現実が言葉を裏切った時

 言葉通りの世界は美しいのかと言えばそうでもない。みにくいものも、その言葉の通りならそれはそれでよい。ところが、世の中はほとんどその言葉の通りの体をなしていない。そんな中に生きていて「信頼」とは?信頼する何かを私が見ている時、その見ているものは幻想でしかないのかもしれない。自分の都合の良いように幻想を抱き、勝手に信頼しているだけで、実際は、その実態そのものもないのかもしれない。それならそれで言葉を、その言葉のとおりなら信じられる最小の単位としたらどうか。そこに落胆というどうしようもない自分の弱ささえなければ信じても良さそうではないのか?

 落胆を恐れるあまり、最小の言葉さえも間違っているのではないかと、初めから疑ってかかってしまう。が、そういう回避でごまかせるものでもない。では、この乖離の間で私はどうすれば良いのか?これはずっと棚の上にあげてあった。普段、考えないようにしていた。ところが、このような道もあるのだと知った。

 「無意識が告げる多様なシナリオの、その狂気のようような多様性が、それゆえにひとつ狂気がもうひとつの狂気を打ち消すようにして作用したことだ。推理小説のように狂気の容疑者を絞り込み、消す。」

脳内でこのような処理をするしかないのは、言葉を現実が裏切ってしまった結果だ。しかもそれは他者の行動から起きている。だったら、言葉の通りにならなかった原因を相手に説明してもらうというのはどうか?これは、一番に避けている。それは、根本的な人間関係がすぐに崩壊するからだ。すでに信頼関係というのは崩れてしまっている。

「狂気」となってしまったのも単なる空想とは言い切れない悪いシナリオばかりだからだ。言葉が言葉として存在し得ない理由がそのものだからだ。

苦しみは裏切りによる落胆ではあるけど、期待があるわけでもない。自分の身の回りで日常的に発せられる些細な言葉に、その言葉とは違う何かが潜んでいると感じる時、またかと思う。

解決は永遠にしない問題なのだと思うしかない。

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