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母を送る

主は与え、主はとられる。主の御名は誉むべきかな。

クリスマス・イブの朝に母が召されました。
今日26日に無宗教家族葬で見送りました。

新約聖書、ルカによる福音書16章11節
 イエス・キリストは言われました。
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」

母の生涯を振り返るとき、苦労はあっても、いつも自分の役割を果たすことに忠実だった姿を思い出します。
周りの人をささやかな幸せで満たす人でした。かんがえてみれば、私たちは、人に必要とされ、役割を与えられることが一番の幸せかも知れません。そういう意味では、大変幸せな生涯だったと確信しています。
晩年、父とふたりの生活は、叔母、叔父、従兄夫婦の助けがなければ続けていくことはできませんでした。本当に心からお礼を申し上げます。

長尾キミ子
略歴
1930年、昭和5年11月7日、秋田県本荘市にて、畠山峰三郎、ツタエ夫妻の次女に生まれました。5人兄弟の4番目でした。
尋常小学校入学と前後して第二次世界大戦が始まり、小学校は国民学校に変わりました。「私の小学校時代はほとんど戦争中だった」と話していたことがあります。
 13歳と聞いていますが、もしかしたらもう少し後だったかもしれません。秋田銀行に就職し、27、8年、本荘支店に勤めていました。
毎日同じ時間に店の前を通る母に父、伸一が惚れて、祖母の姉にあたる遠藤静さんが結婚の使者として申し込みに行ったと聞いています。
嫁いだ長尾の家は小さな商店でした。
戦後、樺太から引き揚げた家族を養うために祖母が小さな店を始めたのが最初。成人した父がバイクの行商から商売を引き継ぎました。
娘の桂子を授かりました。桂子が小さい頃は、祖母が祖父の恩給でかった小さな家に三畳間を建て増し、雨漏りがする部屋に住んでいました。二人で布団の下を掴んで二つ折りにして雨に濡れないようにして眠ったものでした。
1972年ころ、銀行を退職して家業を手伝う業者婦人となりました。ビニール製品を扱うため、夏でもあかぎれとは縁がきれません。
店番と帳面と資金繰りをしながら家事もやり、3人分は働いていました。
流産しても休むことなく、疲れて腎盂炎になったこともあります。社会に尽くす活動で忙しい父と、祖母の間で本当に頑張っていました。
銀行で訓練されたせいか、几帳面で、帳簿付けや書類の管理はきっちり仕上げていました。自主計算自主記帳がしっかりしていたおかげで店は回っていたのです。
新聞が好きですみからすみまで良く読んでいました。趣味の編み物を余暇にやっていましたが、いつも途中で居眠りしてしまい、暖かくなっても完成せずに、苦笑いしながらほどいていた姿を思い出します。
「好きな勉強は地理。いろいろなところに旅行した気持ちになるから」と話していました。本が大好きで全集を揃え、入院中も病院の図書室で子どもの本を片っ端から読んでいました。
葬儀でみんながひとことずつ思い出を話しました。叔母がお姑さんの介護で疲れていたとき、「がんばるんでないよ、愛さねば」と声をかけてくれたという話を初めて聞きました。
毎朝、5時前から朝市にいき、夕方まで店に立つ生活を2011年ころ、80才まで続けていました。
気管支喘息や心臓の病、出血性胃潰瘍など、病と付き合いながら、2014年より、特養ホームに入居し、やっとあかぎれと縁が切れました。穏やかな毎日を過ごす日々となったホームでも父とふたりで新聞紙のゴミ箱を折るなど、几帳面な暮らしは変わりませんでした。
2年ほど前から認知症が見られ、秋頃からは流動食になりましたが、健やかに暮らしていました。12月24日早朝、苦しむこともなく、安らかに天に召されました。
享年92才。昭和、平成、令和の時代を生き抜いた働く女性のさきがけでした。

#母の生涯
#ありがとう
#業者婦人

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