なぜ、ここで泣くんだ?

 Amazonビデオで「料理」で検索したら、料理にまつわる映画やTVドラマなど、いくつかヒットした。その中から、「しあわせのかおり」(参照)という映画を観てみた。これがなんというか、私には大ヒットだった。何がヒットしたか?ぼろぼろと泣かせるシーンが続くからだ。そして、その涙の理由を一緒に見ていた孫に説明できない自分の不思議さに向き合う羽目になった。そこのところが、自分でも気持ち悪いほどわからないのである。歯痒い思いを書いてみたい。それでなにか見えてくるだろうか。仄かな期待を持って書いてみることにした。

 映画の筋書きは至って単純で、前段の「参照」のWebページで十分だと思うが、あえて私が付け足すとしたら、30年前に知り合ったという描写からもわかる通り、中国人で料理人の王さんと(藤竜也)加賀友禅の工房を営む百合子(八千草薫)の恋心が最後に明かされている。ドラマではおそらく年齢は近い二人という設定なのかもしれないが、実年齢は、10歳程八千草が年上で、話中では、60歳後半の設定ではないだろうか。30歳代に知り合って、友人という付き合いだったのだろうが、お互いが慕い合っていたというのがはっきりわかる。王さんが故郷である上海に貴子を連れて旅をするが、設定では、百合子の息子が結婚する相手が23歳とあって、23年ものの老酒を入手するための旅でもあった。その百合子が、映画の終わり、王さんとの語りの中で「私もいつか、連れて行ってください。」と頼んだのは、大きく踏み出した一言ではなかっただろうか。淡い恋心が、年月とともに最も安らげる者同士になったのではないだろうか。亡くした奥さんと娘さんが、百合子と貴子に生まれ変わりのような幻想を思わせる。

 さて、涙腺が一番緩んだシーンだが、「小上海飯店」の厨房で、王が背後で見守る中、中華包丁の使い方や、山のように積み上げられた食材を前に、その使い方を一生懸命練習するシーンだ。貴子の一生懸命な姿に心打たれたのとはちょっと違う。孫に自分の涙を隠したくなるような、こんな場面で泣くのはみっともないという気持ちが強かった。

 人が、何かに一生懸命打ち込む姿に感涙する、というのは時々ある。スポーツだと、錦織が、一人で海外遠征で苦戦して勝ちを取る時などだ。

 他人が苦労している、その苦しさに泣けてしまうのだろうか。

 頑張っても頑張っても報われない自分を悲しんでいるんだろうか。

 それはあるなあ。何かに打ち込んでも、自分に満足できないでいる。心の中ではそれをずっと悲しんでいるのかもしれない。諦めずに辛抱強く、長く取り組む自分が、その報われない現実をみて、哀れに思えるのかもしれない。

 そういえば、「悔し泣き」という言葉が理解できない。悔しい感情と泣く自分は共存していない。悔しい時は泣けないが、悲しくて泣くのはある。「感動」という言葉も、泣く自分を説明できない。

 こうしてみると、泣く時の感情を表現する語彙の乏しさを思うなあ。

 さて、二つ目の泣き場だ。王さんが、百合子の息子の結婚の宴の料理を全て、貴子に言い渡したシーンだ。心の中では、「やったね、貴子さん。」と、応援していた。前段に書いてみて何となくつながって見えるのは、打ち込んだことが報われたという喜び、感動ではない。やっぱり私の心のなかでは悲しく、泣いている。

 どうも、報われない自分の悲しさに泣けているらしい。

 振り返ると、報われないものがいろいろある。結果的には報われていると、人は評価するのかもしれないし、幸せに見えるかもしれないが、心のなかでは無念さを抱えて生きている。その中には、高校卒業後の進路から始まり、仕事、結婚と、報われなかった。が、その結果として、これからを生きて行く自分の道として、製パン業を営むことに決めた。

 仕事や結婚生活で苦労(我慢かな?)し、その結果としては何も報われていない。私にとっては、結果が出せていない。なのに、人生の折り返し後だというのに、全く違う方向を向いているかのごとく、製パン業を選んだ。しかも、この仕事は、妻として、母として生きた年月で培ったものだ。その年月とは、期待外れであったし、仮面を被った土台の上で培ったものだ。自分の気持に正直になるなら、それを否定できる、何か別のことならもっと気が楽なのかもしれない。なんだか、すごいものを背負っているなあ。

 新たに始まった第二の人生ではなく、年月を重ねて経験を塗ったくった上でしか存在できない自分の力量を残念に思っているのは、確かにありそう。潜在的にそれがあって、心の琴線というべきか、折にふれて涙と化すのではないだろうか。

 後悔の念。そういうことか?まだよくわからないが、じめじめしているなあ、私って。

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