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次男がオムレツを覚えてからもう10ねんにもなる

 親子で料理したのはいつが最後だったかなあ。娘は子どもを連れて東京から遊びにやってくるので、子どもと一緒に料理するという感覚ではないけど、息子達との料理は、取ってつけたような料理教室みたいな感じがあったのかもしれない。男子が料理できるというのは素晴らしいことだと思っていたせいか、なんとなく、その世界に一人くらい入ってもいいんじゃないかと思っていたら、次男はその世界で、今は修行の身になった。その次男には、もう一年くらい会っていない。
 先日、急に卒業証書を送ってほしいと連絡があり、どこへ仕舞いこんだのかもわからない息子の部屋を家捜しした。調理師の免許を取るため、確認のためらしい。そういえば、息子が大学を辞めてこの道に入ったのも劇的(あえてコの字)だったかな。そして、合計で二年という実績が免許取得の必要条件ということだった。
 二人の息子は年子で、幼いころから次男は、長男の後を追いかけるように慕ってなんでも同じことをし、後を続いていた。バスケットを小学生で始めたのも、同じ高校へ進んだことも、そこまでは兄から学習していたようでもあった。
 次男に転機がやってきたのは高校二年の秋、その高校から私立の高校へ転校したあたりからだったと思う。超がつく、バスケットでは一流の高校を去り、移った先の高校ではサッカーと野球、女子ではバレーボールが高校のウリだったため、バスケット部が体育館を使える日は周に2度くらいの不平等との壁に突き当たった。来る日も来る日も端っこのリングでシュート練習をやらせてもらう程度だったという。自分で選んだ道とはいえ、その落差は想像以上だったようだ。そうは言っても、高校生活の後半に入っているし、目指す大学への合格まではなんとか頑張った。そして、合格後、都下で暮らす兄と一緒の暮らしが始まった。
 東京暮らしの一年先輩である長男からいろいろと教わり、またしても追随するようになった。親には内緒で始めたアルバイトも、長男から内緒で知らされて知った。変なもので、この兄弟は、悪いことも良いことも共謀するし、親には隠し事をして二人の仲は良かった。が、二人とも、親を騙し通すことはできない。どこかで後ろめたさや、罪悪感に負けて暴露することになるのだった。 知らないふりをして数ヶ月が経った311,福島に地震と津波が押し寄せた。次男はアルバイトが終わって帰宅途中の新宿駅で足止めを喰らい、仕方なく、目黒のアルバイト先に戻った。そこは飲食店で、夜中まで営業しているらしい。息子と入れ替わりに入る予定のバイト者が同じ理由で急遽出勤できず、息子の出戻りは歓迎され、そのまま店を手伝うことになった。
 帰宅難民を朝方まで受け入れ続けた店の臨機応変な決断で、息子は救済側になった。当初は、これが息子にとって、どんなものをもたらしたかは想像もできなかったが、兄の後を追うばかりの、何の意思も持たない弟という兄弟関係とは関係なく、弟の殻を破ったのだろう。人の役に立つことの実感をここで学んだ彼は、朝から夜遅くまで大学の実験室にこもって実験を続けることの先には、人から感謝されるようなことは何も見えないと、見切りをつけた。人の役に立てる自分をもっと磨こうと、大学を辞めてその道に入りたいと言い出した。その道って、今思うと、あのオムレツとこれが結びつく。もちろん、いろいろと揺さぶったが、彼の意思は固かった。考えて見ると、料理が好きなんだと思う。
 バレンタインデーに女子から義理チョコをもらって、手作りでお返しをするのは我が息子くらいだったらしい。可愛いものだなと、適当に作らせていたが、これが面白いものを作るのでびっくりしていた。お砂糖で作った飴でポン菓子みたいなものに絡めて型にはめていた。これが結構美味しかった。それが小学校四年生の時だった。中学になると、毎朝、自分が食べるオムレツは自分で作っていた(参照)。これこそ「好きこそものの上手なれ」ではないだろうか。
 現在は、関西では結構有名な日本料理の横浜の支店の廚房で働いている。お休みの日がないわけではないが、死んだように寝ているらしい。そして、板長さんから、「5年頑張れば物になるぞ」と励まされ、その気になって猛勉強しているらしい。
 早く息子の作った料理が食べてみたいものだ。
 楽しみにしている。

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