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D:インディグラウンド(95)] パク・チャングン「身につけた昨日、'国民歌手'以後はまったく変わりましたね」


入力2022.04.07。午前8時15分 修正2022.04.08. 午前1時53分
パク・ジョンソン記者

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この記事を読むと私には必ず胸が締め付けられる箇所と、
凄く共感できる箇所があります。

記事は言い回しの難しい言葉はあまり考えずそのまま日本語にしてますので、
気になる箇所は韓国語の元記事を読みそれぞれの解釈をして頂けると良いと思います。

(記事のリンクは中ほどにあります)

パク・チャングンさんは独特の感性をもっているため、時々本当に難解な文章を話す事があります。
国民歌手コンサートの 裏側を見せたYouTubeの中で、「ヨノは私のパンティのように大事です」と話した時、え?どういうこと?と思い、似た音で違う意味の言葉があるのだろうと探してもしっくりこず、Twitterで問いかけてみたら韓国のファンから、「それで正しい」とコメントがあり、よく言うユーモアなのかとまた問いかけたら、「チャングンさん独特のユーモアです」と返ってきました。
だから、え?と思っても訳したままの意味なのかもしれません。


テレビ朝鮮「明日は国民歌手」で最終優勝
[デイリアン=パク・ジョンソン記者] 歌手パク・チャングンは自身の過去を'身につけた日々'と定義する。どんな状況にも安住できなかった渇きと不安定さ、そして何かに向かった渇きと悟りなどの感情が着実に揺れ動いてきた過去だった。

しかし、彼は音楽に対する夢を最後まで諦めなかったしそのような着実さは偶然に来た決定的な機会を受け入れることができる基盤になった。彼に来た機会はテレビ朝鮮「明日は国民歌手」の出演だった。真正なパク・チャングンの歌は、世代を問わず大衆の心を鳴らした。また彼の歌に反応した大衆の応援で、彼はまたまた歌う力を得た。




-ある時より忙しい生活をしているようです。近況 まず聞いてください。

スピンオフと言います。コンテストが終わって続く放送番組の二つを続けて、一つは一段落しました。週末は国民歌手巡回コンサートが続いています。インタビュー、ラジオなどの日程を消化し、少しでも時間があるとファンから頂いた文やプレゼントの確認しながら過ごしています(笑)。

-'明日は国民歌手'に出演しながら若い層にも名前を知らせることになりました。

こういう放送があるから出演一度やってみるとどうかという話を聞いてたくさん迷っていました。オーディション番組は出演を考えるどころか、番組自体をよく見なかったんですよ。「誰かの音楽的色にどのように点数をつけ、等数をつけたのか」という考えでした。一ヶ月ほど、走りながらたくさん考えました。現実を受け入れ、今の私の状況もまた悟りました。もう一つ大きな目的が生じたのは、これまでソウルで一人でいる大息子の事が心配、生きる心配をしてきた母によい姿を一度放送でお見せしたかったです。やっと放送が出る頃が母の誕生日でもあったんですよ。特別な贈り物になることを望んでいました。

- 番組に出演しながら一番幸せだった瞬間、そして一番大変だった瞬間があったでしょう。

毎瞬間大変でぎこちなくて、それでも歌を一晩中難しく準備して歌う瞬間には短くても幸せでもありました。歌を仲間たちと一緒に作りながら弟たちとほど聞きました。ところがコンテストであるだけにまた評価されて心痛くなければならなかったのが最も大変でした。

-予選でのキム・グァンソクの'その日'の舞台は本当に感動的でしたが。また、この舞台で1位を獲得したりもしました。

キム・グァンソクの歌は私がやってきたフォーク音楽を見せるのに最も適していると思いました。みなさんブリッジの時、即興で笛を作って呼んだのに、その時火が点灯したんですよ。私は知らずに音が聞こえるので、ちょっと素敵だったし、「ただ一度姿を見せていこう」という任務を終えたんだなと思いました。

-何より最終順位文字投票結果が驚きました。最も高い得票率を記録したというのは、それだけ大衆の心を動かしたということでしょう。

コンテスト中にインタビューをする時は「国民の中には私のような、現在の放送やメディアから流れてくる歌では渇きが解消されず、心を置かない人がいるかもしれない。彼らに私の歌はちょっと違うことができ、彼らの疎外された心を慰めることができればいい。その数がどれくらいになっても…。』と言ってきました。ところが競演最後、決勝の時も思わぬことが起きたんです。私のような気持ちが思ったよりもはるかに多かったという思いがとても強かったです。しかし、その心をすべて表現することはできませんでした。(弟に)申し訳ない心も大きかったからです。過ごした苦悩の時間がただフィルムのように戻ったようです。



-毎回競演曲を選曲するのも容易ではないことだと思います。曲を選ぶのに最も重要だと思った基準がありましたか?

制作陣のアドバイスも重要でした。学んだことも多かったです。私が歌いながら感動することができ、それにしても少数のマニアファンだけでなく多くの大衆が納得が行く、心を鳴らす歌を選曲しなければならないというのが私の選曲基準でした。

-コンテストの中で最も記憶に残る審査委員の反応、あるいは評価があれば?

