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そのやり方、良いと思ってる?

僕が放課後児童クラブ(以後、児クラ)に勤め始めて、もう少しで4か月になろうとしている。

かつては「児童の保育」を行う場所であったが、現在の児童クラブは理念上、子どもの「主体性」を重んじていて、ゆえに目的として「児童の育成」を掲げている。

ただ、あくまでそれは理念上の話。
どこの児クラもそれが実現できているとは限らない。

僕の勤めている児クラもその一つだ。

「子どもの自主性・創造性・社会性を育む」

子ども達が自らイベントを企画したり、クラブのルールを決めていくような理想を描きつつその理念に賛同し、その一助とならんことを望んでこの仕事に就いた。

しかし実際は、クラブの支援員たち(大人たち)の主導する習慣が続いており、一部のルールは子どもと考えられたものもあるようだが、それもどうも大人の都合に重心があるように思える。

子どもの主体性を育むのなら、子どもとは対等な関係であるべきはずなのに、明らかに支援員たちの多くは子どもを下に見ていて、彼らを「管理が必要なもの」と思っているように僕からは感じてしまう。
(子どもと対等に話し合っている支援員さんも確かにいることは注意してほしい。)

たぶん支援員たち自身は、自分が子どもをそんなふうに思っているという自覚は毛頭ないはずだが、その行動を見るに「そんなふう」に思っているとしか感じられないというのが僕の感覚だ。

最近の話しよう。
あなたはこれを聞いてどう思うだろう?

ある日、小学一年生の男の子A君がB先生に「宿題の片づけは終わった」と噓をつき、実際はその片づけをせずに遊んでいた。
そのことに気付いたB先生は宿題の置いてある机までA君を呼び出し、片付けができていなかったこと、嘘をついたことを𠮟りつけ、「A君は自分の宿題片づけたって言ってたから、この宿題たちは私がもらっちゃお!」と言って、A君には有無を言わせず彼の宿題をの仕こ先生自身の机まで持っていきました。
A君は「それ僕の!」と言いながら、顔を赤くしてB先生を負いかけます。
その一部始終を見ていた小学二年生のある男の子が、B先生に向かって「人の話(A君の話)を聞かないのは良くないと思う!」と主張しますが、どうやらB先生の耳には届かなかったようです。
その後、B先生の机の前でも再び注意を受け、A君は宿題を返してもらうことができました。

「B先生のしかり方はごもっともだ」「A君が嘘をついたのがいけない」
「自分もB先生の立場だったら同じ行動をとる」

多くの方はこの一連のB先生の対応に肯定的かもしれません。
僕も同様な対応を子どもの時にされたことがある気がするし、一般的には結構採用されている手段でもあるように思います。

でも僕の考えとしては「やってはいけない𠮟り方」だと思います。

片付けをしていなかったことを注意するまでは当然だと思います。
でも嘘をついたことをいくら叱っても意味がない。

まずは「なぜ嘘をついてしまったのか」を掘り下げるべきです。
A君本人も嘘をついている自覚はあります。でも、なんで嘘をつく選択をしてしまったのかを明らかにしない限り、この先も同じ選択をしてしまうと思います。

そこに加えて、「嘘をつかれて悲しいです」というような感情を伝えることも大事だと思います。
A君も嘘をついてはいけないことを頭ではわかっているので、その行動が相手にどう受け止められるか、どんな感情を抱かせるのかを教える必要があるのではないでしょうか。

机に持って行ってしまうのはタチが悪い。
その行為はA君を辱め、恐怖を植え付ける行為です。
僕も実際に目の前でその始終を見ていましたが、A君に共感して正直怖かった。何か追い詰められるような感覚を覚えました。
辱める行為、恐怖を与える行為は子ども自身が善悪の判断力を身に着けるどころか、かえって大人や他人に見られなければ何をやってもよいというような考え方になってもおかしくない。

子どもと関わるときは、大人と関わるときと同じ。
子どもと関わる全ての人に、もっと子どものことを理解し、理解しようとし、自分と対等な人間なんだということを常に心の中にとどめてほしいと思います。

みなさんは何を思いましたか?


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