「おせっかい」は悪なのか:処方箋篇
これまでの人生、「おせっかい」という病をもって仕事をしてきた自覚があるのだが、最近、仕事以外のすべての行為が「余計なお世話」と言われているように感じてならない。ので、考えてみた。
確かに、よかれと思ってやったことが、本人のためにならないばかりか迷惑であることもあるだろう。
しかし正直なところ、私のおせっかいが発動しなければ、大変なことになったのではないかと思われる場面も多々あるし、「誰も気付いてくれなかったのに気付いてくれてありがとう」と泣かれることだってあるのだ。
(ここで、あまたあるカウンセリング系の記事などでは「おせっかいと言われてしまうとき、相手ではなくそれをしてあげる自分に意識が向いている」という記述が目に留まるが、ここではそういう自己承認ツールとしてのおせっかいではなく、自分以外の第三者から見ても是と表現される場合のことを指す。ちなみにこの境地があまり理解されないことが多く、後藤はいつも自分のことしか考えていないんだろうというフレーバーの叱責を受けては傷ついている。誰に向けてでもないが、事実なので念のため補足させていただく)
被おせっかい時の2つの視点
この「余計なお世話」。分解すると、2つの視点があるのではないかと思う。
まずひとつめは、「大変なことになっていたとしても、自分の責任なので後悔はしなかったのに」というご本人の主張。
後藤は逆の立場だとおそらくこのタイプで、例えば旅や観光は長年仕事の領域なので、休みの日に旅行を提案されても気が滅入るだけだったりする。なので周囲には、「旅行を勧めるのはやめておくんちぇ」と伝えている。とはいえ、よかれと思って言ってもらっている気持ちはとてもありがたいと思うので、そこは受け取りつつ、「ただ、それ、後藤的には“よかれ”やないんよ」と伝えればいいのではないかと。
そして二つ目は、そもそもこちらのおせっかいのお陰で事態が下げ止まったということに対して自覚がない場合。まぁ気づかないからそういう事態に陥る可能性を引き寄せてしまうとも言えるし、こちらがよかれと思ってその事態を未然に防いでも、とにかく本人が状況を把握していないのできっと次も同じ事態になるであろうし、ましてやこちらに感謝の意なんて1ミリもない。まぁ、正直脊髄反射みたいなものなので、ありがとうと言われたくてしているわけではないのだが、これも委員会以外の人にはさっぱり理解されない。
「おせっかい」と「気が利く」のあいだ
委員会二世は、とにかく「気が利かない」という言葉が大嫌いだ。あらゆる社会性の汚点のなかでも最悪の状態だとすら思っている。
ゆえに、先回りするし、先読みするし、頼まれてないのに脳内で事前準備もするし、シミュレーションだってする。
だからこそ、本番で不測の事態を防ぐことができたり、何かあったときの対処ができたりする。
もし仮にこういう場面でぼんやりしているとしたら、それは「今日は自分が出しゃばらないほうがいい場所だ」という「気が利く」よりも「出しゃばらない」ほうの出力を強める必要があると踏んだ結果だったりする。
(つまるところ、スナックチノアソビで後藤が皿洗いを手伝わなかったのは、出しゃばらないほうがいいと判断した結果なのである)
話を戻して、「おせっかい」と「気が利く」は、実は二項対立ではなくグラデーションなのではないかと思う。アジャストが可能なのだ。そして同時に、「気が利く」と「おせっかい」で、やっていることが違うのかどうか問題が表面化する。
「おせっかい」は悪なのか
ここで、グラデーションの最悪値を司る「おせっかい」は「悪なのか」という疑問がかなり手前にあることから目を背けることができない。
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