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「『特別』で『普通』」と「『特別』で『特別』」のはざまで

学生時代、「横道世之介」という映画を見た。

大学生として東京で一人暮らしをする横道世之介という人物の生き様にスポットを当てた映画だった。

世之介はサークルに入ったり、友だちと講義を受けたり、恋仲になる女の子を作ったりと、一見それなりに楽しそうなカレッジライフを送っている。少なくともバイトと球場ばかりに行っていた僕の大学生活よりかは、余程見栄えが良い。

しかし、彼には映画の主人公になれるほどの光る部分はあまりない。
それは信念なのか、尖った人間味らしい部分なのか、よく分からない。
要は、「普通」の人間なんだと思う。

その、どこかのっぺりとした彼の生き様の通り、彼は充実しているかのように見えた大学時代を終えると、大学で出会った人との繋がりは一旦萎み、世之介はまた別の道を歩き出す。そんな作品だった。

僕がこの映画のことを覚えているのは、次の2つがあったから。

1つ目は、世之介が作中で通っていた大学・学部が、視聴時の僕が通っていたそれと同じだったこと。
僕はこれで、「普通」のはずの世之介が、急に「特別」な存在に見えた。
もしかしたら僕が大学で座っている席の周りの誰かの話かもしれないと、視聴中に少し錯覚した覚えがある。

2つ目は、月日が経った終盤に世之介が死ぬこと。
これは実際に起きた鉄道事故がモチーフとなっているそうだが、世之介をそれに当てはめなければいけない蓋然性はなかったように感じる。

けれど、とにかく世之介は死んだ。
死に蓋然性はない。そこにある、一つの事象に過ぎないと言わんばかりの痛烈なメッセージだった。


世之介は、とても「普通」の学生だった。けれど、周りを見渡すと、ちょっとおかしい人、少しだけ面白い人、めんどくさそうな人、世之介の周りには色々な「普通」そうな人がいた。

世之介の一生を見守った僕は、映画を見終えて横道世之介を「特別」なキャラクターだと感じていたが、おそらく劇中の他の登場人物たちは世之介のことを「普通」だと思ったまま、知らない間に疎遠になっている。そして、気付けば世之介は死んでいた。


本当に、「人生みたいだな」と、心の底から思った。

出会いと別れを繰り返す人の一生の中で、他者に対して抱く「普通」と「特別」を隔てるものが何なのか、僕には分からない。

それはもしかしたら、
共通点の多さかもしれないし、
一緒にいた時間の長さかもしれないし、
尊敬できるかどうかかもしれないし、
自分を認めてくれるかどうかかもしれない。

けれど、多分、そういう文言で片付けられることに、人間は「特別」を見出す訳ではないんだと思う。


ここまで書いてきて、「普通」か「特別」かを決めるのは、あくまで僕自身なのだと気がついた。
僕自身が特別かも、誰か他者を特別かどうか決めるのも、結局は僕だった。

それもそうかと振り返ってみると、僕には自認している範疇では多くの特別な人がいる。

一緒にいると和んで楽しい人、
ワクワクする気分をくれる人、
見ているだけで元気をもらえる人。

そして、特別な人は何も自分と関わりあいがある人だけではない。
テレビ越しにしか見たことがない芸能人や、チケットを買って見に行くアーティストやスポーツ選手だって僕にとっては特別な人だと思う。

それでもなお、「普通」と「特別」の線引きを求めようとする僕は一体何なんだろうと煮詰めて、一つの結論を得られた気がする。


僕が思う特別とは、「特別」だと思っていて「普通」だと思われている他者ではなくて、「特別」だと思っていて「特別」だと思われている他者のことだった。


すごく簡単な話だったように思う。
けれど、理解するのも、実際にそうなるのも、凄く難しい話。

良い2022年を過ごしましょう。

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