見出し画像

僕が安住の地を手にするまで [6] オワコンの我慢大会からは足を洗う

ゆうべ妻がこんなことを言った。

「あなたみたいに自分のすきなこと、やりたいことだけを形にしたくても、できる人ばかりじゃないよね。」

いつもは同じことばを厭味ったらしく言うのだが、ゆうべはちょっと違った。どちらかというと「みんなが真似しようったって難しいわよね、あなたは色々振り切れちゃってるからね」、という意味に聞こえた。まあ、僕もなんにもないところから努力して努力して、我慢して我慢して、50歳を目前にしてようやく自分らしい生活を手に入れるための第一歩を踏み出したばかりなんだけれど。

日本に帰ってきて思うことは、みんなやたら「みんな我慢してるんだから、お前も我慢しろ」という意味不明のことばを発するな、ということ。必ずしもそのとおりには言わないけれど、結局はそういうことを言っている。さらには、同調圧力によって思考停止を促し「じぶんのことば」を奪い取ろうとする。その代わりに、切って貼ったようなことばばかりを押し付けられる。

この「みんな我慢してるんだから、お前も我慢しろ」が意味をもつ場面は確かにあって、そんなときには僕は人一倍我慢する気マンマンだけれど、年がら年中、意味なく我慢大会に参加するつもりはさらさらない。僕は自分のやりたいことを自分の責任において自分の好きなだけやりきる。

実は僕と同じように好きにやりたいと思っている人、たくさんいるような気がする。コロナ禍でその存在が明らかになった自粛警察のみなさんのように、もう我慢することが生き甲斐みたいになっている人を諭す気力も時間も僕にはないので、そういう人たちは頑張って我慢レースを勝ち抜いてほしいと思うが、オワコンの我慢大会から一日も早く足を洗いたいと思っている同志たちには心からエールを送りたいと思う。

以下は、そんな同志たちに対する僕からの提言だ。

まず、誰から何を言われても、基本的にぜんぶ「うるせえ、バーカ」でいい(※ 言うと面倒ですから、心のなかで)。人の話をまじめに聞く必要などない。ていうか、そもそもみんな誰の話も聞いていないじゃないか。そのくせ聞いてわかったような顔をし、相槌をうっている。ほんとうは何もわかっていないのに。オワコンの我慢大会から足を洗いたいなら、まず人の話を聞くな。ほんとうはこのnoteも含めて、みんなただの雑音だ。ほんとうにあなたの心に響くことばはあなたが遮ってでもあなたのなかに入ってくる。寝ても覚めても忘れられなくなる。そういうことばだけを信じたらいい。大事なのは、あなたに責任を取らない他者がなにを言うかではなく、あなた自身のアンテナを信じることだ

やたらと人に会うのもよくない。人を見れば自分と比較したくなるし、どうでもいいことを言われるだけだ。誰かがそばにいないと寂しいのは、あなたがひとりで、自分の足で立てていない証拠だ。自分の存在を確かなものにするために他者の存在を必要としているんだ。あなたは○○依存症の人をバカにしたり、哀れんだりしているかもしれないが、あなたも十分に依存症だ。ほんとうは友だちなんかいらないし、そもそも他者に期待なんかするべきじゃない。友だちは付いたり離れたりするが、自分とは別れられない。なによりもまずは自分と仲良くなることだ。

そこで良い言い訳をくれるのがコロナだ。自粛要請、渡りに船じゃないか。もう引きこもりまくって、自分ととことん対峙したらいい。しかし忘れちゃいけないのは、規則正しい生活と、栄養ある食事、そしてたまに自然と戯れること(じゃないと鬱になるからね)。個としての自分が確立できれば、人から嫌われることなんか屁でもなくなる。本来、あなたの心はそういうふうにできている。

