「勤王の志士」の続き

 「イスラム国」への志願者を「勤王の志士」と例えて先に書いてみたが(参照)、どうもしっくり来ない。それという元の理由は、イスラム教そのものを理解できていないからだとは思う。その理解を少しでも進めるために紹介のあった「イスラーム文化 その根柢にあるもの」井筒俊彦(前編後編)も一応は読み、文字面かも知れないがその理解はできているつもりだが、それと、日本の若者がノコノコと神田の書店の募集広告で「イスラム国」に志願してしまうという安易さ「日本人イスラム国兵士志願問題が微妙に面白い」だったり(参照)馬鹿さだったりと思うと、それらがどうも結びつかない。イスラム教の本当のところを私が語るものでもないが、このような若者への私の理解はどうなんだろうかと思うと、どうも彼らのその動機は、私の思惑とは違うやに思われる。

 他人の行動や思考を私が理解できないと感じる時、二つくらいのパターンがあって、一つは、勉強不足や理解力不足だけの場合。もう一つは相手が明らかに「おかしい」場合だろうか。イスラム教に関して深く勉強したこともないが、ただ、たぶん世界の多くの人と同じように、民主主義が最悪よりはマシな政治形態として支持すべきと考えているし、思想が異なるというだけの理由で殺害されたり奴隷にされたりすることは許されないと考えている。世界の多くの人々にとってそれが許されないというのであれば、普遍的な価値と判断できることには自信がある。これに対して明白に反している「イスラム国」のやりかたが理解できないのは、私のせいではなく、相手が「おかしい」と言ってもいいと思っている。ところが、その「おかしい」集団に若者が参加するとなってみて、かなり困ってしまった。

 イスラム国自体がおかしい集団だと断定できても、それに参加する若者の気持ちにはもう少し理解を深めないと、なんていうか、若者の独特の心理や正義感にはケミストリーのようなものがあるのかもしれないし、それを正しく理解しないと、問題の大部分を理解することができなくなるのではないかと悩んでいた。そこで北大生の事件が持ち上がり、その労力に限界が来たような気がしてしまった。

 就活に失敗したからイスラム国に参加するというような論理は、あの揚子江を飛び越えた学生だろう。「イスラム国」に参加するというのは、例えば、彼らの魂に我々凡人に計り知れないような神様との深い契があるのかもしれない。としても、事実は、無辜の民を殺し、レイプし、略奪し、あるいはそれを支援するということと同義ではないのか。

 就活という既存社会体制に従属しようとその直前まで考えていた若者が、いきなり既存の現実社会を根底から否定するような活動に参加しようするところは実は、今回の事件で一番恐ろしく感じた。また、思想の浅い平凡な学生がこうなってしまうことだ。これは氷山の一角であり、予備軍が控えているという示唆ではないかな。普通に目先の希望を失ったような若者を引き寄せてしまう、そういった恐ろしさを感じた。なにせ神田の古書店の張り紙を見てだ。ちょっこしバイトに行くぐらいの気持ちだったんだろうか。

 もしかしたら、世界中にはこれと同じレベルで参加する若者がわんさといるのかも。前にも書いたが、イスラム国の持つ何となく理想主義的な風味に誘われて、かつてのオウム真理教や日本赤軍みたいなものに似ているのか、若者というのはそういうものに惹かれやすいのだとは思う。自分の行動がどういう帰結につながるのか、26才にもなってわからないただの阿呆学生というだけならまだしも、就活からイスラム国参加という、これほど大胆に論理を飛び越えられるなら、揚子江といわず三途の川を飛び越えて幸せな世界に旅立ってもらってもなどと、見捨ててしまえばいいのか?彼らの価値観と我々のおそらく大多数を占める人々の価値観とが折り合いのつかないレベルになり、彼らが牙をむいてきた以上、徹底的にやるしかないんだろうか。

 この学生が応募するきっかけとなったのは(報道によれば)、神田の古書店のシリア行募集の張り紙だったが、それを仲介しているのが元大学教授らしい人物。「イスラム法」の権威とあったが、この属性に偏見を持つと本質を見誤ると思った。て、私が本質を見極めたかどうかは定かでもないが、報道から客観的に、イスラム国のシンパでしょうし、イスラム国が犯している行為の共犯者とも言えそう。

 朝日新聞に次のようなインタビュー記事があった。(一部抜粋

 ――学生の渡航にどう関わったのか。
 「学生がトルコに着いたら、『イスラム国』側に連絡する予定だった」
 ――事前の連絡は。
 「『イスラム国』の司令官と『その頃に行く』『大丈夫』というやりとりをした。司令官には、学生は(旅行者でなく)移住者として行くと伝えた。移住者のほとんどは戦闘員になる」
 ――どんな思いでこういうことをしたのか。
 「人生は面白く生きて面白く死ねばいい。死にたいという人には『いいところがある』と伝える。ただ、普通は実際に行かないだろう。私は『イスラム国』に忠誠を誓っておらず、勧誘もしていない」

 これは、イスラム国の兵士の募集行為でしょう。

 既存のイスラム教系国家はISを完全に否定していて、彼の研究するイスラム法がISを理論的に支持するゆえ、この元教授がイスラム国の戦闘員募集のお手伝いをするということは、彼の研究対象のイスラム法は、既存のイスラム社会では適用されていない亜流の思想に過ぎないということでしょう?

 「法」というのは、現実の人間社会に当てはめてそれが所属する人々に支持されてこそ権威となる。本来は、みんなが納得して守ろうとするものでなければ法とはいえないのでは?この元大学教授の主張する「法」は、法の持つ本来の意味を無視したものであって、イスラム法学者という肩書きですら適切とは言えないのではないかと思う。つまりイスラム社会を含めて、世界を敵に回すような内容を信奉する「法」は、単に過激思想でしかないかと思った次第。

 「学問の自由」は守らなけれるべきだが、その学問の結果、だからと言って過激行為を支援するような人物はどうしたものか?心情的には放置できないのだが。また、上記インタビューの内容から、この人は非常に無責任な大人だと感じた。私の価値観では、若者の将来を考えれば、その甘い考えを諭すくらいが大人としての対応なのに、世界が「敵」と認定した「イスラム国」に参加する手助けをする著名な研究者とは、それこそが危険極まりない。

 日本も一応、法治国家であり、できることは限られているが、従来の法律の枠では捉えきれない事象、例えば危険ドラッグや危険人物は何とかしないと。


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