キム・ボムス様は歌手のディテールな部分を本当によく把握しておっしゃるようでした。だからか、ほぼすべての評価と感謝の言葉がすべて記憶に残ります。時にはパク・ソンジュ様の鋭い指摘も私の発展に大きな助けとなりました。


-放送出演前後で、一番変わった点なら?

どうやらファンがたくさん増えたという点ですね(笑)。ファンカフェもできて、調べてみる方も多いですよ。なくすか悩んでいた個人ホームページは、あまりにも多くの人々が接続してトラフィック容量を上げても閉じることを繰り返したほどでした。かつては夜12時リセットされる時だけドアが開かれ、「グンデレラ」というニックネームができたり、それを楽しむファンもできました。ハハ。今はトラフィック容量をもっと上げました(笑)。

-最近は新しいアルバムも出しました。これまでの音楽活動を決算した「ベスト」アルバムという点で意味がより大きいと思います。

流通会社のミラーボールミュージックの助けを借りて製作することができました。私の曲がすべて大切で、自分で選曲するのは難しかったんです。ミラーボールミュージックイ・チャンヒ代表が助けをたくさんくれました。欲を捨てて楽に、いつでも聞けるリストが選曲基準となったようです。リマスターで聞くのにちょっとフレンドリーになった部分もありますよ。これらの歌には私の病気で孤独で、一人で苦悩しながら頑張ってきたその時間の中の考えと話が込められています。CDが出てくると、一人で涙が出るようですね(笑)。

- このアルバムでは、一般の人々がどのようなメッセージを取得したいですか?

それぞれがどのように受け取るかは、彼らだけが知っています。個人的にそれが気になることもあります。一つの風があれば、年を離れて夢を見ることができ、感性が生きている少女で、空の雲と街の花が普通に見えないときめきと感動で周辺が新たに見える心がこのアルバムを通して生まれてくれることを願っています。


-過ぎた曲をまた聞いて、盛り上げながら先日を振り返るきっかけになったのも同じですが。

私の過去は、「身に着け」と定義できると思います。どんな状況でも安住できず、渇きとさまよう、どこかに向かった欲求。そして悟り、またまた繁栄… 。考えてみると、着実に揺動してきた心の波が感じられますね。


-先日話したキムに、初めて音楽を始めた時代の話も聞いてください。

ただ心に近づく歌があって歌いたいと思った心が起きたようです。4~5歳の時、叔母がテープに録音しておいた私の声をたまに聞くこともありますが、幼年からただ染まるように歌をしたようです。以後、歌謡を先輩たちの勧誘に入るようになって学科勉強より歌にもっと落ちましたが、ある日同僚の歌手友達が下校の道にバス停で「君は本当に歌って生きてもいいようだ」と言ってくれました。その言葉が職業としての歌を悩ませたきっかけになりました。その時ごろチョン・テチュンの歌詞が気に入って、このような感動的な歌に触れながら「私もこうして歌をしながら生きてもいい」という考えをしたようです。

-歌手をアップにして私は以後はただ楽しいだけではなかったと思います。

現生はビンセントのように生を締めくくると誓いました。それに比べて、私はあまりにも多くの愛を受けていると慰めました。事実40大中後半ごろ、「もうやめておこう」と思ったことがあります。精神がたくさん痛かった時期です。周囲の知人たちに「トッポッキ屋はいくらできますか」「コーヒーハウスはどのくらい必要か」と尋ねました。ところがギターと歌を止めるというのが恐怖でした。また面白いのは、もし音楽を止めたら、この道ではおしっこもしないという冷笑的感情も同時にありました。ところが、世の中には干してもすることになる、どんな状況でもやるしかない人がいると思います。その中に一人がまさに底です。

-20何年もの間歌手として活動し、歌手として変わらなかったことがあれば?

創作者は自分に率直でなければならず、私以外の姿での包装はできないということ。

-自分で考える「歌手パク・チャングン」の魅力ポイントは?

舞台でも、歌を作る時や私ではなく姿にしたことがありません。時には実際と舞台の姿がとても同じで、神秘さがないという指摘を受けたこともありました。帽子だと唐辛子があってアヌルがその深さの味に陥ると出られない沼のような?ハハ。

- 大衆にどんな歌手として覚えてほしいですか?

僕の人生の歴史を盛り上げてくれる歌をした歌手。

-これからどんな活動をしていくのか気になります。

まだ完全に自由な身体ではなく、個人の意志による活動は少し難しいですが、しばらくしてもう少し個人に集中できる状況が来れば、これまで意思と思ったことを計画することになると思います。創作活動はもちろん、私たちの周りがもう少し良くなる方向への努力も一つの宿題になりそうです。もう少し健康になって、多くの人に慰めの歌を聞かせ、いつも彼らが少女と少年のような心で生きていけるように、まともな影響力を与えることができる人として生きていくことが私の最終目標です。


パク・ジョンソン記者(composerjs@dailian.co.kr)

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