文章を書くということからのちょっと浅はかなリーダーシップ論
学生のレポートや実習記録などを見ていると、「うまく書けないんです」という文句にも似た悲痛さを訴えられる。エラそうに人の文章を添削している立場として、「そんなの~とか~~みたいに書くのがコツだよ」とスラスラ言えればよいが、文章を書くというのは本当に難しい。なにしろ自分の頭の中を相手にわかるように書かないといけないので、その前に一体自分が何をわかっていて何がわかっていないのか、何を伝えたいのかを明確にしないといけない。まさに「教養」のいることである。教養といえば、阪大の前総長の鷲田清一先生が、2008年の卒業生の式辞の中で「自分が何を知っていて何を知らないか、自分に何ができて何ができないか、それを見通せていることが「教養」というものにほかなりません」と言っていたことを思い出した。見通せること、私の中ではそれは文章を書くということとシンクロするのである。論文を書くときも、本を書くときも「見通し」がないと、面白さが全くない、「で、だから?」っていうものになり下がる。そうするとやはり教養というのは未来志向のオモロイものであるんだなと思う。
ところで、私は鷲田清一先生のファンである。阪大の総長だったので大先輩であり、大上司だったわけだが、ファンといったほうがなんだかしっくりする。と言っても顔も知らなかったのだが、その文章を読んで心をわしづかみにされた。先に紹介したフレーズは2008年の卒業式の式辞である。その年は私は博士課程に入学した年だった。阪大の総長の式辞はホームページで見れるが、それまで見たことがなかった。その年は自分も学生と社会人の二足のわらしを履くことになってしまい、自分で選んだ進路とはいえ楽しくもあったが毎日信じられないほどの山盛りのやることの中で、私生活でもいろいろとあり心をなくしかけていた。そこでなんとなく卒業式の案内を見て、私無事に卒業できるのかな、学位とれるのかなという漠然とした不安とも違う不確定さに苛まれていた。そこで見た式辞を読んで、不確定さの中でプカプカ浮かんでいたところにサメが全速力で迫ってきたような感覚に襲われた。何をやってるんだろうと思うヒマもなく奮い立つしかなかった。と、同時に、阪大のリーダーがこんな素晴らしい文章を届けられる人であることに心から感謝したのだった。リーダーを立派だと思えるなんてありがたいことだ。鷲田先生の式辞集は本にもなっているのでよかったらぜひ読んでほしい。
リーダーといえば、当研究室のボスは、自分で書いたホームページの文章なんて二度とみたくないというシャイなのかなんなのかわからない「厳かさ」を纏った人である。しかし鷲田先生のいうところの「教養」の深さはそれはもう超一流だ。そして会えばわかるが、人たらしで超絶面白く、人類はここまで進化したかと思うような反射機能を身につけている。おかげで楽しく勉強も仕事もできており、この人が上司でよかったと思う。このめぐりあわせに感謝。部下がこんなこと書くと、本人からはほんとハズカシイからやめてとか、周りからはオマエ何様?とか言われるかもしれないが、学生の文章をチェックしながらふと思ったのだった。記録のチェックしすぎてちょっと思考がぶっ飛んだのかもしれない。(アカデミックスタッフ:山川みやえ)
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