「集団的自衛権容認の閣議決定」をどうみるか、続雑感

 集団的自衛権の行使容認で考え進める内に、米国が孤立主義へと回帰しつつある中で、仮にその穴を埋めるように日本が積極介入を採るという戦略がこの先にあるとしたら、いろいろなケースが考えられる事がわかった。実際に8000人以上の民間人が虐殺された「スレブレニツァ虐殺」で、300人分の虐殺の責任はオランダPKOにあるという判決が出たことには驚いた。かなり複雑な状況下での国際支援だったようだが、この事件は、国際社会が関わるとしたら、軽度の装備では救済にならないという戦下の現実を物語っている(参照)。日本が「積極的平和主義」をもって戦争に自衛隊を派遣し、人道的立場で国際支援を勝手出る時は、フル装備で、場合によっては撃ち合いによって人命救助に当たるケースを想定しないでは参加すべきではないということになる。
 ここで問題になるのが、日本は戦争には加担しないと言っても、武器を使って人命救助をするという行為そのものは、戦争全体の一部の行為でもあるが、それでも加担するのかどうかだと思う。例えば、昨日、イスラエル政府はガザ地区に地上部隊をついに送り込んだが、この背景を垣間見るに、イスラエル攻撃の為にハマスによって掘られた多数のトンネルを崩壊させるのが目的だという。つまり、守るために攻めるのである。ここが日本の今の平和憲法との大きな違いだ。ところが、憲法解釈の変更をすると、「積極平和主義」では、オランダPKOのように人道的支援に参加する為に、フル装備で守りにいくということだ。守るために攻める行為を是としないわけには行かなくなるわけだ。すると、解釈を変えただけでは不充分ということになる。
 いよいよ憲法改正へと駒を進めざるを得なくなる。
 ここからは妄想ではあるが、現実化するならばかなりシビアな内容だと思う。
 天皇制と憲法9条の関係がまずネックになる。話は、第二次世界大戦まで戻るが、日本はポツダム宣言を受諾して降伏したわけだが、その主な条件は、日本の民主化と武装解除、軍国主義の排除だった。
 大日本帝国憲法は、完全に免責された天皇が唯一人主権者だったが、実際の運用は輔弼者が行うとされた。また、その輔弼者は天皇に対してのみ責任を負う上、それらの権限は多元化されていたため、統率が困難な構造になっていた。その基本となる憲法をどうするかが課題になり、GHQとの交渉を経て、権威主義的な大日本帝国憲法を廃棄するのではなく、憲法改正という手段によって民主的憲法の導入に至った。その根底には、GHQ側が日本の旧軍や右派勢力への過大視があり、共産主義勢力に対抗する意図もあって天皇制の維持が容認された。最終的にはマッカーサー草案が作成され、これによって主権をはく奪した上で象徴天皇制へ移行する方針が固まったが、権威主義の一部温存を容認する代償として、米軍の常時駐留と日本の常時非武装が求められた。これが第9条という形で実現した。
 このプロセスは、日本国憲法の条文の第1条から第8条で天皇のあり方が示され、それに蓋をするような形で第9条の「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」が盛り込まれた。つまり、天皇制(権威主義)の部分的温存は脱軍事と戦争否定によって担保されたものと解釈できる。
 ところが、民主党野田政権から自民党安倍政権に移行する中で、「武器輸出三原則の緩和」「自衛隊の海外派兵強化」「軍事部門に対するODAの適用容認」などが少しずつ進められ、ここへ来て特定秘密保護法や日本版NSC、集団的自衛権の行使容認が決定された。話はそれるが、基本的なところは民主党政権で準備されていたものだった。その意味で民主党は、民主党による軍事化は良いが自民党のはダメという程度の抵抗に過ぎない。整合性がない上に不誠実な政党である、とここで批判しておく。自民党はもっと最悪で、2009年に「民主党政権の政治主導に対する緊急提言」をまとめ、そこでは、「国民のものである憲法を一内閣が恣意的に解釈変更することは許されない」と主張した。が、HPからその痕跡を削除してしまった。
 話を戻すと、現行憲法の「脱軍事・戦争否定」の理念だけを否定するのは、天皇制護持の対価や条件を撤廃することになる。講和条約を締結したことで、日本は独立を果たしたとは言え、あくまでも同盟という紐付きの政府であ。その同盟の紐を外す手続きが憲法改正であり、この決定は、衆参各院の3分の2の同意と国民投票の過半数という高いハードルが設けられた。
 それを「ハードルが高過ぎる」という理由で、憲法改正を経ずに閣議決定によって実質的に無効化してしまおうというのが、野田内閣と安倍内閣の方針と言えるのではないだろうか。
 しかしながら、現代の日本の場合、全体主義や差別に対して寛容で、極右によるヘイトスピーチも取り締まられない上、体制としては権威主義が温存されている状況下だと思う(取り締まり強化は別の意味で権威主義にもなるが)。日本の民主主義が限定的(=未熟)な理由がここに存在している。
 率直に言うと、現行の日本の再軍備や軍事活動への制限を撤廃しようとするならば、この「権威主義=天皇制」を撤廃して民主主義原理だけを残し、シビリアンコントロールが完全に担保されることを国民に示すべきだと思う。つまり、「天皇制を廃止して民主主義は徹底させるが、同時に再軍備を実現する」というものでない限り、国連(連合国)からはポツダム体制に対する挑戦と解釈される恐れがある。この話は、冷泉さんが国際社会側の立場で、オバマ来日前にメルマガに書かれていた件でもある。
 今までは現実の問題としてこのような考えに至ることはなかったが、国際情勢が日々変化する中で安倍政権の「戦後レジームからの脱却」を再考せざるを得なくなり、「権威主義体制のままミリタリズムに回帰する」という危惧が浮き彫りになった。
 日本が戦争をしないことを担保できた背景ががらっと変われば、ここで新たな議論をはじめなければならないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?