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神の義(正しさ)を着せられる(Ja)

今日は、パワーシティ・インターナショナル教会の教えのシリーズ「ソテリア:救い」より翻訳・要約してお伝えします。

📖テモテへの第二の手紙 3:15 口語訳
“15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。”

●「救い」は実のところ、あなたの現在、過去、そしてあなたの永遠を扱う考えです。それゆえに、もし救いを理解していないのであれば、あなた自身の過去、現在、未来が理解できない事になります。あなたが救いを持っているという証拠を与えるものは、他ならぬ聖書だけです。

●私たちは、この「救い」の教えのシリーズで、はじめにエデンの園で何が起きたのかを見ることから始め、その時どのように人が神様の申し出を拒絶したのかを見ました。そして人は神様から切り離されました。 神様は言いました。 「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬ」(創世記2:17)
その言葉「死ぬ」・「死」は断絶、「神様からの断絶」のことです。 また神様は身を隠した人に向かって言いました。「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9) それはアダムがどこに行ったか神様が分からないのではなく、「なぜ私を離れてしまったのか」の意味です。
そこでアダムが答えた「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」(創世記3:10)、その意味は、「私は罪を犯しました」・「私は罪悪感を感じます」で、つまり、断絶が罪悪感を運んできて、 神様の言う、「食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。」(創世記3:11)、 これが有罪の宣告です。

●ですから、1:神様からの断絶、2:罪悪感、3:有罪の宣告という流れがあります。そして有罪が宣告され創世記5章に来ると、4:人の状態が変わってしまいます。

📖創世記 5:3 口語訳
“3 アダムは百三十歳になって、自分にかたどり、自分のかたちのような男の子を生み、その名をセツと名づけた。”

人は不死ではなく、死ぬべき存在となってしまいます。はじめはそうでは無かったのですが、これは人が堕落したゆえの結果です。 すなわち人は救いようが無い存在となり、人間で人間自身を救えない状態になり、そして神様が人に救いを差し伸べられました。

📖エペソ人への手紙 2:1, 5 口語訳
“1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――”

●私たちはすでに死んでおり、その死んでいた私たちを、神様が生かしました。その神様が私たちに生を与えた理由とは、神様の一方的な恵み、つまり大きな愛であり、深い憐れみゆえです。 神様は私たちのために死ぬと決めて、私たちを生かし、私たちを救い、私たちの罪の身代金をすべて払いました。それが神様の大きな愛であり、あわれみです。それゆえに救いは神様のものです。

●さて私たちは、書簡(新約聖書の手紙群)にあって、聖霊によって与えられた旧約聖書の中の救いの考えを、いくつかの言葉から見てきました。 私たちは、神様との隔たり、距離を解決し、人を神様ご自身のもとへ運ぶ役割を果たす「和解」という言葉からはじめ、それからその和解のための代償・代金の支払いに関する「あがない」という言葉を見ました。
そしてイエス様が、私たちの立場になり代わって死なれた「身代わり」と言う言葉、つまりキリストの死は身代わりの犠牲であった、という事を見ました。
そして私たちは、再生の洗いによって救われたという「再生」という言葉、また「転嫁(てんか)」、つまりキリストの正しさを私たちに、私たちの罪悪をキリストに、と移し替えることによる 「義認(ぎにん:正しいと見なされる事)」という言葉を見ました。

📖ローマ人への手紙 3:25-27 口語訳
“25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。 そうではなく、信仰の法則によってである。”

●私たちの「行い/はたらき」は、義認(ぎにん)=正しいと認められる、その法則から除外されます。人の貢献は必要とされないのです。行いの法則ではなく、信仰の法則、キリストがなさった事に信仰をおくことによって、人は正しいとされます。 律法の行いによらない。それゆえあなたが正しいとみなされる時、あなたはまるで一度も罪を犯したことが無かったかのように扱われます。神様はあなたを、一度たりとも罪を犯したことのない方=キリストの立場のように扱います。あがないは、神様のひとり子キリストのうちにのみ有るのです。あなたがキリストが成し遂げられた事を受け取るとき、あなたはまるで、あなたがイエス様であるかのように扱われます。なぜでしょう? なぜならイエス様があなたの立場のように扱われたからです。

📖イザヤ書 53:5 口語訳
“5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。”

それが身代わりです。彼が、あなたが正当ならば受けるべき立場に取って代わったので、あなたは彼の立場を受けたのです。イエス様が死に、あなたが生かされた。彼は罪とされ罰を受け、あなたは正しいとされた。彼は拒絶され、あなたは受け入れられた。そうです。あなたが正しいとされたのは、イエス様の身代わりの犠牲のはたらきによる結果なのです。あなたがたのうち、キリストが成し遂げられたはたらきを信じ受け入れたすべての人は、「神様の義」と呼ばれます。

📖コリント人への第二の手紙 5:21 口語訳
“21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。”

●ある賛美歌の歌詞にあります。: 「彼の正しさだけを着せられました。私は私の能力に決して信頼しません。私は彼が成し遂げたことだけに信頼します。私は私の正しさをまとっているのではなく、彼の正しさのみをまとわされ、 私は彼の王座にあって完璧なのです。」(おそらく讃美歌「我が身の望みは」=「My Hope is Built on Nothing Less」の派生版英語歌詞と思われます。その歌詞の直訳です) 神様はあなたをあなたとして扱わず、あなたをイエス様として扱うのです。

📖ローマ人への手紙 4:24-25 口語訳
“24 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである 25 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、 よみがえらされたのである。”

●24節の「認められる」は英語で「インピューテッド」、ギリシャ語で「ロジゾマイ」で「〜とみなされる」「〜と考慮に入れられる」の意味です。 イエス様の復活とは、私たちの正しさを「法的に正しい」とした事です。 彼が死からよみが えった時、私たちもよみがえりました。彼が罪なき者として復活した時、私たちも罪なき者となりました。なぜ? 私たちは彼の正しさを着せられたからです。イエス様の正しさは、いま私たちの正しさとなったのです。「救い」とは、 100%イエス様の正しさに依存するものです。

📖コリント人への第一の手紙 15:14 口語訳
“14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。”

あなたの信仰に土台を与えるものは、キリストがよみがえって、それがあなたの正しさになったという事です。キリスト者になるという事は、何か見せかけや架空を信じることではなく、現実の上を歩むことです。「キリストの死、埋葬、 復活」という現実です。 私は信仰によって...「成し遂げられ、終えられた十字架上でのキリストのはたらき」、への信仰によって正しいとされた。それが救いの土台で、枠組みです。 そして「正しい」とされる事で、断絶していた神様とのつながりと交流を持ち、真の命を生きるのです。すべては神様からの贈り物です。

📖コリント人への第一の手紙 15:20-22 口語訳
“20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。 21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。 22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。”

(2023年4月22日配付のトラクトより)

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