サザンとシャルリ・エブド

 年末のコンサートなどでサザンオールスターズの桑田氏のパフォーマンスに批判的な意見がでたため、桑田氏が「謝罪」を表明した(参照)。この件を知った時、桑田氏のパフォーマンスの何がどう問題になったかよりも、フランスで二人の兄弟に襲撃されて大惨事となった風刺画出版社シャルリ・エブドの事件との関連を思った。それは、ある表現が一部の人々に対して不快と感じられたことに端を発した事件という点では同じだからだ。日本でもサザンの事務所前では、右翼っぽい人達の抗議があったらしい。日本では天皇陛下をいまだに「現人神」と主張する人がいても、さすがにいまのところはいきなり銃殺騒ぎにまでは発展しない。イスラム過激派や「イスラム国」と称するイスラム教徒派生派はそれをする、という大きな違いはある。

 シャルリ・エブドの事件で当初から気になっていたのは、事件後、アメリカを含む世界もこれを「表現の自由」に対する挑戦と位置付けてしまったことだった。確かにそういう面を見ればそうだが、これに反論する人達の声も表現の自由でもある。表現に対して表現で反論することは、言論の自由として保護されるべき問題だが、こういう「表現の自由」というカテゴリーをこの事件に混ぜ混んでしまったがために、本来問わなければならない本質を見失ったかに思う。

 では、事件の本質とはなにか?

 今回の事件は、気に入らない相手をいきなり撃ち殺すという「問答無用の殺人」がいけないということに尽きる。それが、イスラム過激派か「イスラム国」関係者によるものかという属性よりも先決問題と思う。

 サザンの事例だと、そのパフォーマンスが一部の人に不快と思われた結果、言論による批判があった。桑田氏はそれに謝罪した。シャルリ・エブドの事件のロジックから、サザンのパフォーマンスも「表現の自由の範囲」として保護されるべきだと思うが、本当なら、「表現の自由に対する挑戦」として民主主義に生きる人が立ち上がるべき事態だったのかもしれない。

 表現・言論の自由とは、表現や言論が言論にとどまる限り、それを戦わせるのが民主主義の基礎として重要だと思う。それを保護することが自由を受け取ることになる。とは言え、表現の自由は、良心や思想、信条の自由とは違い、一定の制約を受けることはやむを得ない。

 デンマークのムハンマド風刺画事件では世間がそれを批判した。そもそもポルノは多くの国で規制の対象となっている。表現の自由が保障されていても、それが一定の制約を受けることは一般に受け入れられている。いわゆる「公序良俗に反する」行為としてだ。そういう意味では、シャルリ・エブドの表現も、一定の批判にさらされる余地があり、場合によってはそれに対する一定の制約もあって然るべきという意見も当然にあって良い。そして必要に応じて、ポルノやヘイトスピーチのように法律で規制されることは十分あり得る。

 「表現の自由」という視点でこの事件に着眼すると、サザンのパフォーマンスにも異議(抗議行動)などが出るし、「表現の自由」に対する攻撃ということになる。問題は暴力や殺害はダメだということに尽きる。そして、本来のイスラムではないと断罪されるような行動をとる一部の集団に、「表現の自由」を持ち出すまでもなく、徹底的な糾弾と世界規模の対応を行っていくしかないと思う。

 今回のフランス事件は、「自由」などとリンクされやすい素地はあったと思う。しかしならがら、謝罪記事を読むと、どさくさにまぎれてサザンの「ピースとハイライト」が「集団的自衛権」推進を意図したものだという思い込みからの頓珍漢な批判があったように読めるけど、あの歌詞の何処をどう解釈したらそれが出てくるのかと不思議になった。まともに取り合う相手でもないとは思うけど、客商売は何かと配慮を要する。

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