「6・3・3・4制」の見直しが見送られ新たに検討されている幼児教育の早期化の背景から思うこと

 鶴見俊輔さんのインタビュー記事(参照)に触発され、昨日から教育についてなんとなく考えていた。これから入学させるような子どもはうちにはいないが、こんな機会でもないと教育問題から置いてきぼりになると思い、気になる点を書き留めて置くことにした。
 自民党政権になってから「改革」という言葉よく耳にする。途端に、言葉に騙されちゃいけないという自制が無意識にかかる。この現象は、私としては、脳内にバランスを生み出すので歓迎していて、民主党政権のお陰とも思っている。
 この「改革」という言葉は、その内実が無いにもかかわらず「お護り言葉」として胸の中に置いてきたと感じている。ものをよく考えない頭になったその証拠に、「民主」「自由」「平和」「人権」などの言葉は民主的な国家では当たり前と信じこみ、自分が生きてきたこの日本がその顕現ではないかと、非常に高いところから物事を見てきた自分に恥ずかしくなった。庇護を求めて身を寄せてきたとまでは言わないまでも、物心がついた頃には世の中は、自民党政権下で、そもそも自分の思考やその背景、生活、ありとあらゆる物が実は、「お護り言葉」として染み付いていた事を自覚した。その私に「6・3・3・4制」を疑って「改革」を展望するのは難しい。この制度下で育った私の全てを見直し、そこに何の間違えがあったか、どこをどう「改革」するのが正しさなのかを確認するのも難しい。もっとも、正しさの追求がこの「改革」にあるのかさえ分からない。染み付いた物の考え方、つまり、固定化された思考パターンとでもいったらいいのか、その考える姿勢から問わないとスタートラインにつけないことが分かる。
 仮にスタートラインに自分がついたとして、5才の頃に小学校に入学していたらどうだったか?そんなことは分からないが、義務教育を5歳児に前倒しするという話が我が事にならないのは困りもの。安倍さんがこの「改革」を言い出した動機は、先進国化した日本の子どもたちの心身の発達がめざましいからというものだった。では、その妥当性を何から模索したらいいのだろうか?これが私を悩ます元になった。
 誰がこのような「改革」を議論しているのか?まずはそこからだと思い、ネット上の情報を見ると、以下の様なニュースがあった。


義務教育、5歳児に前倒しを=教育再生会議が提言へ
 
学制改革を議論している政府の教育再生実行会議(首相の私的諮問機関、座長・鎌田薫早稲田大総長)が、義務教育の対象を5歳児に前倒しする提言を検討していることが5日、分かった。幼稚園や保育所で行われている5歳児向けの幼児教育費は、段階的な無償化を目指す。子どもの心身の発達が早まっており、小学校教育への移行を円滑にする必要があるとの見方を踏まえた。(時事通信 2014/06/05-11:40


 安部首相の私的諮問機関として「教育再生実行会議」という位置づけだというが、メンバーは、Wikipediaを見て驚いた(参照)。教育学者が一人もいない。この会議はよく言う「有識者会議」のはずだが、そうとも書いていない。何だろうこの会議?教育学的観点がまったく入らないで「教育改革」を議論するということで既に終わった観がある。
 物事が始まる前に色々言うのもなんだが、そもそも現行で問題になっている適応障害や、学習障害による発達の違いへの教育対応がある。仮に、5歳時での入学を義務づけるのは、この観点からは「人道」に反すると思う。その意味では、子どもの発達程度に合わせて小学校入学は低学年では自由裁量にしても良いくらいじゃないかと個人的には感じている。これを実現するには、保護者自身の見栄や経済的理由を解放し、客観的な指標や指導が必要になると思うが、そこはまったくの手付かず状態だ。
 政治的には、5歳で小学校に入学するとなると、幼稚園や保育園で利権の侵害になりかねないため、自民党内から反対の声が上がるのは必須。ただし、財政上、再分配が遅れている政策をカバーする意味はあると思う。早期幼児教育での無償化や、学校給食の無償化などが検討されて現実すると、社会保障受給世代との格差問題がある程度解消できることでもある。なにより、教育費にかかっていた家計負担が軽減される。
 となると一体いか程の予算が国家に必要になるかだが、5歳児教育の無償化を実現するだけでも2600億円以上という追加公費が必要になるという話だ(参照)。
 ここまでが現実問題無理、という話になるのだけど、前段でも触れたように、障害を持つ児童や健常児とみなすための線引がまた問題となる。はっきり障害と分かる児童については現行のままでもいいようではあるが、発達段階における個人差と見るか障害と見るかの判断が難しい幼児期に、しかも、「お護り言葉」としてインプットしていた私の例からも、教師の資質はかなり問われる。子どもの人権を尊重すべき大人である教師が、そもそもその人権が守られているかという問題だ。教育現場で自分を出せない教師は、知識を子どもに教え諭すと私は感じてきたが、そうではなく、子どもは学校で教師という大人をそのまま見て学習する。そこに、子どもに晒しては良くないとした「在り方」によって内面の「悪」を自制し、それを内包したままではいつか心がパンクする。また、子ども時代に同年齢や異年齢との関わりがあまり無いような時代に育った教師が今後増えるが、いきなり学校という現場で子どもと遭遇するのは無謀とも言える。以上が、教師が不登校になったり、メンタルヘルスへの配慮も必要になるという理由の極一部だ。現実には、教師のこの問題はかなり深刻化している。
 「改革とは痛み」とか言った政治家もいるが、これからの若い世代が乗り切ろうというなら何とか支えていきたいものだが、わけの分からない「有識者」によって利害や利権、政治色、財政問題などの都合で子どもの教育を決めて欲しくない。
 「お守り言葉をめぐって日本の政治が再開されるなら、国民はいつまた知らぬ間に不本意の所に連れ込まれるかわからない」と予言した鶴見俊輔氏の言葉は、敗戦翌年の1946年に創刊が始まった「思想の科学」という雑誌に書かれたが、私もこの予言が的中しつつあるように感じている。

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