「集団的自衛権容認の閣議決定」をどうみるか、雑感

 集団的自衛権の行使容認は、日本が戦争をしていない静かな時を選んで法整備されたというのが個人的な理解で、日本が戦争をする国になることを意味しているとは考えていない。でも、時代の大きな分岐点となるような気がしている。単に突然表面化した課題ではなく、1990年代以降の国際情勢や日米関係の変化がめざましく、国家戦略の変更を余儀なくされた結果だと思う。気がかりは、その変化の方向性や現れ方が、内治のための防衛ではなく、積極的な介入主義だったとしたらどうだろうか。ここからはちょっと妄想。
 なぜこのような仮設をするかというと、仮に官僚が法整備の必要性を政権に強いているとしたら、安倍さんが声を大にして「日本が戦争をする国になるわけではない」と言いながら、集団的自衛権を現政権のでき得る限りの解釈で変更をしたのか、その理由があまりはっきりしていないからだ。世間ではその曖昧な隙間にツッコミを入れ、憶測を走らせているように感じる。
 中国脅威論が強まり、アジアでの孤立が深まると、日本政府や自民党内で「見捨てられる」懸念が強まり、その結果、「同盟強化」と「対米貢献」が声高に叫ばれるようになった。ところが、日本が防衛力を増強し、軍事同盟を強化して海外派兵の兵力や頻度を上げようとすると、アジアの緊張が高まってゆく構図に陥っている。これを同盟のジレンマと思っていた。が、米国にとっては中国は今や敵対者ではなく、米国債の最大の引き受け手であり、最大のスポンサーになっている。日中間で緊張が高まれば高まるほど、米国にとっての日米同盟の価値が下がる事になる。つまり、同盟コストとリスクが上がる状態になっている。
 90年代以降の国際情勢の変化で、日本は日米同盟を基板に「力による大陸封鎖」路線と、国連協力とアジア協調を主に、「集団安全保障体制の構築」の二つの選択肢が遡上に上がったが、90年代半ばには外務省から国連中心主義派がパージされ、前者に傾倒した。日米同盟堅持という路線は、政策転換にかかるコストが掛からない代わりに、同盟を維持するコストが高まり、政府としては、その同盟コストを支払うために、米国の世界覇権維持に対する協力強化を採るほか道がなかった。
 この点で旧(戦後)左翼内では「集団的自衛権は米国の要求で、日本の従属を示すものに他ならない」という論調が強くなったが、私は、同盟を維持するがための積極的な集団的自衛権の行使で、米国との協調を主体的に行なうというもの、と理解している。「米国の要望に応える」受け身姿勢では無い。だが、「同盟のジレンマと非対称性」で矛盾が生じているように、安倍政権が、安全保障体制を強化すれば、アジア諸国との緊張を高める結果となり、「日米同盟強化」「集団的自衛権の行使」という選択肢をとったことになった。果たして、そこがそうかどうか、本当にわかりにくい。
 米国が孤立主義へと回帰しつつある中で、その穴を埋めるように日本が積極介入を採るという戦略がこの先にあるんじゃないか、と私の猜疑心が顕になる。
 書いていて気づいたが、このような「妄想」は、政権への猜疑心や不信感が根底にあるようだ。

 この「妄想」が、妄想でもないと思わせるような問題が世界には起きていた。それを知ったのは、オランダのPKOが、オランダとしては国際平和維持のための国際紛争への積極的関わりだったはずが、状況を見極めていない手薄な軍事力の行使によって、虐殺を認めざるをえない判決を受けたというのだ(参照)。とても興味深いし、日本が直面しそうな問題だと感じた。いや、他人ごとじゃないぞ。


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