テレビもよくない。人に会わなくとも、テレビばかり見ていたらまったく意味がない。テレビとは、金を出す人(企業スポンサー)の意思決定が絶対で、金を受け取る人たちは口をつぐむか、金を出してる人が気にいるようなことだけを垂れ流す仕組みだ。不健康極まりない。最近では政府までがこの仕組を利用するようになっている。こんな仕組みのなかでは、自分でモノを考えて、本音で発言すれば干される。強い信念があったはずの人も、この仕組のなかでは次第にすり減らされ、金を出す人の思う通りになる。当然、見ている人たちも同じようにコントロールされていく。最近はインターネットも少しずつ似たようなものになりつつあって、権力をもつ誰かにとって不適切な発言が削除されたりしている

景気が悪くなれば、貧相な宇宙食みたいなのを作って「一食の食費をここまで節約できましたっ!」と喜んでいる番組を流し、あちこちで不正が明るみに出ると、半沢直樹の勧善懲悪でカタルシスを与える。何か重大な事件や災害が起きても、「遺憾、遺憾」ばかりで本質を突き詰めて解決しようとしない。そして、馬鹿の一つ覚えみたいに「コンプライアンス、コンプライアンス」。ルールを守らない者を徹底的に叩くが、そのルールの是非は決して問わない。

そして面白いことに、自分の考えなどどうでもよく、知識の量と、それを誰よりも早く言えることだけが称賛されるクイズ番組だけはいつの時代もなくならない。こんなものを見ていたら、知っていることを誇り、知らないことを恥じるようになる。ほんとうに恥じるべきは、自分のことばを捨て、自分のことをあたかも他人事のように蔑ろにすることだ。僕も含めて「知らないことは恥ずかしいことじゃないぞ」という先生はいるが、一方でこんな競争番組を垂れ流している限り、世の中が変わるのは難しい。みんな先生なんかよりもテレビが大好きなんだから。

つまりテレビとは、大衆を導くための大掛かりな仕組みなんだ。宮台真司さんがいう「法の奴隷」や「ことばの自動機械」を大量生産するための装置だ。そして、手を替え品を替え、「みんなで我慢大会、頑張りましょう!」ばかり言っている。

「せーの」で地獄へ飛び込むチキンレースから身を引きたいなら、まずは人の話を聞かず、そもそも人に会わず、テレビを消して、自分と向き合ったらいい。人のことばが欲しくなったら本を読むのがいい。そして、自分ととことん向き合うのは大事だが、それは一度でいい。一度で十分。良い部分も悪い部分も、丸のままの自分を直視して、100%受け入れたら、もうおしまい。

他人から距離を置いたら、今度は自分からも距離を置く。自分なんか気にしているからダメなんだ。そもそも自分と向き合うなかで気づくはずだ、自分なんてものは存在しないことを。自分探しなんか意味ないんだ。なぜなら、あなたの存在は外部(人間だけじゃない)との関係のなかにのみあるからだ。もともとないものを探してどうする。自分が存在するなんて思っているから、周りと比較したり、周りからの評価を気にするようになるんだ。考えるべきは、自分がどういう存在かではなく、自分がどうしたいか、どうすべきかだけだ。あなたが何かについて考えたり、実際にアクションを起こすこと(=外部へ働きかけること)によってのみ、あなたは存在するんだ。

そうしたら、答えは簡単だ。好きなことを考え、好きなようにしたらいい。そうやって外部へと働きかけることが「あなた」をつくる。

いまの時代はなにごとも溢れすぎていて危険だ。情報も人間も溢れている。ぜんぶを受け入れ、ぜんぶに好かれる必要はない。人の話を聞かず、誰にも会わず、しっかりと自分を見つめなおした上で自分を捨てると、自分にとってほんとうに大切なことが見えてくる。雑音が聞こえなくなる。話をしたい、聞きたい人が見えてくる。それは我慢大会を一緒に戦う競争者としての他者ではなく、手に手をとって助け合える仲間の存在だ。そういう仲間こそ大切にすべきだ。そうやって自分のコミュニティを築きながら、生きやすい環境を整えていくしかないんだ。

自分のすきなこと、やりたいことを突き詰めていくということは、つまりは自分の世界をきちんと整理しながら、研ぎ澄ましていくということなんだと思う。しかしそれは排他的になるということとは違う。むしろ排他的な人たちに嫌われてもめげないメンタリティを身につけるということだ。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?