READ➕ vol.21 「ある男」 平野啓一郎 著

皆さん、こんにちは。

佐々木です。

先週の日曜日は大学が休みでしたが、試験期間中なため図書館はあいておりました。

私は先週の土曜日からある本をずっと読んでいて、日曜日も図書館が空いていることを知り、続きが気になったので、図書館にこもって読んでました。

その本とは、最近話題になっている平野啓一郎さんの「ある男」

それでは早速本日も書評を書いていきます。

〜目次〜
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[1]本日の1冊
[2]はじめに
[3]内容
[4]独断ポイント
[5]終わりに
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[1]本日の1冊

      「ある男」 平野啓一郎 著


[2]はじめに


これまで平野さんの本は読んだことはありませんでしたが、幾度か名前を聞いたことがありましたので、気になって調べてみました。

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1975年愛知県蒲郡市生。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。以後、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。2008年からは、三島由紀夫文学賞選考委員、東川写真賞審査員を務める。美術、音楽にも造詣が深く、幅広いジャンルで批評を執筆。2009年以降、日本経済新聞の「アートレビュー」欄を担当している。2014年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。著書は小説、『葬送』『滴り落ちる時計たちの波紋』『決壊』(芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞)『ドーン』(ドゥマゴ文学賞受賞)『かたちだけの愛』『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、エッセイ・対談集に『私とは何か 「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』等がある
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                                                                      (参照元)


小説家の方って、今はかなり有名な方でも、もともとはぜんぜん違う仕事をされてた人が意外といらっしゃるのですが、平野さんは大学時代に芥川賞を取られているということで、物書きとしてのキャリアはかなり長いようです。

1999年 - 第120回芥川龍之介賞(『日蝕』)
2009年 - 平成20年度芸術選奨文部科学大臣新人賞(『決壊』)
2009年 - 第19回Bunkamuraドゥマゴ文学賞(『ドーン』)
2014年 - 芸術文化勲章シュヴァリエ
2017年 - 第2回渡辺淳一文学賞(『マチネの終わりに』)

そして、「ある男(2018)」は2019年の本屋大賞にノミネートされております。

また、平野さんの本はまだ1冊しか読んだことがなかったので知りませんでしたが、調べていくうちにかなりの多作であることも知りました。

もちろん、物書きで多作というのは、何も珍しいことではありませんが、平野さんは、書いた時期によって、大まかなテーマを決めてかかれているようです。具体的には下記の通り(wikipediaより)

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初期3部作(ロマンティック3部作)1998~2002頃
第2期(短篇・実験期) 2003~2006
第3期(前期分人主義)2008~2012
第4期(後期分人主義)2014~現在
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芥川賞を受賞された「日蝕」は時期的には初期3部作の中に入り、この期間にかかれた文章はかなり難しいらしく(私はまだ読んでいないのでなんとも言えませんが)、私が読んだ「ある男」は現代風の文章で書かれてあったので、全然そんなことはなかったです。

平野さんの文章をいろいろと読んで、文章の違いを比べてみるののも面白いかもしれませんね。

それでは内容です。

[3]内容
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愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!

弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。
宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って14年ぶりに故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。ある日突然、「大祐」は、事故で命を落とす。悲しみにうちひしがれた一家に「大祐」が全くの別人だったという衝撃の事実がもたらされる……。
里枝が頼れるのは、弁護士の城戸だけだった。

人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。
「大祐」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。
人間存在の根源と、この世界の真実に触れる文学作品。
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[4]独断ポイント
この本を読み始めてから、ずっと、少し前に読んだある本について思い出しておりました。

それは宮部みゆきさんの「火車」。

書かれた時期は少し古いですが、こちらも有名な本なので読んだことがある方もいらっしゃるかもしれません。

内容はもちろん違いますが、人が入れ替わってしまう、という点では似ているなと感じました。

内容が似ているということ以上に私が気になったこととして、文中での表現方法の相違があります。

平野さんは、文中で人が生まれ変わることを昆虫である「蝉」に例えます。

一方で宮部さんは「蛇」が脱皮することで表現します。

どちらが優れてるとか、言い回しが良いとかの優劣はないのですが、面白いのは、平野さんの小説中「蝉→蛇」に変えて読んでみても、、その反対に、宮部さんの小説で「蛇→蝉」に変更して読んでみても、どちらもしっくりこないのです。


こんなことをダラダラと考えているうちに、これと似た感覚を持ったことを思い出しました。

それは、「そして父になる」と言う映画をみたときのこと。

映画の中の、リリー・フランキーの言葉でした。

(本当は自分の子供になるはずだったが取り違えにあった)子供を見て、
「...不思議なもんだな、おれはけいたの顔をみて、りゅうせいって名前をつけた。...どう見たってけいたって顔だもんな...」

という言葉があります。

                         (人物構成がピンとこないかたは上記をご覧ください)

この言葉を聞いた時、「当たり前だけど、確かにそうだよなあ」と思いました。

私には兄が1人いるのですが、例えば私の兄と私の名前を反対にして、私の名前で兄を読んだ時、言葉では言い表せない違和感を感じます。
(同じ血が通った世界で唯一の人なのに、です)

また、例えば電車で自分の向いに座った方に名前をつけようと思っても、いろいろな選択肢がありすぎるためか、名前をつけることはできません。
ですが、一度その方の名前を聞くと、おそらく私は妙に納得し、名前をつけられなかったことが嘘のように今度は、その方をその名前でしかみることはできないでしょう。

自分のアイデンティティを確立する上で、人はかなり早い段階で自分の名前と自分を結びつけます。

その人が数十年間生きるなかで、名前が自分に似たのか、自分が名前に似せたのかどちらのにせよ、自分の名前から逃れられないのです。
いくら違う人格になり済ませても、いくら真新しい未来が眩しくとも。

「そして父になる」、の入れ違ったふたりの子供が、自分の名前にどんどん似ていくように。

なので、私は「ある男」を読み終えた後、とても切ない気分になりました。

それは、自分の過去に絶望し、名前を変えた「谷口大祐」は、つかの間の幸せはつかめても、自分の本当の名前と、そこにくっついている自分の過去からは絶対に逃れられないからです。

絶対に本質的な幸せは得られない。

本文中の度々出てくる、主人公の城戸が抱く幸せとは、似て全く非なるものだと私は思います。努力して掴んだ幸せと、何気ない幸せ。

同じ幸せなのに、その幸せの違いが意識的かはわかりまえんがこちらにとても伝わった書き方をされるので、儚く感じます。

つけられた名前から逃れることはできない、はじめの方で述べた「蛇」、「蝉」の表現もまた同じです。

私は小説を書いたこともありませんし、あくまで憶測なのですが、小説家は1つの言葉を取捨選択するのに膨大な時間をかけているものなのだと思います。(意識的にも無意識的にも)

そこで採用した表現、登場人物につけた名前、婉曲表現全てが、小説家の頭からはなれた瞬間に、それらは小説の中で過去として生き続けるのだと思います。

親が子供の名前をつけるのに時間をかけるように、小説家が言葉選びに時間や思いをかけるほどに、その言葉は強く、アイデンティティを持って過去の中で行き続けるのだと思いました。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

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