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悪夢小路と運命の器

ショービジネスでの成功を夢みる野心にあふれた青年スタンは、人間か獣か正体不明な生き物を出し物にする怪しげなカーニバルの一座とめぐり合う。そこで読心術の技を学んだスタンは、人をひきつける天性の才能とカリスマ性を武器に、トップの興行師となる。しかし、その先には思いがけない闇が待ち受けていた。 

 ナイトメア・アリーを見直した。個人的にはデルトロ映画のなかで一番好きだ。
 劇場で観た際、映画が気に入ったこともあり、原作小説も買って読んだのだが、こちらも小説ならではな描写がある。基本は主人公スタンの視点で物語が進んでいくが、時折、人称が狂い始めてくる。三人称になったと思ったら、唐突にアル中であるスタンの独白になっていくなど、地の文が混乱して狂っていく様子が描かれており、文体に異様な迫力を醸し出している。

 映画も小説もおおよその話の筋は同じだ。
 物語は円環構造になっており、エンディング迎える頃には主人公の末路を想像し、もはや笑うしかなくなる。クレジットが流れる最中、厭なもの観てしまったなぁという満足感があった。2時間弱の上映時間で主人公の抗えない運命を見せ付けられる感覚。劇場の帰り道は背中を丸めてトボトボ歩いていったのは憶えている。

 映画で描かれる運命と聞くと、思い出す言葉がある。以下は精神科医である春日武彦が映画(モンスター映画や怪奇映画などを中心に取り上げている)について語る「鬱屈精神科医、怪物人間とひきこもる」からの引用である。

 映画はそもそもその構造において〈運命の器〉とでも称すべき特性を持ち合わせているらしいということだ。しかもそれを受け止め実感する生理的要素が、大部分の人間には本来的に備わっている。

「鬱屈精神科医、怪物人間とひきこもる」

 主人公スタンの何処か自分の運命を引き寄せているように感じることから、この運命の器という表現は非常にしっくりくる。人生を2時間弱で切り取り、編集された映画は結果的に運命的なものを感じざる得ない瞬間がある。フィクションとはいえ他人様の人生を覗き見するような悪趣味な行為と言い換えてもいいのかもしれない。見せ物小屋を出発点にしたこの映画は、そんな悪趣味な世界と他人様の運命を覗き見ることで下世話な心を満たしてくれると再認識した次第である。


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