談でも同様、自分の話は一切なかった。南田が「美しい女優生涯を飾った」で、終わりにしたかったのかもしれない。ウソっぽい夫婦のようにも感じたし、不自然だった。

 話は変わるが、フランス映画の「Amour」は、有名ピアニストの夫が認知症になった妻を介護するという筋だったが、夫は進行した認知症の妻に我慢できなくなり、枕を顔に押し当てて殺害してしまう。娘は時々訪問したが、いかに順調に介護しているかを装い、日記まで嘘で固めていた。これが、日本で今起きていることではないか。前段の記事にあるような現実が、そのままフランスでは映画化されている。介護などは美談でもなんでもない。現実の人間の姿をそのまま映し出していたフランス映画のメッセージをやっと受け取った思いがした。日本は美談として修辞してしまうが、その修辞で自分を苦しめ、耐えられなくなった自分自身が殺害に至っている。

 この現実から何をどう導きだしたら良いのかが今、考えることではないのか。修辞で現実を包み隠したり、死に向き合うことを恐れるあまり、目前の現実を見ないようにすることではない。

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