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珈琲をぶちまけても、愛

2023年2月25日。かっぱ橋商店街に行く。
フライパンがすこし焦げ付きはじめたので次のものを探すのと、あわよくば一生物を求めに。

かっぱ橋商店街は人並み以上に行く。無骨すぎて潔さすら感じるデザイン、めちゃめちゃ限られた用途、でも機能性は抜群でエクストリームな数々があって、想像の向こう側にいけるたのしさがある。

今使っているフライパンは、印度カリー子さん式のスパイスカレーを作ることが人並み以上にあり、『玉ねぎを焦げてもいいので強火で10分炒める』という工程が、命を削っている予感がしている。しかしおいしいからやめないと思うので、焦げ付きにくさというのはこれまで以上に求めている。街をまわってみると意外と手ごろな価格で思ったより軽い中華鍋もあり、ありかなと思った。
【未来の俺に追記】トマトの酸は中華鍋の膜をとっちゃうこともあり、手入れすれば問題ないが、それなりに手間も増えるらしい。それすらも愛でる精神でいこう。


道中、珈琲を入れた水筒の蓋の締めが見事にあまく、バックのなかにぶちまけてしまった。幸いデジタルなアイテムは入ってなかったものの、一冊の本が全体的に茶色くしわしわになってしまった。お気に入りの本だったが思いのほか心のダメージはすくなかった。

複合的な理由がありそうだが、本に状態に関して許容の程度が高まっているのが大きいかと思う。これから何度も読んでいくだろうからいつかは汚れるものだったとか、乾いているか確認ついでに読む機会ができたとか適当な理由をあげてあまえる腕をあげたのか、それなりにはへこたれない愛着ができたのだろうか。


こぼしてしまった本を読むとなにか近い記述があった。

共に生きるということは、ある程度の汚れを許容するということでもある。どこまでも純潔を求めることから差別が生まれる。あらゆる差別は、程度の問題を、選択の問題だと読み替えることから生まれてくる。

平川克己『共有地をつくる』


共に生きるという部分を、『生活の一部にする』と換言してみると今の自分はしっくりきた。
長いこと続けていると許容は広がっている。
趣味が習慣に、習慣が無意識に変わっていくと気づかないものだが変化している。


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